世界大百科事典(旧版)内の《Quadrilogueinvectif》の言及
【シャルティエ】より
…パリ大学で学士となったのち,1418年9月16日のブルゴーニュ派パリ制圧の際に,王太子の後を追ってパリを脱出,その後10年間,〈ブールジュの王〉(シャルル7世のあだ名)の秘書官を務め,神聖ローマ帝国,ベネチア共和国,スコットランド王国などへ,王の使者として赴き,内乱への外国の介入を防ぎ,力の均衡をはかるかたわら,国内に向けては,新王の立場を擁護するプロパガンダ論文をラテン語で逐次発表した。フランス語による散文作品《四人讒罵(ざんば)問答Quadrilogue invectif》(1422)においては,戦乱に対する社会各層の責任を鋭く追及し,それによって〈フランス雄弁の父〉の名を後世与えられ,《つれない姫君Belle dame sans merci》(1424)では,自立する女性を登場させて物議をかもすと同時に,最も高名な詩人となり,その後,半世紀にわたって,すべての詩作者を彼の影響下におくこととなった。晩年にはきわめて内省的で暗い《希望の書Livre de l’espérance》(1429)を綴り,ジャンヌ・ダルクの出現をさる外国の王に知らせる書簡が絶筆となった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」