世界大百科事典(旧版)内のNiccoli,N.の言及
【人文主義】より
…すなわちオスマン帝国の圧迫によって滅亡寸前にあったコンスタンティノープル(現,イスタンブール)から,ギリシア人の西ヨーロッパへの移入が相継ぎ,とくに1438‐39年に開かれた東西宗教会議(フェラーラ・フィレンツェ公会議)を機に,プレトン,ベッサリオン,アルギュロプロスIōannēs Argyropoulos(1410‐90)など一流の学者が渡来したことは,イタリアのギリシア学に大きな刺激となった。すでに始まっていたギリシア語学習は,ニッコリNiccolo Niccoli(1364‐1437)らによってすすめられていたギリシア古典の収集と相まって,次々にギリシア古典の翻訳をすすめていったが,すぐれたギリシア学者たちの参加によって質量ともに変化発展する。とくに目を引くのは,プラトン学の発展で,そのため15世紀後半の人文主義はルネサンス新プラトン主義とも呼ばれるほどプラトンの影響を強く受けた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」