霞が関ビル(読み)かすみがせきびる

世界大百科事典(旧版)内の霞が関ビルの言及

【鹿島建設[株]】より

…戦後は,47年に社名を鹿島建設(株)に改めるとともに,積極的な経営と技術開発力によって大手の地位を確実なものとした。68年には,霞が関ビル(36階)を完成させ,超高層ビル建設の先鞭をつけた。4代目社長鹿島守之助の経営手腕もあって,このころ以降82年まで業界首位の売上高を実現した。…

【近代建築】より

…第4に,前衛的建築家は近代後(ポスト・モダン)を模索し始めるが,近代初期のような連帯感は失われており,それぞれが個別に理想と方法を追求した。戦後60年代までの代表的な建築として,神奈川県立近代美術館(1951,坂倉準三),リーダーズ・ダイジェスト東京支社(1951,レーモンド),香川県庁舎(1958,高松,丹下健三),東京文化会館(1961,前川国男),国立屋内総合競技場(1964,丹下健三),国立京都国際会館(1966,大谷幸夫),霞が関ビル(1968,山下寿郎設計事務所)などが挙げられよう。
[日本的伝統と近代建築]
 ヨーロッパにおける近代建築は,19世紀までの伝統の継承の上に展開したのではなく,むしろそれからの意識的な断絶を標榜しつつ成立した。…

【事務所建築】より

…日本においてもアメリカの流れを受けて東京や大阪といった大都市に大型の事務所建築が建設されていったが,建築基準法によって建物の高さ(絶対高さ)が31mに制限されていたため,いたずらに投資効率のみを求めて敷地いっぱいに建てる建物が多かった。しかし,大都市の無秩序な発展による都市環境の混乱と悪化は,建物の高層化の気運をもたらして,1961‐63年にかけて絶対高さの撤廃,特定街区制度の新設などの法的整備が行われた後,日本最初の超高層事務所建築である霞が関ビル(1968,147m)が誕生した。合理的な事務室空間をもつ,構造的にも防災計画上も安全性の高い霞が関ビルは,その後新宿副都心に建設された新宿三井ビル(1974,210m)をはじめとする一連の超高層建築群の出発点となった。…

【超高層建築】より

…法的整備が整う中で,1961年には大型H形鋼の国内生産が開始され,また高速エレベーターの開発も実用段階に入っていた。このような背景のもと,68年,日本最初の超高層建築である霞が関ビル(36階,147m)が完成,これ以降,京王プラザホテル(1971。47階)をはじめ,74年までに新宿住友ビル(53階),新宿三井ビル(55階)が新宿副都心に建設された。…

【不動産業】より

…マンションは当初都心の高級住宅として登場したが,その多様な立地展開と大量建設によって多様な価格設定が可能になり,都市住宅として普及していった。一方,1968年の三井不動産による日本初の超高層ビル〈霞が関ビル〉の完成を皮切りに,大手民間不動産会社による超高層ビルの建設が始まり,大手は従来のビル賃貸業から都市再開発を推進するデベロッパーへの転身が進んでいった。 しかし昭和40年代後半になると,1971年のドル・ショックとこれに続く金融緩和,〈日本列島改造論〉によって刺激された土地ブームのもとで,大小を問わず不動産業者は土地買いに殺到し,土地価格は暴騰してインフレ状態がもたらされた。…

【三井不動産[株]】より

…もう一つは昭和40年代から全国各地で展開された住宅事業である。さらに68年には日本初の超高層ビル霞が関ビルを賃貸ビルとして建築,以後賃貸ビル部門でも積極的な事業展開をはかった。その後,81年に日本最大の複合ショッピング・センター〈ららぽーと〉を千葉県に開設,83年にはみずから大株主の東京ディズニーランドを開設するなど,新規事業に積極的に取り組んでいる。…

※「霞が関ビル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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