デジタル大辞泉 「トルストイ」の意味・読み・例文・類語
トルストイ
中沢臨川によるの評伝。大正2年(1913)刊行。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
ロシアの小説家。伯爵家の四男として,母方ボルコンスキー公爵家の領地だったヤースナヤ・ポリャーナに生まれた。トルストイ家は14世紀にロシアに来たドイツ人インドリスを祖とし,その子孫にはロシア史に残る人物も多い。母方も名門の家柄で,ロシア建国の祖リューリクとつながりがある。幼くして父母を失い,叔母たちの後見のもとで育てられたが,外国人家庭教師による教育,貴族の社交に必要な趣味・教養を十分に与えられ,富裕な地主貴族として安穏な生活を送れる境遇にあった。しかし生得の二元性,すなわち〈生きる喜び〉〈肉の衝動〉を肯定する感受性豊かな楽天的性格と激しい理性的・破壊的な自己反省のピューリタン的傾向が不安と動揺にみちた一生を彼にもたらした。またトルストイは,自ら語っているように〈自分自身に逆らってまでも,常々時流に乗じた勢力に抵抗する〉という性格をもっていた。〈一般的傾向〉を自分の自立性をおびやかすものと考え,それに抵抗することを自分の行動様式とした。
カザン大学を中退し,農地経営に没頭するが,不首尾に終わると一転して,原始的でルソー的理想を実現しているかに見えるコサックのもとで軍人生活を送り,クリミア戦争(1853-56)に従軍,その戦争記録《セバストポリ物語》(1855-56)で国家的栄誉を得る。2度西ヨーロッパに旅行するが,文明の〈悪〉を実感,ついでルソー風の,〈自然〉に基づいた農民教育の仕事に力を注ぐ。1862年のソフィア・ベルスとの結婚は充実した創作活動の日々をもたらすが,その一方で内心の虚無感,生の無意味さという観念が彼の心を支配するようになる。〈生きる喜び〉をおびやかす死の恐怖がトルストイを根底からゆるがした。1879年に書き始められ,〈生きる喜び〉を欺瞞(ぎまん)として断罪した《懺悔(ざんげ)》(1882年ジュネーブで刊行)は,トルストイのいわゆる〈回心〉の劇的な表現であるが,これ以後,道徳家的な面が強く現れることになる。〈山上の垂訓〉に基づき,文明の悪に抗して,オプロシチェーニエoproshchenie(簡素な農民的生活を送ること)を理想とした合理的でピューリタン的でアナーキズム的性格の濃いキリスト教--いわゆるトルストイ主義--の教義が生まれた。彼の教義の中でも〈悪への無抵抗〉という考え方はロシア独特のものであるが,その弟子筋のガンジーによって結実したといえる。
真実の探求者,伝道者として,世界はトルストイの主張に耳を傾けたが,家庭内で自らの主義を実践しようとして妻と衝突し,自分の教説どおりに晩年を過ごそうと家出をしたが,その行半ばにして,中央ロシアの寒村の駅アスターポボ(現在はトルストイと改称)で肺炎のため死亡。
トルストイの処女作は進歩派の《現代人》誌に1852年に発表された《幼年時代》である。自伝三部作の第1部をなすこの作品は,そのみずみずしい感受性と心理的リアリズムで世人の注目をひいたが,続いていくつかの短編,中編を発表して文壇での地位を不動のものとした。その中でも《コサック》(1853-63)は,文明に対する自然の優位というトルストイの持説が物語の中に織りこまれているという点で,作品の中に思想家がはっきりと姿を現している最初の注目すべき作品である。芸術的創作期の頂点の2作品,《戦争と平和》(1865-69),《アンナ・カレーニナ》(1875-77)についても同様のことがいえる。前者では対ナポレオン戦争の歴史絵巻を背景として,トルストイ自身の精神的模索が2人の主人公アンドレイとピエールに投影されている。後者はロシア貴族の生活を描いた社会小説であるが,副主人公のレービンはまさにトルストイの分身であり,人生の意味を求めて苦悩するが素朴な農民の知恵によって救われることになる。
《懺悔》によって示された〈回心〉以降のトルストイは,神学に関する論文や政治的・道徳的パンフレットに多大の精力を注ぎ,時代の焦眉の急の問題と深くかかわり,さまざまな時事的発言を行った。なかでも日露戦争批判は世界的反響を呼び,日本の社会主義者たちにも多大の感銘を与えた。しかしこの間もトルストイの創作力は衰えたわけではなく,死の実像にせまる傑作《イワン・イリイチの死》(1886),自然主義的な農民劇《闇の力》(1886),カフカスを背景にした力強い物語《ハジ・ムラート》(1896-1904)などが書かれた。訴えるべきテーマをもって書かれた,傾向性の強い《クロイツェル・ソナタ》(1890),《復活》(1899)のような作品でありつつ読者を感動させるのは,その芸術家的な創造力である。
トルストイが思想家,予言者として世界の注目を集めていた時期は,1880年代から1910年(トルストイの死んだ年)にわたるが,これは日本の明治10年代から明治43年にあたる。1886年(明治19)《戦争と平和》の第1編の抄訳が《泣花怨柳 北欧余塵》(森体訳)の題名で出版されたのを皮切りに,作品の紹介,翻訳,批評が続々と現れ,徳冨蘆花や小西増太郎のようにヤースナヤ・ポリャーナを訪れる日本人も多くを数え,トルストイの一言一句,一挙手一投足が日本で話題の種となった。トルストイは日本人にとっては明治時代の〈日本の〉作家であるといってよい。トルストイ主義の忠実な信奉者であった武者小路実篤が語っているように,トルストイは単なる作家ではなく,思想家であり,人類の教師,人類の良心として尊敬され,その説く教義や主張は熱狂的に日本の読者によって受け入れられた。明治期にはキリスト教思想,社会主義思想の代表者,大正期には人道主義の予言者とみなされた。やがて文学や宗教思想の面ではドストエフスキー,思想・社会運動の面ではマルクス主義という強力なライバルが現れる。また高弟チェルトコーフVladimir G.Chertkov(1854-1936)によるトルストイの家庭悲劇の暴露(《晩年のトルストイ》,寿岳文章訳1926),1935年(昭和10)から37年にかけてのトルストイ日記の刊行によってトルストイの実像が赤裸々にさらされるに至る。日記の公表は,正宗白鳥と小林秀雄の〈思想と実生活〉論争を呼んだが,このころから従来のトルストイ崇拝のうわついた雰囲気が冷まされてくる。しかし社会主義全体への弾圧が強化されていく中で,拡散した無名のトルストイ主義者たちが,反戦思想を中心とするトルストイ的思想を第2次大戦中も守り続けたということにもみられるとおり,ヒューマニズムに徹し,理性,人道,調和の道を求めたトルストイの意義はいささかも小さくなっていない。
執筆者:川端 香男里
ソ連邦の作家。詩集《空色の河のかなたに》(1908)で出発。十月革命前に《牧童》《女優》(ともに1910)など50余の短編のほか,長編《奇人たち》(1911),ドストエフスキーの影響の強い長編《びっこの公爵》(1912)などを発表して文名を確立した。革命後パリに亡命,短編《ピョートル大帝の1日》(1918),自伝的な中編《ニキータの幼年時代》(1922),SF仕立ての奇抜な小説《アエリータ》(1923)などを書く。1923年ソ連に戻って,推理小説の手法を用いた長編《技師ガーリンの双曲線》(1926),革命後の混乱した社会の中で生きる道を誤った女の悲劇を描く短編《毒蛇》(1928)などで作家としての力量を示した。
代表作となったのは十数年かけて完成した大長編《苦悩の中を行くKhozhdenie po mukam》(1922-41)である。〈姉と妹〉(1922),〈1918年〉(1927-28),〈陰鬱な朝〉(1940-41)からなるこの作品は,革命を生きぬいた知識人の思想遍歴を聖母の苦難遍歴になぞらえて書いたもので,知識階級の三つの時期を描く。最初が20世紀初頭のデカダン派,シンボリスト,唯美派などの生活で,次が革命期,最後が国内戦とその結果である。彼はこの長編で第1次世界大戦,革命,国内戦,ウクライナのアナーキスト,マフノの反乱などの歴史の嵐の中にまきこまれた美しい姉妹とその恋人とが,生命や思想の危機をのりこえてついに再会するまでの苦難の歴史を描いた。メロドラマ的な要素も多いが,この時期の知識人の精神史を知るには最適の作品である。膨大な歴史小説《ピョートル1世Pyotr I》(第1巻1929,第2巻1934,第3巻1944,第4巻未完)で彼は新しい高みを示した。
ロシアを西欧化しようとしたピョートルは,同時にロシアのスキタイ精神をも愛した。トルストイは皇帝のこの両側面を描きわけ,〈聖なる祖国〉の歴史を新しい角度から示してみせた。彼の作品には常にある種の通俗性がつきまとうが,ソ連における第一級の物語作家であることに間違いはない。
執筆者:原 卓也
ロシアの小説家,詩人,劇作家。アレクサンドル2世の皇太子時代の学友で,ロシア宮廷でも高い位置にあったが,早くから文筆に手を染め,1840年代には幻想小説《吸血鬼》を書き,今日青少年の愛読書となっている歴史小説《白銀公爵》(1861)を書き始めた。50年代にはコジマ・プルトコフの名で,従兄弟のジェムチュジニコフ兄弟と共同して,今日でも評価の高い一連の風刺詩,パロディ,ノンセンス詩を共作した。多才な作家であったが,自然や愛を主題とする抒情詩人として最もよく知られている。シェリングやドイツ・ロマン派の影響を受け,政治的には自由主義の立場を貫いた。60年代,官を辞してからは,おもに外国とウクライナの自分の領地で暮らし,韻文劇三部作《イワン雷帝の死》(1866),《皇帝フョードル・ヨアノビチ》(1868),《皇帝ボリス》(1870)を書いた。この三部作は歴史劇の古典として今日もしばしば上演される。
執筆者:川端 香男里
ロシアの政治家,伯爵。反動的政治で知られる。1850年代まではロシア皇帝ニコライ1世の子コンスタンティン大公を取り巻く自由主義的官僚グループに加わっていたが,60年代初めから〈強力な権力〉をめざすようになる。65-80年には宗務院長。66年より文相を兼任した。71年学制改革を行い,貴族層のための古典ギムナジウムを復活する。82-89年内相兼憲兵長官として一連の反動的政策を遂行した。とくに82年の検閲制度の強化,89年の地方主事制施行による中央権力の地方行政に対する支配力強化は有名である。82年科学アカデミー総裁に就任。《ロシアにおけるローマ・カトリシズム》(1876)などの著作もある。
執筆者:外川 継男
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1828~1910
ロシアの作家。古い貴族の家柄に生まれた。軍隊に入って,カフカース戦争,セヴァストーポリ籠城戦に参加し,その経験を作品とした。1856年軍籍を退いたあと,自分の領地において地主として暮らし,農業経営の改善や農民の教育に努めた。80年代から社会的発言を開始した。『戦争と平和』『アンナ・カレーニナ』『復活』などの小説のほか,『イヴァンのばか』などの民話,さらに『懺悔』『さらばわれら何をなすべきか』などの宗教的作品をも執筆し,非暴力とキリスト教的隣人愛を骨子とする独自の社会哲学,平和主義を説いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…ロシアの小説家レフ・トルストイの長編小説。1875‐77年刊。…
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[旧ソ連邦]
かつてロシアでは,A.S.プーシキンが民話に取材して《金のニワトリ》(1834)などを書き,エルショフP.P.Ershovが《せむしの小馬》(1834)を作り,I.A.クルイロフはイソップ風の寓話を,V.M.ガルシンは童話的な寓話を書いたが,いずれも権力に刃向かう声であった。F.K.ソログープは暗い影の多い不思議な小説を作り,L.N.トルストイはおおらかな民話と小品を発表した。革命後の新しい児童文学の父はM.ゴーリキーであったが,彼はとくに子どものものを書かずに,V.V.マヤコーフスキーやS.Ya.マルシャークやK.I.チュコフスキーにその実りをゆずった。…
…そしてロシア中央部からカフカスに強制的に移住させられ,1898年には約7500人がカナダに移住した。なお,かねてドゥホボル派の思想に共鳴していた文豪トルストイが,カナダ移住の費用を援助するため,ひとたび折った筆を再びとり,長編《復活》を書いたことはよく知られている。一部はキプロスに移った。…
…この小説はロシアの幾世代もの青年たちを育てることになった。 1882年,トルストイは国勢調査の調査員としてモスクワの貧民街を訪れ,そこでの観察から始まる自分の思想の一大転換を《さらばわれら何をなすべきかTak chto zhe nam delat’》に書いた。これは86年に脱稿される。…
…そして,04年8月第二インターナショナル第6回大会に出席した片山潜とロシア代表プレハーノフは反戦を誓いあって握手を交わした。 また,トルストイが《ロンドン・タイムズ》(1904年6月27日)に寄稿した非戦論,《爾曹悔改めよ》は《平民新聞》(1904年8月7日)に〈トルストイ翁の日露戦争論〉として全文訳載され,日本国内でも大きな反響を呼んだ。《平民新聞》は次号の社説に,トルストイの個人主義的非戦論に対する社会主義的立場における非戦論との相違を説き,戦争の原因は〈人々真個の宗教を喪失せるが為〉ではなく,〈列国経済的競争の激甚なるに在り〉とした。…
…ロシアの作家L.N.トルストイの長編小説。友人の法律家A.F.コーニから聞いた実話に基づき,1889年《コーニの話Konevskaya povest’》という表題で書き始められた。…
…彼はメキシコとの戦争や奴隷制に反対し,納税を拒否したため投獄されたこともある。ロシアではL.N.トルストイがクリミア戦争以来反戦平和を唱え,日本を含む世界中に影響を与えた。インド独立運動の指導者であったM.K.ガンディーもソローとトルストイの反戦思想を賞賛した。…
…ロシア連邦,モスクワの南方約190kmにある,L.N.トルストイの生地。ロシア語で〈明るい森の中の草地〉の意であるが,ヤースナヤは,トネリコの木を意味するヤーセンナヤyasennayaのなまりで,広葉樹を主体とする土地柄をよく現している。…
…ルネサンスの建築家アルベルティは《建築論》の中で,美は部分と部分の調和ある有機的な相互関係である,と規定した。19世紀ロシアの作家L.N.トルストイは,唯美主義を否定しR.ワーグナーやR.シュトラウスを批判した《芸術とは何か》(1898)において,〈ルネサンス時代のカトリック教会の腐敗で信仰が失われた〉とルネサンスを否定したが,これは反唯美主義が本質的には西欧近代の否定に通じることを示している。これをうけて,フランスの悪魔主義の作家ペラダンは《トルストイに応える》を書き,〈美が生み出すのは感情を観念に転化する独自の歓び,つまり抽象的な動きである〉と反論した。…
※「トルストイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
自動車税は自動車(軽自動車税の対象となる軽自動車等および固定資産税の対象となる大型特殊自動車を除く)の所有者に対し都道府県が課する税であり、軽自動車税は軽自動車等(原動機付自転車、軽自動車、小型特殊自...
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