世界大百科事典(旧版)内の鬮持制の言及
【宇和島藩】より
…このとき秀宗は五男宗純に吉田藩3万石を分知し,宇和島藩はふたたび7万石となった。70‐72年(寛文10‐12)の寛文検地(内(うちならし)検地)によって鬮持(くじもち)制を実施した。これは耕地の交換分合を伴う農民階層(本百姓・半百姓・四半百姓,無縁)の固定を目的とし,同時に貢租体系と庄屋制の確立をめざした。…
【割地・地割】より
…地割という場合には,一般には単に土地を計画的,人工的に区分し割りつけるという意味に用いられる。日本では古代班田制の時代における条里制の施行によるものや,平城京,平安京内の条坊制によるものがあり,明治以後は土地の一区画ごとに地字,地番を付けている。 他方,ここにいう割地・地割とは,江戸時代の土地制度としての土地の定期割替制(一定期間ごとに土地を農民に割り当てなおす慣行)のことである。加賀,能登,越前,越中,越後,信濃,尾張,伊勢,丹後,常陸,岩代,土佐,伊予,豊後,筑前,肥前,日向,薩摩,壱岐,対馬,琉球などの各地で行われた。…
※「鬮持制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」