知恵蔵 「麻原彰晃」の解説
麻原彰晃
畳職人を父に6男3女の4男として熊本県八代市に生まれた。先天性の病気により左目はほとんど視力がなく、盲学校に入学し寄宿舎で生活、高等部専攻科まで進み鍼灸免許を取得。東京大学受験を試みるが果たせず千葉県船橋市に鍼灸院や漢方薬局を開き、占いや仙道、新興宗教などに傾倒。1983年に東京都渋谷区に仙道やヨガ、東洋医学などを混在させた能力開発の学習塾を開き、翌84年にはこれをヨガ道場「オウムの会」と変え、86年には宗教団体「オウム神仙の会」に改組した。この前後に神の啓示を受けたとか、ヒマラヤで最終解脱したなどと称して、87年には「オウム神仙の会」を「オウム真理教」に改称した。空中浮遊と称する座禅を組んで飛び跳ねた瞬間の写真や、ダライ・ラマとの接見などを宣伝に利用して教団の勢力を拡大。89年には、男性信者殺害事件や坂本堤弁護士一家殺害事件を起こしていた。このころには右目の視力もほとんど失っていたという。90年に衆議院議員総選挙に出馬、教団をあげての奇矯なパフォーマンスで選挙活動を行い衆目を集めるが惨敗。選挙にトリックがあったなどと主張し、ポアと称する殺害や破壊が救済や修行であるとしてテロを計画した。また、91、92年には、頻繁にテレビ出演するなどして知名度を高めていった。衆院選惨敗後は、本格的に非合法路線に舵(かじ)を取り、炭疽(たんそ)菌の培養やサリン製造、小銃密造を進めた。94年6月には松本サリン事件、95年3月には地下鉄サリン事件を起こし、合わせて21人を殺害、重軽傷者は数千人に及ぶ。同年5月に山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)の教団施設「サティアン」の隠し部屋に潜伏中のところを逮捕された。オウム真理教を巡る大多数の事件で起訴されたが、96年の初公判以来「弟子たちの暴走であって、自身は指示していない」などとして無罪を主張。不規則発言や意味不明な発言や居眠りを繰り返していたが、2002年ごろまでには受け答えがなくなった。257回に及ぶ公判を経て04年に東京地裁で死刑判決が言い渡された。東京高等裁判所では、弁護団から訴訟能力に否定的な精神鑑定書が示されたが、高裁の依頼による鑑定では「訴訟能力は失っていない」とされた。これらを巡る紛糾などから控訴趣意書の提出が遅延し06年に控訴棄却となった。このため、弁護団は最高裁判所に特別抗告を行ったが、同年9月に棄却され、死刑判決が確定した。その後再審請求を2回行ったが、いずれも棄却された。このころには意思疎通がほとんどできず、奇行を見せるなど廃人同様と形容される状態にあったが、詐病ではないかとも疑われ、その真偽については様々な意見が取りざたされた。刑法479条では「死刑の言渡を受けた者が心神喪失の状態に在るときは、法務大臣の命令によって執行を停止する」とあるが、18年7月には上川法務大臣が死刑執行命令書に署名し、オウム真理教事件での確定死刑囚13人のうち、麻原を含む7名は7月6日に、残る6人は26日に刑が執行された。一連の事件後教団はいくつかに分裂したが、今なお麻原に帰依する信者も少なからず存在し、遺骨の引き取りを巡って妻や子どもの間で争われている。
(金谷俊秀 ライター/2018年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報