世界大百科事典(旧版)内のPtolemaiosKeraunosの言及
【マケドニア】より
…彼はエペイロス(エピロス)王ピュロスとトラキア王リュシマコスの連合軍のため追われ,ピュロスはリュシマコスに追われた(前286ころ)。さらにリュシマコスがシリア王セレウコス1世と戦って死ぬと(前281),エジプト王プトレマイオス1世とアンティパトロスの娘の間に生まれたプトレマイオス・ケラウノスPtolemaios Keraunosがマケドニア人に王とされたが,彼はバルカン半島に侵入したケルト人との戦いで敗死した(前279)。そしてデメトリオスの子アンティゴノスがケルト人を撃破してアンティゴノス2世(在位,前276‐前239)として登位し,マケドニアにアンティゴノス朝を確立した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」