世界大百科事典(旧版)内の檜前忌寸の言及
【漢氏】より
…東漢は,大和国高市郡を中心に勢力をひろげ,7世紀までに,坂上・書(ふみ)・民・池辺・荒田井など多くの直(あたい)姓氏族にわかれ,天武天皇の八色の姓(やくさのかばね)において忌寸(いみき)姓に改められ,8~9世紀には,坂上氏を中心に政界に地歩を占め,宿禰(すくね)・大宿禰を賜る氏もあらわれた。彼らは政界だけでなく,在地でも檜前忌寸(ひのくまのいみき)と総称され,檜前寺を氏寺とし,高市郡の郡司を歴任するなど勢力を保った。西漢は,河内国丹比・古市2郡を中心に,近接して居住し,文・武生・蔵の首(おびと)姓,船・白猪(しらい)・津の史(ふひと)姓などの各氏にわかれたが,東漢ほどの勢力はなく,八色の姓でも,忌寸をあたえられたのは文(書)首など少数にとどまった。…
【東漢氏】より
…このような多数の同族を代表する氏上(うじのかみ)は,7世紀末の壬申の乱のころは書直,8世紀前半の養老より天平までは民忌寸,天平以後は坂上忌寸(のち宿禰)と変化したらしい。彼らは〈檜前忌寸(ひのくまのいみき)〉と総称され,高市郡の郡司に任ぜられ,高市郡内に他姓のものは十中一,二といわれるほど集住性が高かった。 このような倭漢氏の同族関係が変化するのは,平安時代に入って承和年間(834‐848)各氏の忌寸,宿禰姓のものが,ともに内蔵朝臣に改姓されたころからで,帰化氏族の特性は失われ,日本の貴族姓への転化がみとめられる。…
※「檜前忌寸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」