文言

中日辞典 第3版の解説

[少知識]文言・白话 wényán・báihuà

❶ 文言と白話

 “文言”(古文)と“白话”(白話(はくわ)文)は中国での“书面语言shūmiàn yǔyán”(文章語)の二大分類であり,伝統的な文語文を“文言”,日常生活で話される口語に近づけて書かれた文章を“白话”という.

 また,声に出して読んでみて,耳で聞いて理解できるものを“白话”,聞いただけでは容易に理解できず目で見なければわからないものを“文言”ということもできる.両者の外面的な相違は大きく,語彙や語法などの面で大きな違いがある.

a 文の長さ 《论语Lúnyǔ》の冒頭にある“子曰yuē,学而时习之,不亦bùyì说乎yuè hū”という文言を白話に直せば,“先生说,学习然后按一定的时间去复习它,那不也是快乐kuàilè的事情吗?”となるように,文言は白話よりも格段に短いのが普通である.

b 語彙の違い 文言は単音節語を,白話は2音節語を中心とし,文言で単音節の語も白話では2音節になることが多い.たとえば,“”→“太阳tàiyáng”,“lián”→“便宜piányi”,“”→“眼睛yǎnjing”,“zhī”→“知道zhīdao”など.

c 語法の違い

語順文言では疑問代詞の目的語や,否定文での代詞の目的語は動詞の前に置かれることが多い.

谁欺?/私がだれをだますというのか.

时不我待shí bù wǒ dài/時は私を待ってくれない.

品詞文言では同一の文字が数種の品詞を兼ねることが白話よりも多い.

shǐ人立而啼/ブタが人間のように立ち上がって鳴いた.

登泰山Tàishān而小天下/泰山から見下ろして,天下は小さいと思った.

❷ 文言の歴史

 中国で現在残る最も古い文章は,殷代末期(紀元前1300—1000年ごろ)の“卜辞bǔcí”(亀甲(きっこう)文字)やほぼ同時代の青銅器に鋳込まれた銘文(“金文jīnwén”)である.すでにそのころから,中国では書き言葉と話し言葉の間に大きな隔たりがあったと思われる.

 春秋戦国時代になると各地で高度の文化が栄え,多くの書物が著されるようになった.なかでも目覚ましい活躍をしたのは“诸子百家zhūzǐ bǎijiā”と呼ばれる思想家たちであった.当時,各地域には相当大きな方言の分岐があったが,しかし思想家たちが書いた文章は地方独自の表現を含みつつも,標準語的な書き言葉として全国に通用した.彼らが書いた文章がのちの文言の基本的なスタイルとなった.秦の全国統一の後,漢が大帝国を建設し文化的状況が安定するにつれて,書き言葉はいっそう整備され,文章のスタイルもほぼ固定化された.

 先秦から秦・漢代までの散文は,文学的な修辞の少ない素朴な文章だった.しかしその後,文学芸術が発達し,魏晋・南北朝時代にかけて装飾的な修辞を凝らした美文を作ることが流行し始めると,書き言葉と話し言葉の隔たりはさらに大きなものとなった.その最も顕著な例は,六朝時代にさかんに作られた“骈文piánwén”(駢文(べんぶん).二頭立ての馬“骈”が並んでいるように均整がとれた文章のことで,四字句・六字句を多く用い,対句によって構成した美文の一形式.駢儷(べんれい)文・四六(しろく)文ともいう)である.

 しかし,唐代になると形式より文章の内容の充実を求める動きが起こり,ふたたび先秦・漢代の簡潔な文章のスタイルへ回帰しようとする傾向が盛んになった.これが“韩愈Hán Yù”(韓愈(かんゆ))や“柳宗元Liǔ Zōngyuán”(柳宗元(りゅうそうげん))らが主張した古文復興運動であり,彼らが模範とした“古文gǔwén”とは先秦や漢代の思想家や歴史家の文章であった.

 文言文の主流はこの“古文”と“骈文”であり,この二つが20世紀初頭まで書き言葉の中心であった.

❸ 白話の歴史

 話し言葉を基礎にした書き言葉を“白话”というのは,芝居の“”(せりふ)の言葉であるからとも,また“明白如话”(話し言葉のようにはっきりしている)を縮めた表現ともいわれる.

 文言が正統の地位を占めていた時代でも特殊な場合には白話が使われることもあった.それは歴史書や個人の伝記などで人物の言葉を直接話法で引用する場合で,そのような早期の白話の例は《世说新语Shìshuō xīnyǔ》(世説新語(せせつしんご).5世紀前半に南朝宋の劉義慶が著した逸話集)などにみえる.

 現在まとまった形で見ることができる最古の白話資料は,唐代に寺院で仏教説話を絵解きにして民衆に語り聞かせた“变文biànwén”(変文(へんぶん).現存する写本は敦煌(とんこう)の莫高窟(ばっこうくつ)から発見された敦煌文献の一部)である.これは僧が語りと歌をまじえて説教をする時の台本で,他人に見せる性格のものではないから話し言葉が使われたと思われる.

 次の宋になると,文字を知らない民衆を相手に有名な歴史物語などを面白く語り聞かせる講談などの演芸が町中で上演されるようになった.そのような語り物の台本を“话本huàběn”という.

 さらに元になると,同じく民衆を相手にした芝居(“杂剧zájù”)が上演され,また明・清代には“章回小说zhānghuí xiǎoshuō”(章回(しょうかい)小説.講談の台本から発展し,第1回,第2回と何章にも分けた形式の小説)と呼ばれるおびただしい数の通俗小説などが書かれるようになった.それらはいずれも伝統的な文言の世界とは無縁の民衆を相手に営まれた著述活動だったので,それには当然白話が使用された.

 こうして白話による作品の数はしだいに増えていったが,しかし白話で書かれた書物はあくまでも儒学世界での教養の枠外にあり,したがって白話の言語としての価値は一段低いものと認識され続けた.

 白話の地位が向上し始めたのは中華民国になってからである.その契機となったのは1917年に“胡适Hú Shì”(胡適(こてき))が雑誌《新青年Xīnqīngnián》に発表した《文学改良刍议chúyì》で,胡適がそこで主張した白話による近代的な文学の確立は,“陈独秀Chén Dúxiù”(陳独秀(ちんどくしゅう))や“钱玄同Qián Xuántóng”(銭玄同(せんげんどう))などの若き知識人たちに熱烈に支持された.“鲁迅Lǔ Xùn”(魯迅(ろじん))が《新青年》に1918年5月に発表した《狂人日记Kuángrén rìjì》(狂人日記)は,白話で書かれた初めての近代的小説として社会に大きな影響を与えた.それ以後,白話を使って文章を書こうとする潮流がしだいに盛んになった.

 近代文学の世界では1930年代には口語文を使うのがすでに主流になっていたが,しかしそれでも社会にはまだ文言を使う人がかなりおり,中華民国時代には新聞や論説文は依然として文言で書かれていた.憲法をはじめとする法律や政府の公文書,学校で使われる教科書,あるいは新聞や雑誌などの記事がほとんど白話で書かれるようになり,白話が完全に文章語の中心となったのは,1949年の中華人民共和国成立以後のことである.

出典 中日辞典 第3版中日辞典 第3版について 情報 | 凡例

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