世界大百科事典(旧版)内の陶澍の言及
【塩法】より
…明中期から清初への銀経済と好況の波にのり,揚州の塩商の活動はめざましく,文学,芸術のパトロンともなり,また塩商の中から学者,政治家を輩出することになる。 しかし,19世紀に入ると,中国経済の崩壊とともにこうした塩法も行き詰まり,1830年(道光10)両江総督の陶澍によって改革が試みられた。それは豪商の特権を廃棄し,銀を塩政関係の役所に納入すればだれでも塩が販売できる制度であったが,必ずしも十分の効果はあがらなかった。…
【道光帝】より
…廟号は宣宗。陶澍(とうじゆ)(1778‐1839)の塩政改革によって財政の立て直しをはかったが,時すでに遅く,官場の腐敗や満州八旗の堕落,銀価の高騰などによって,清王朝の内部矛盾をますます激化させた。さらにアヘン戦争の敗北と屈辱的な南京条約の締結は,外国列強の侵略を招き,中国の半植民地化への道を開くものとなった。…
※「陶澍」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」