世界大百科事典(旧版)内の雉供御人の言及
【鷹飼】より
…しかし《山槐記》永暦1年(1160)12月15日,18日条によると,鷹飼職の補任は蔵人所牒をもって行うのが〈近代の例〉といわれ,実際に1218年(建保6),1248年(宝治2),河内国交野禁野あてに下毛野能武・武貞を鷹飼職に補任した牒が〈調子文書〉に伝わっていて,下文でなく牒による補任が例となったことを知りうる。一方,1106年(嘉承1),近江供御所に属した雉供御人と重なる鷹飼が伊香郡,栗太郡にいたことを確認することができるが(〈打聞集紙背文書〉),この人々は鎌倉時代までに鳥供御人となり,やがて室町・戦国期,鳥座の商人になっていったものと思われる。 下って1537年(天文6),河内の禁野交野御鷹飼料所が綸旨により秦兼照に与えられたこともあって,多少の動揺もみられるが,そのころには調子氏と名のるようになった下毛野氏が戦国期まで鷹飼職,交野禁野米等を知行していたことは,〈調子文書〉によって確認することができる。…
※「雉供御人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」