世界大百科事典(旧版)内の電気館の言及
【浅草】より
…1873年浅草寺域は浅草公園に指定され,のち園地は一区観音堂,二区仲見世,三区伝法院,四区木馬館一帯,五区花屋敷一帯,六区興行街の6区画に整備された。そのうち六区の興行街は1903年に日本最初の常設映画館〈電気館〉ができて東京の大衆娯楽の代表地となり,浅草公園の代名詞ともなった。23年の関東大震災後,浅草は一時衰微したが,27年には日本最初の地下鉄が上野~浅草間に開通し,31年に東武鉄道が現在の浅草駅に乗り入れるようになって交通の便もよくなり,再びにぎわいをみせた。…
【映画】より
… もう一つ映画を指す〈モダンな〉ことばとしてキネマがあり,1913年にイギリスからキネマカラーが輸入され(そこから天然色活動写真株式会社が生まれる),その直後,帰山教正の同人雑誌《活動備忘録“FILM RECORD”》が《キネマレコード》と改名。19年には《キネマ旬報》が創刊,また翌20年には松竹キネマ,帝国キネマ,23年には東亜キネマといった映画会社が創立され,映画館の名まえにもキネマと名のつくものが次々に出た(日本の映画館は浅草の〈電気館〉(1903)と名づけられたものから出発したが,ロサンゼルスに作られた世界最初の常設館といわれる映画館も〈エレクトリック・シアターThe Electric Theatre〉であった。)。…
【日本映画】より
…
[日本最初の劇映画《稲妻小僧》]
同じ99年,柴田常吉は広目屋の依頼で,強盗が刑事に捕らえられるという内容の《稲妻強盗》を俳優を使って撮るとともに,9世市川団十郎と5世尾上菊五郎の歌舞伎《紅葉狩》を歌舞伎座の依頼で撮影し,前者は日本最初の劇映画とされ,後者は現存する最古の日本映画となった。映画興行はこのころより盛んになり,初めは寄席や見世物小屋で行われたが,早くも1897年には浅草六区に,バラック建ての小屋ながら日本シネマトグラフ館という映画館がつくられ,やがて1903年,同じ浅草六区の電気館が最初の本格的映画館となった。
[風景と戦争]
上映される作品は風景映画とでもいえるものがまず多く,内外の風景を実写しただけの映画を見ることが,〈動く写真〉によるいながらの観光として人気を呼んだ。…
※「電気館」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」