世界大百科事典(旧版)内の隅田党の言及
【隅田氏】より
…しかし一族には足利尊氏の下で後醍醐天皇方についた者もあり,鎌倉幕府の滅亡後,隅田北荘は隅田一族に安堵された(南荘は高野山領となる)。滅亡した惣領家にかわり,葛原氏,上田氏ら有力庶子家を中心に,隅田八幡宮を氏神とする合議的な一族の結合が生まれ,隅田党と呼ばれた。隅田党は南北朝時代には南朝方となり,室町時代には守護大内氏,畠山氏に属し,のち織田信長に仕えて高野攻めに加わり,ついで豊臣秀吉に従ったが振るわず,江戸時代には紀伊藩主徳川氏の下で,隅田組として地士身分を与えられた。…
【隅田荘】より
…鎌倉時代の13世紀初めに藤原氏(隅田氏)の請所となって石清水の支配は後退したが,地頭職は守護北条氏の手に帰し,隅田氏は地頭代職の地位にとどまっている。荘内には隅田惣領家から分かれた庶家が広範に分布し,彼らは隅田八幡宮の宮座を通じて他氏をも取り込み,隅田党という独自な武士団を構成した。元弘の乱で,当時六波羅探題の検断,軍奉行であった惣領家が北条氏とともに滅びると,かわって葛原氏が台頭し,室町時代には一族結合の中心となった。…
※「隅田党」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」