世界大百科事典(旧版)内のQuesnel,P.の言及
【ジャンセニスム】より
…やがて政治上の理由から〈教会の和約〉(1669‐79)と呼ばれる妥協が成立し,ポール・ロアイヤルはつかの間の平安と隆盛を味わった。この間ジャンセニスムはしだいに党派の様相を呈するに至ったが,アルノーの死(1694)後,その指導者となったのはケネルPasquier Quesnel(1634‐1719)である。問題は18世紀に入ると再燃し,1709年にはポール・ロアイヤルが閉鎖され,13年にはローマ教皇の大勅書《ウニゲニトゥス》が発布されてケネルの教説を断罪するが,運動は鎮静化せず,ローマの決定に異を唱える多数の聖職者たちが公会議の開催を上訴するに至る。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」