世界大百科事典(旧版)内のヒルデベルトの言及
【メロビング朝】より
…しかし,ブルグント分国王グントラム(在位561‐593)が兄弟諸王の死により,彼らの遺児の後見人となり,同朝の危機,すなわち東分国貴族が支援する,前王クロタール1世の庶子グンドバルドのクーデタを切り抜け(584),同時に貴族勢力の制圧にも成功した。グントラムは東分国王ヒルデベルト2世(在位575‐595)および母后ブルンヒルデと,ヒルデベルト2世をみずからの相続人と定めるアンデロー協約を結び(587),ブルグントのローマ的基盤に立つ中央集権的政策を展開した。グントラムの死後,同協約に基づき成立したアウストラシア・ブルグント分国は西分国を圧倒したが,ヒルデベルト2世の死で(595),同分国は再び2人の子(テウデベルト2世とテウデリヒ2世)の間で東分国とブルグント分国とに分割される。…
【ピピン[2世]】より
…アウストラシア宮宰(680ころ)であったが,ネウストリアおよびブルゴーニュ宮宰エブロインEbroinに敗れた(680)。しかしエブロインが暗殺されたので,これら両宮宰職をも兼ね,ヒルデベルト3世Childebert III(683ころ‐711)の下に,フランク王国の再統一をなしとげた(687)。添名の〈エルスタル〉は,その宮殿の所在地(リエージュ付近)による。…
※「ヒルデベルト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」