鳴海荘(読み)なるみのしょう

世界大百科事典(旧版)内の鳴海荘の言及

【鳴海】より

…鎌倉時代になると,熱田から二村(ふたむら)山(現,豊明市)へ通ずる鎌倉街道沿いの地としてさかえ,また古代・中世の紀行文などに〈鳴海潟〉〈鳴海浦〉などと記されており,歌枕でもあった承久の乱後に清和源氏の流れをくむ小笠原清時とその子が鳴海余一を称しており,この一族が鳴海に勢力をもっていたと思われる。南北朝初期までには東西2荘よりなる鳴海荘が内裏料所として成立していた。同荘は1357年(正平12∥延文2)に御祈料所として北朝より京都醍醐寺三宝院門跡光済に知行が認められ,同門跡領として相承されていたが,1426年(応永33)いったん朝廷に取り上げられ,京都相国寺塔頭大徳院荘主に与えられた。…

※「鳴海荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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