世界大百科事典(旧版)内のHenrietteKarolineChristianeの言及
【ヘッセン】より
…ヘッセン方伯は1803年選帝侯となり(以後ヘッセン・カッセルはクールヘッセンKurhessenと呼ばれる),1830年の革命ののち31年に憲法も発布されたが,その後も反動的な君主,政府と国民の間に紛争が絶えず,それは1866年この国がプロイセンに併合されるまで続いた。 他方,ヘッセン・ダルムシュタットは,18世紀末の方伯妃ヘンリエッテ・カロリーネHenriette Karoline Christiane(1721‐74)の文芸サロンが知られるほかは取りたてて注目されるような国ではなかったが,ナポレオン時代の1806年に大公国となり,〈ライン同盟〉の一つとして領土を大幅に拡大,また20年に憲法も発布して国の地位を高めた。66年普墺戦争に際してはオーストリア側についたが,クールヘッセンとは違って取りつぶしは免れ,北ドイツ連邦(マイン川以北地域に関してのみ加盟)を経てドイツ帝国の構成国になった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」