世界大百科事典(旧版)内のHenrykWalezyの言及
【ザモイスキ】より
…そのとき得たポーランドの法律や慣例に関する知識が,のちの早い出世を可能にすることになる。 72年に国王が死去してヤギエウォ朝の男系が断絶し,初めて国王が選挙で選ばれることになり,ザモイスキの主張どおりすべてのシュラフタが参加した選挙(現実には不可能で,あくまでもたてまえ)で,74年,ヘンリク・バレジHenryk Walezy(バロア家のアンリ,のちのフランス国王アンリ3世)が国王に選出された。ザモイスキは即位要請の使節としてパリに出向いていった。…
【ポーランド】より
…(3)空位期,国王選挙 ところが〈旧法執行運動〉のよき協力者であり,またルブリンの合同の積極的な推進者でもあったジグムント・アウグストが,子どもに恵まれないまま1572年に死んだため,ポーランド王国は最初の空位期と最初のシュラフタ全員による国王選挙を経験することになった。73年にワルシャワで最初の国王選出セイムが召集され,フランス・バロア家のアンリ(のちのフランス国王アンリ3世)が選ばれ,ヘンリク・バレジHenryk Walezyとして即位した。しかしヘンリクは翌年フランス王位に即くために帰国してしまい,75年にあらためて国王選挙が実施され,トランシルバニア公バートリが選ばれ,ステファン・バトーリStefan Batoryとして即位した。…
※「HenrykWalezy」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」