世界大百科事典(旧版)内のZygmuntIIAugustの言及
【ポーランド】より
…すでに1525年,ルター主義の普及で崩壊の危機にしたドイツ騎士団を,ジグムント1世父王Zygmunt I Stary(1467‐1548。在位1506‐29)はプロイセン公国としてその保護下に置いたが,61年にジグムント2世アウグストZygmunt II August(在位1529‐72)は,同じ危機に直面したリボニアの刀剣騎士団の旧領地の西半分をクールラント公国としてその保護下に置くとともに,その東半分をポーランドに併合してしまった。この処置にロシアのイワン世(雷帝)が反対し,以後およそ1世紀も続くことになるリボニア戦争が始まることになった。…
【ヤギエウォ朝】より
…その後カジミエシュ4世の長子ブワジスワフがボヘミア王位,次いでハンガリー王位にも迎えられて(ボヘミアではブラジスラフ2世Vladislav II,ハンガリーではウラースロー2世Ulászló IIと呼ばれる),ハプスブルク家と覇を争うまでになったが,その子ルドビクLudwik(ボヘミア王ルドビーク1世Ludvík I)がオスマン・トルコとのモハーチの戦で落命してボヘミア・ハンガリー王位を失う。ポーランドの王家も第7代ジグムント2世アウグストZygmunt II Augustで男系が絶えて断絶する。こののち選挙王制下でジグムント2世の甥がジグムント3世として,またその子らがそれぞれブワジスワフ4世,ヤン2世カジミエシュJan II Kazimierzとしてポーランド王に選ばれている。…
※「ZygmuntIIAugust」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」