世界大百科事典(旧版)内のAdoula,C.の言及
【コンゴ動乱】より
…根拠地スタンリービル(現,キサンガニ)へ脱出をはかったルムンバは61年2月に虐殺されたが,これより先,ルムンバ派のギゼンガAntoine Gizenga副首相が60年12月にスタンリービルで中央政府の樹立を宣言した。このように政局は混迷の度を強めたが,61年8月に中道派のアドゥラCyrille Adoulaを首班とする挙国一致内閣が発足してスタンリービル政権は自主的に解消し,南カサイも62年9月に分離独立を撤回した。他方,カタンガだけは国連,アメリカなどの調停でコンゴの不可分性の原則を認めながらも分離の状態をつづけたが,62年末に始まる国連軍の総攻撃に屈し,チョンベが63年1月同州の分離を撤回してコンゴの一体性は回復された。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」