Tikhonov,N.A.(その他表記)TikhonovNA

世界大百科事典(旧版)内のTikhonov,N.A.の言及

【ソビエト連邦共産党】より

…さらに〈発達した社会主義〉と全人民国家建設(全人民国家論)をめざしたブレジネフ憲法(1977)を公布した。また77年ブレジネフはソ連邦最高ソビエト幹部会議長ポドゴルヌイN.V.Podgornyi(1903‐83)を失脚させてその地位につき,チェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenko(1911‐85)を政治局員に登用し,また80年コスイギン首相の死後はチーホノフNikolai Aleksandrovich Tikhonov(1905‐97)を首相にするなど,ブレジネフの個人的権威は高まり,82年のスースロフの死去でこの傾向はいっそう強められた。しかし経済成長は止まり,また1979年末のアフガニスタン侵攻や戦略兵器制限交渉の棚上げにより対米関係が冷却化し,また〈連帯〉をめぐるポーランドにおける諸事件などで,労働者の前衛という党の正当性の根拠が問われる事態となった。…

※「Tikhonov,N.A.」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

4月1日の午前中に、罪のないうそをついて人をかついでも許されるという風習。また、4月1日のこと。あるいは、かつがれた人のこと。四月ばか。万愚節。《季 春》[補説]西洋もしくはインドに始まる風習で、日本...

エープリルフールの用語解説を読む