世界大百科事典(旧版)内のMairet,J.の言及
【古典劇】より
…彼らの時代はいわばフランス古典劇の準備時代であった。一方,アリストテレスの《詩学(創作論)》から新しい演劇理論を生み出そうとする動きがイタリアで起こり,スカリゲルJulius Caesar Scaliger(1484‐1558),カステルベトロRudovico Castelvetro(1505‐71)らの著述がフランスに紹介され,ラ・タイユJean de la Taille(1540?‐1617?),メレJean Mairet(1604‐86),J.シャプラン,ドービニャック師らにより一つの理論体系にまとめあげられていった。それは,(1)悲劇と喜劇の明確な区分。…
【フランス演劇】より
…イタリア喜劇団は国王の庇護の下にパリの芝居の重要な要素であり続けるし,40年代には,宰相・枢機卿マザランの努力でイタリア・オペラが導入され,G.トレリ,ビガラーニの〈機械仕掛け〉による音楽入り大スペクタクルは,フランスにおけるオペラとバレエの成立に決定的な役割を果たす。しかし,真にフランス演劇をフランス演劇たらしめたのは,1637年初演のコルネイユ作《ル・シッド》から77年初演のラシーヌ作《フェードル》に至る40年間の,いわゆる〈古典主義劇作術〉確立の体験である(なお,古代作家を規範とした〈規則にかなった悲劇〉の最初のものは,ロトルーの《死にゆくエルキュール》とメレJean Mairet(1604‐86)の《ソフォニスブ》で,ともに1634年の作であり,コルネイユは《シンナ》《オラース》でそれを果たす)。上記《ル・シッド》,モリエールの《女房学校》,ラシーヌ《アンドロマック》という17世紀の三大ヒットは,同時に三つの大論争の場であり,《ル・シッド》論争のごとくアカデミー・フランセーズの介入で始まった規則議論から,後2者についてのようにライバル劇団による批判劇上演までを含めて,それらはなまなましい現場的事件であった。…
※「Mairet,J.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」