世界大百科事典(旧版)内の飯豊天皇の言及
【飯豊青皇女】より
…《日本書紀》では皇女の兄弟にあたる億計(おけ)・弘計(おけ)の2王が皇位を譲り合ったためとし,《古事記》の清寧段では,姨の皇女がその後に播磨に2王をさがさせたとし,諸伝に混乱がみられる。皇女を《日本書紀》では天皇としていないが,《扶桑略記》では〈飯豊天皇〉とし,中継ぎの女帝としての即位を認めている。《日本書紀》では清寧5年11月に没し葛城埴口陵に葬られたとされ,《本朝皇胤紹運録》などでは45歳であったと伝える。…
【女帝】より
…《日本書紀》では神功皇后が仲哀天皇の死後69年間摂政したとするが,史実かどうか疑わしい。6世紀の初め,市辺押磐王の女(妹ともいう)飯豊青(いいとよあお)皇女が,清寧天皇の没後皇位につく人がなかったので,約1年間政治をとったといい,《扶桑略記》はこれを飯豊天皇とする。事実としても短期間の臨時のことで,女帝というほどではない。…
※「飯豊天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」