メキシコ(読み)めきしこ(英語表記)Mexico

翻訳|Mexico

日本大百科全書(ニッポニカ) 「メキシコ」の意味・わかりやすい解説

メキシコ
めきしこ
Mexico

北アメリカ大陸の南部にある連邦共和国。正式名称は「メキシコ合衆国」Estados Unidos Mexicanos。メキシコは、英語読みで、スペイン語ではメヒコ。メヒコは古代アステカ帝国の太陽と戦争の神「メシトリの大地」を意味する「メシコ」に由来する。国旗は緑、白、赤で縦に3等分され、中央の白地に、蛇をくわえた褐色の鷲(わし)がサボテンにとまっている図柄を配した、きわめてユニークなもの。北はアメリカ合衆国、南はグアテマラとベリーズに国境を接している。西は太平洋、カリフォルニア湾、東はメキシコ湾、カリブ海に面している。北アメリカ大陸に位置しているが、カナダ、アメリカ合衆国のアングロ・サクソン文化圏とは著しいコントラストを示すラテン文化圏に属するため、中央アメリカ諸国として分類され、中央アメリカ最大の国、また南アメリカ諸国をも含めたラテンアメリカ諸国のなかでの政治的・経済的大国としての影響力が大きい。国土面積は196万7183平方キロメートルで、ラテンアメリカではブラジル、アルゼンチンに次ぐ広さ。人口は9736万1711(2000年センサス)、1億0620万2903(2005年推計)である。首都はメキシコ市(シウダー・デ・メヒコ/メキシコシティ)。

[丸谷吉男]

自然

国土は熱帯から亜熱帯地域にわたっており、山地と砂漠地帯が70%を占める。太平洋側には西シエラ・マドレ山脈、カリブ海側には東シエラ・マドレ山脈が南北に走り、両山脈に挟まれた形で標高1500メートル以上の高原地帯が国土の中央部に展開しており、気温、湿度、降水量などの点から経済活動の中心となっている。南部の熱帯地域や海岸部は高温・多湿で年平均気温18℃、北部と西部の大部分は乾燥した砂漠地帯である。

 北緯19度線沿いに国土を横断する形で火山帯が走り、ポポカテペトル(5452メートル)、イスタクシワトル(5286メートル)、オリサバ(5675メートル)の高峰がそびえている。火山の噴火や地震も多い。とくに1985年9月のメキシコ大地震は記憶に新しく、死者8000人、マグニチュード8.1を記録した。いくつかの山脈に囲まれた中央高原にはさまざまな起伏があり、渓谷、盆地、湖沼が点在している。河川の多くは急流で、船舶が航行しうる部分は少なく、雨期にはしばしば氾濫(はんらん)して被害を生ずる。メキシコの山地は貴重な鉱物資源の宝庫であるとともに、豊富な森林資源を提供している。メキシコの国土はその標高にしたがって三つに分類される。第一は熱帯地で、標高500メートル以下、平均気温は25~27℃、第二は温帯地で、標高は500~2000メートル、平均気温は21~24℃、第三は寒冷地で、標高は2000メートル以上、平均気温は18℃以下である。人口の大半は温帯地に集中しているが、それは標高差による気温の相違に適応した生活の知恵といえる。降水量は一般に不十分であると同時に不規則である。国全体の平均降水量は年間1500ミリメートルであるが、地域差が著しく、ほとんど雨の降らない広大な地域がある反面、洪水にみまわれる地方も多い。北部諸州では水資源の確保が重要課題となっている。

[丸谷吉男]

地誌

メキシコの国土は、それぞれの特徴に基づいて次のように区分される。

[丸谷吉男]

北部太平洋岸地域

南・北両バハ・カリフォルニア州、ナヤリト州、シナロア州、ソノラ州からなり、国土面積の約21%、人口の8.7%を占める。砂漠・半砂漠地帯と降水量の多い沿岸地帯があるが、メヒカリ、シウダー・オブレゴン、エルモシヨ、ロス・モチスの諸都市周辺では灌漑(かんがい)施設により綿花、小麦、豆類の生産が伸び、アメリカ合衆国に接する国境都市ティフアナなどでは「マキラドーラ」とよばれるメキシコ独特の低賃金利用型の輸出保税加工業の発展が目覚ましく、観光都市としての魅力と相まって経済発展が著しい。

[丸谷吉男]

北部地域

コアウイラ州、チワワ州、ドゥランゴ州、ヌエボ・レオン州、サン・ルイス・ポトシ州、タマウリパス州、サカテカス州からなり、国土面積の41%、人口の17.5%を占める。東西両シエラ・マドレ山脈および北部高原地帯からなり、砂漠・半砂漠地帯が大部分を占めるため、農耕には適せず、牧畜業が主要産業となっていたが、国境寄りのラグーナ地区やメキシコ湾岸では灌漑(かんがい)投資が行われた結果、豊かな農業地帯となった。メキシコ第二の工業都市モンテレー、鋳造業のモンクローバ、パルプ工業のチワワの諸都市があるが、最近はシウダー・フアレスなど国境都市での輸出加工工業の発展が続いている。

[丸谷吉男]

中部地域

連邦区(メキシコ市)、メヒコ州、アグアスカリエンテス州グアナフアト州、イダルゴ州、ハリスコ州、ミチョアカン州、モレロス州、プエブラ州、ケレタロ州、トラスカラ州からなり、農業、工業活動の中心地域である。国土面積の14%のこの地域に人口の50%が住んでおり、人口密度はもっとも高く、政治・経済の中心でもある。

[丸谷吉男]

メキシコ湾岸地域

カンペチェ州、タバスコ州、ベラクルス州、ユカタン州、キンタナ・ロー州からなり、国土面積の12%、人口の12.3%を占める。タンピコ、ポサ・リカ、ミナティトランは石油化学工業、ベラクルス港は欧米諸国への海の玄関、カンペチェ、カルメン市は漁業基地として繁栄している。ユカタン半島はサイザル麻の世界的産地であり、パパロアパン川流域では政府の開発計画が進められ、米、サトウキビ、タバコ、バナナの産地に変貌(へんぼう)しつつある。

[丸谷吉男]

南部太平洋岸地域

コリマ州、チアパス州、ゲレロ州、オアハカ州からなり、国土面積の12%、人口の11.3%を占める。主たる産業は農業であるが、北部太平洋岸地域にみられる輸出向け、あるいは国内市場向けの商品作物よりは、むしろトウモロコシなどを中心とする自給農業が主体である。内陸部では乾燥・半乾燥気候であり、海岸沿いやグアテマラ国境地域では熱帯・亜熱帯気候となっている。

[丸谷吉男]

歴史

先住民インディオはメキシコ湾岸からオアハカ盆地にかけてオルメカ文化、ユカタン半島にマヤ文化、中央高原にトルテカ文化、アステカ文化を築き上げたが、1521年にコルテスのスペイン軍に征服され、以後1810~1821年の独立戦争までスペインの支配下に置かれた。1821年のコルドバ条約で独立を達成し、イトゥルビデの帝政を経て1824年に連邦共和国となった。1845年テキサス州併合問題を端緒とした対米戦争に敗れ、1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約で国土の約半分を失った。ちなみに、現在のアメリカのカリフォルニア州、アリゾナ州、ニュー・メキシコ州、テキサス州はこのときにメキシコが失った領土であり、この事実はメキシコ人の根強い反米感情の大きな原因となっている。

 政治的・社会的改革の試みは保守派と自由派の間の内戦を招き、やがて債務の支払い、損害賠償問題をめぐってイギリス、アメリカ、フランスの干渉を招き、1864年にフランスが皇帝に仕立てたオーストリアのマクシミリアン大公が1867年にフアレス率いるメキシコ軍によって処刑され、戦後の混乱を巧みに処理したフアレスも1872年に急死した。1876年から1910年の革命まで35年間独裁者として君臨したディアス大統領のもとでメキシコは秩序を回復し、大地主、外国資本、教会勢力、軍部に支えられたディアス体制のもとで近代化が進められ、鉱山が開発され、鉄道が建設され、メキシコ市にはパリのシャンゼリゼ通りを模したレフォルマ通りが建設されたが、そのような進歩の恩恵に浴することの少なかった農民や労働者や民族資本家の不満がやがてメキシコ革命を引き起こした。メキシコ革命の理念を具体化した1917年憲法は、土地改革、労働者の権利、カトリック教会の勢力削減、地下資源に対する国家の主権などを明記した。

 カルデナス政権(1934~1940)のもとで、土地改革が推進され、メキシコ労働総連合が設立され、石油産業国有化が行われた。カマーチョ政権(1940~1946)は工業化計画に重点を置き、アレマン政権(1946~1952)は教育の普及、観光開発に力を注いだ。その後、コルティネス政権(1952~1958)、ロペス・マテオス政権(1958~1964)、ディアス・オルダス政権(1964~1970)のもとでメキシコ経済は長期にわたる高度成長を続けたが、その間に貧富の格差は拡大し、民衆の不満が高まった。1968年のメキシコ・オリンピック直前の学生暴動はその象徴的な事件であった。内務相としてこの暴動の鎮圧にあたったエチェベリーアは、大統領就任後繁栄の恩恵をあらゆる階層に配分するとして、外資規制法の制定や、国連での「国家間の経済的権利・義務憲章」の採択など革新的路線をとった(1976~1973)が、第一次石油危機や内外民間部門の反発から経済は混乱に陥った。ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)は石油収入の利用に活路を求め、積極的な経済開発計画を進めたが、その開発資金の多くを外国借款に依存したため、対外債務の膨張を招き、国際金利の上昇、石油価格下落の衝撃を吸収できず、史上最大の経済混乱のなかで退陣した。デラマドリ政権(1982~1988)は石油価格の大幅な下落による「逆オイル・ショック」、巨額の対外債務の処理、メキシコ大地震、首都郊外でのガス爆発事故など相次ぐ困難にもかかわらず、合理性に基づく政策運営を続けることにより難局に対処したが、十分な成果をあげるに至らぬまま、1988年自分と同じテクノクラート出身の企画予算相サリナスCarlos Salinas de Gortari(1948― )に政権をゆだねた。サリナス政権(1988~1994)は規制緩和の推進、NAFTA(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などで成果をあげた。しかし与党次期大統領最有力候補コロシオLuis Donaldo Colosio Murrieta(1950―1994)暗殺事件、チアパス州での農民の生活向上を求めるサパティスタ民族解放軍(EZLN)の武装蜂起(ほうき)などが発生、社会不安が増大した。1994年の選挙でセディジョErnesto Zedillo Ponce de León(1951― )が当選しセディジョ政権(1994~2000)が誕生したが、前政権のときからの政情不安、貿易収支悪化、為替(かわせ)政策の失敗により資本逃避が止まらず、外貨準備高が激減、深刻な通貨危機(テキーラ・ショック)に陥った。アメリカ、カナダ、IMF(国際通貨基金)などの緊急支援により財政再建したが、所得減少や失業者増加、与党幹部の腐敗への不満が高まり、1997年の選挙では1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)が下院で初めて過半数割れした。2000年の選挙では国民行動党(PAN)のフォックスVicente Fox Quesada(1942― )が当選し、71年間続いたPRIの一党支配は終了した。フォックス政権(2000~ )は、民主主義強化、所得格差是正などに取り組んでいるが、少数与党のため改革は難航している。

[丸谷吉男]

政治

政治制度

1910年に独裁者ポルフィリオ・ディアスを打倒したメキシコ革命の理念と精神は1917年憲法に盛り込まれ、その後のラテンアメリカ諸国の憲法に影響を及ぼすとともに、部分的な改正を重ねて現在に至っている。議会制の三権分立、連邦制を中心とする共和国を政治体制とする。国家元首は大統領で、6年を任期とし、国民投票で選出されるが、再選は禁止されている。立法府は二院制で、上院は連邦区と31の州から4名ずつ選出される任期6年の議員128名で構成される。下院は500議席で、そのうち300議席は連邦区と31の州から選出され、残り200議席は得票数に比例して野党に配分され、任期は3年である。国会の会期は9月1日から12月31日で、初日に大統領が発表する年次教書は重要事項を網羅する情報源である。大統領の権限はオールマイティといえるほど強大であり、閣僚の任命権、州知事の罷免権、両院を通過した法案に対する拒否権をもつ。軍部に対しても文民優位が確立されている。司法権は連邦裁判所に属し、最高裁によって統轄され、最高裁判事は大統領の任命により、上院の承認を必要とする。高等裁判所は12、地方裁判所は68ある。

 地方行政では、連邦区と首都とその周辺の31の州に分けられ、それぞれ憲法と代議制の政府をもつ。行政権は直接選挙で選ばれる任期6年の州知事に属し、立法権は州議会、司法権は州最高裁に属する。

[丸谷吉男]

政党

与党の国民行動党(PAN)のほかに、野党として制度的革命党(PRI)などが下院に議席をもつが、その多くは野党育成政策の一環としての比例代表制によるものである。PANは1939年に結成され、北部の工業都市モンテレーの財閥や教会を基盤とする保守政党であるが、最近は都市の新中間層に勢力を拡大し、上院46、下院148議席をもつ。2000年の大統領選挙で勝利し与党となった。PRIは1929年に結成された民族革命党(PNR)が二度改称したもので、2000年まで政権を独占してきた。労働者、農民、一般人の三部会制をとり、全組織労働者の約90%を占めるメキシコ労働総連合(CTM)、全国農民連盟(CNC)、全国一般人組織連合(CNOP)などを基盤とするが、最近はテクノクラート(技術管理職者)を中心とする一般人部会の発言力が強い。PRIは上院58議席、下院223議席をもつ。民主革命党(PRD)は、メキシコ・ナショナリズムの記念碑ともいうべき石油国有化を断行したラサロ・カルデナスの2世を中心とする左派政党で、1988年の大統領選挙ではサリナス候補を追いつめる躍進をみせた。1990年代に入って退潮を続けていたが2003年の下院選挙では議席数を増やし、上院15、下院97議席をもつ。労働党(PT)はかつての労働運動の闘士トレダーノの影響力も弱まり、下院に6議席をもつのみとなった。ほかに緑の環境党(PVEM)があり、上院5、下院17議席をもつ(2005)。

[丸谷吉男]

外交

メキシコは独立後もフランス、アメリカなど先進諸国の干渉に悩まされた経験に基づき、内政不干渉、民族自決、紛争の平和的解決、反植民地主義、国家の法的平等の原則を外交政策の基調としてきた。1970年代には石油危機を契機として高まった資源ナショナリズムを背景に、第三世界のオピニオン・リーダーとして行動し、1983年ベネズエラ、コロンビアとコンタドーラ・グループ(3か国蔵相会議)を結成し、中米和平の実現への協力、史上初の南北サミットの開催、中米・カリブ諸国への石油の安定供給などによって影響力を高めた。「カリブ海の赤い星」といわれたキューバとは一貫して友好関係を続けた。セディジョ政権(1994~2000)は、(1)戦略的関心のある国との関係の緊密化、(2)国家の目標に適し、地球規模の問題の解決に資する国際機関、地域機関への積極的参加、(3)開発のための手段としての国際協力の促進の三つを中心に、対米関係を成熟したものとし、APEC(アジア太平洋経済協力)に加盟し、日本、中国、韓国、シンガポールとの関係を深めた。またラテンアメリカでは南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))、カリブ諸国連合との関係を強化する一方で、チリ、コロンビア、ベネズエラ、コスタリカ、ボリビアとの自由貿易協定締結に尽力し、ヨーロッパ連合(EU)やヨーロッパ自由貿易連合(EFTA)との間でもFTAを締結した。フォックス政権(2000~2006)では従来の外交政策を踏襲しつつ、さらに国際政治の舞台において積極的な役割を果たす方針で、2002~2003年国連安全保障理事会の非常任理事国を務めたほか、2002年APEC首脳会議開催、2003年世界貿易機関(WTO)閣僚会議開催、2005年非核地帯会議開催などを行った。一方、従来からの親米路線はフォックス政権になってから強くなり、友好関係を続けてきたキューバとの関係は縮小方向にある。ただしアメリカのキューバ経済制裁強化法には反対している。アメリカとの関係では、不法移民問題(在米メキシコ人不法移民は約480万人)、麻薬密輸取締問題など課題は多い。

[丸谷吉男]

防衛

メキシコの軍部は歴代の文民政権の周到な政策により、ラテンアメリカでもっとも非政治的な集団となっており、クーデターの可能性も少ない。北の隣国アメリカは強大すぎて戦争の恐れはなく、南の隣国グアテマラは弱小であり、キューバとは一貫して友好的であるため、軍の肥大化が抑止されてきた。しかし、1994年初めのチアパス州の農民武装蜂起(ほうき)、1996年の革命人民軍(EPR)のゲリラ活動、麻薬組織との対決などを契機に、国内治安に占める軍の役割が拡大している。2005年の兵力は陸軍14万4000人、海軍3万7000人、空軍1万1770人で、2005年の軍事予算は国内総生産(GDP)の0.4%となった。

[丸谷吉男]

経済・産業

メキシコ経済の歩み

1910年に始まったメキシコ革命は、革命軍指導者の間の権力闘争のためにメキシコを十数年にわたる内戦状態に陥れ、経済・産業を疲弊させたが、1929年の世界恐慌は事態をさらに悪化させた。カルデナス大統領(在任1934~1940)は石油の国有化、農地改革など革新的政策を推進し、対米関係を悪化させたが、第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)は石油などの戦略物資供給国としてのメキシコの立場を優位にした。大戦中、メキシコは連合国への戦略物資輸出で多額の外貨を獲得する一方で、輸入できなくなった工業製品を国産化する「輸入代替工業化」を推進し、大戦終了時には農業国から工業国へと脱皮した。

 その後1970年まで、メキシコ経済はインフレのない高度成長、通貨の安定を実現し、「メキシコの奇跡」として注目された。しかしエチェベリーア政権(1970~1976)の外資規制法の制定、第三世界外交、ナショナリズム高揚などが内外民間資本の反発を招き、そのうえ1973年の第一次石油危機に伴う混乱も加わり経済が停滞を続けたため、政府は対外債務を導入し、公共部門主導による経済再建を目ざした。その結果、対外債務の急増が通貨不安を高めることになり、任期末の1976年8月には22年ぶりの通貨暴落に追い込まれ、経済危機が深まった。

 ロペス・ポルティーヨ政権(1976~1982)はこの戦後最大の経済危機を乗り切るために従来の石油政策を転換し、石油輸出収入の拡大による経済再建を目ざし、国家工業開発計画、国家エネルギー計画、四大臨海港開発計画など多面的な開発計画を展開したが、資金の多くは外国銀行の借款に依存した。そのため、1982年6月の原油価格の反落は国際金利の上昇、農業不振による食糧輸入の急増、公共部門の非効率、財政赤字の拡大などと相まって、1982年8月の金融危機をもたらした。

 近代メキシコ史上最大の危機のさなかに発足したデラマドリ政権(1982~1988)は若手テクノクラートの登用、国際金融機関との協調、民間部門との対話、国有化した銀行への補償、公務員の綱紀粛正などにより1984年には経済の立て直しに成功し、対外債務についても多年度一括再編成を達成した。しかし、1985年の石油価格急落による「逆オイル・ショック」とメキシコ大地震はふたたびメキシコ経済を大混乱に陥れた。

 史上最低の得票率でかろうじて当選したサリナス大統領(在任1988~1994)は、(1)政府、経営者団体、労働団体、農民組織の間の対話路線の確立、(2)経済活動に対する規制の緩和、(3)国営企業の民営化、(4)貿易の自由化、(5)外国投資の自由化、(6)対外債務問題の積極的処理、(7)NAFTA(ナフタ)(北米自由貿易協定)の締結などの面で成果をあげ、「サリナス革命」として注目されたが、NAFTA発足当日の1994年1月1日に起こったチアパス州での農民の反政府武力闘争、次期大統領の最有力候補であったコロシオ候補の選挙運動中の暗殺、与党幹事長暗殺など、政治、社会面の不祥事が外国資本に不安を与えた。

 与党のコロシオ候補が選挙戦のさなかに暗殺され、急拠後継候補に指名され、当選したセディジョ大統領(在任1994~2000)は就任直後の1994年末に為替(かわせ)政策を誤り、短期に外国資本が大量に流出したために通貨危機に陥り、その「テキーラ・ショック」はまたたくまにラテンアメリカ諸国、南欧諸国、アジア諸国に広まり、日本もまた1ドル=79円という超円高に襲われた。セディジョ政権はアメリカ、カナダ、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の緊急支援を背景に新自由主義経済路線を推進し、約2年間でメキシコ経済を再建した。しかし通貨危機の影響等による国民所得の減少・失業者の増加、不正選挙や汚職問題などで国民の不信感は高まり、1997年の選挙で1929年以来政権を独占してきた制度的革命党(PRI)は下院で初めて過半数割れした。

 2000年の大統領選挙では野党の国民行動党(PAN)のフォックスが当選し、政権交代を実現した。フォックス大統領(在任2000~ )は前政権に引き続きマクロ経済政策を実施。アメリカの景気に左右されてはいるが、比較的安定した経済運営を行っている。しかし、税制・金融・エネルギーなど各部門の構造改革は難航し、緊縮財政を強いられている。

[丸谷吉男]

産業
鉱業

メキシコは1938年に世界初の石油国有化を断行し、国営会社ペメックスがラテンアメリカ最大の企業として一貫操業することになった。1970年代には新興石油大国に躍進したが、1980年代以降の原油価格の低下、そして重質油の比率の高さが不利に作用したため、アメリカ資本との共同精製などで活路を探っている。2004年の確認埋蔵量は146億バレル、生産量は日量341万バレルで世界有数の石油産出国である。金、銀、銅、鉛、マンガン、モリブデンなどを産出する資源大国である。

[丸谷吉男]

農牧漁業

農業は、灌漑(かんがい)施設などのインフラ(基盤)の未整備、エヒード制(土地共有制)による農地細分化と非効率、若年労働力の都市への流出などにより停滞を続け、食糧自給が困難になった。NAFTA発効(1994)から15年以内に農産物の関税が撤廃されるため、政府は憲法のエヒード条項の改正、新農地法の制定、「プロカンポ」(新農業政策)により農業の近代化に取り組んでいる。国土の約半分が牧畜に適し、長い海岸線と広い大陸棚があるにもかかわらず、牧畜、水産業の開発が遅れているため、インフラ整備、技術の近代化が急務となっている。

[丸谷吉男]

工業

1980年代の債務危機は産業政策を輸入代替から輸出振興に転換させ、ペソの下落、貿易自由化がそれを助長し、2004年には製品輸出が輸出の85%に達した。政府は国際競争力のある工業の育成を目ざし、中小企業支援、中間財工業、裾野産業の強化に力を注いでいる。製造業をリードする自動車生産台数は1995年に93万台、2005年に160万台に達し、輸出も急増している。電気・電子機器も輸出の好調を背景に成長を続け、世界的な多国籍企業の進出が目だっている。化学工業も石油化学を中心に伸びており、食品工業では加工果実・野菜、冷凍エビ、ビールが輸出に支えられて活況を続けている。紙・パルプ、印刷・出版、繊維・衣料などは輸入の自由化のために近代化を迫られている。「マキラドーラ」とよばれる輸出保税加工業の躍進は目覚ましく、2000年には約3600工場があり、織物、電気・電子部品、家具、化学品、自動車部品を生産し、約134万人が雇用された。

[丸谷吉男]

対外経済関係

貿易自由化により輸出は1990年268億ドル、1995年795億ドル、2000年1665億ドル、2004年1886億ドル(暫定)と急増し、そのうち85%を製品が占め、原油・鉱産物は12%、農産物は3%となった(2004)。輸入も1990年313億ドル、1995年725億ドル、2000年1745億ドル、2004年1972億ドル(暫定)と急増し、そのうち94%を製品が占め、農産物は3%。輸入の内訳は中間財が76%を占め、資本財、消費財は各12%である(2004)。貿易相手国は輸出ではアメリカ87.6%、カナダ1.7%、スペイン1.1%、ドイツ0.9%、日本0.6%、中国0.5%であり、輸入ではアメリカ56.2%、中国7.3%、日本5.4%、ドイツ3.6%、カナダ2.7%、ブラジル2.2%、台湾1.8%である(2004)。1994年1月1日に発効したNAFTAは15年間で貿易自由化を図ることを定めた。これによってアメリカ、カナダがメキシコの非石油品の80%に対する関税をただちに廃止したのに対し、メキシコは42%のみを廃止するとし、織物、自動車・同部品、農産物については特別ルールを定めた。また、メキシコは石油、石油化学、原子力、電力の生産、投資についての国家の支配を留保しており、サービス貿易(輸送、港湾、電信、金融)、政府調達についても規定している。1965年に導入されたマキラドーラ制度は輸出品の製造に必要な部品や原材料などを保税で輸入できるシステムであるが、NAFTAの規定により2000年11月以降認められなくなったため、政府は新たな優遇関税措置であるPROSEC(産業分野別生産促進措置)を導入した。ただし、マキラドーラ制度はNAFTA・EU・EFTAなど自由貿易協定を結んだ地域・国向けの輸出には廃止されたが、その他の地域・国への輸出には引き続き適用されている。

[丸谷吉男]

社会・文化

住民・文化

スペイン人によるメキシコ征服のあと先住民インディオとスペイン人の混血が始まり、スペイン人が連れてきたアフリカ人も混血に加わったため、1821年の独立時には総人口の59%がインディオ、40%が混血となり、純粋のスペイン人、アフリカ人はごくわずかとなった。独立後の移民は少なく、既存の人種間の混血はさらに進み、最近ではインディオ25%、スペイン系白人など15%、残余の60%は混血となっており、国是としても「混血の文化」を誇るに至っている。山間部などにはいまなお、他の人種との接触を嫌い、スペイン語よりも先祖伝来の土着語を話すインディオの少数民族が存在するが、政府は彼らに無理に同化を強制せず、保護を加えながら時間をかけて同化してゆく姿勢をとっている。公用語はスペイン語で、全人口の90%以上がスペイン語人口であるが、ナワトル語、マヤ語、ミシュテカ語、サポテカ語などを日常語とする先住民も存在する。

[丸谷吉男]

人口問題

メキシコはラテンアメリカ諸国のなかで人口抑制政策に成功した例外的な国であり、1975年に3.5%に達していた人口増加率は2005年では1.17%に低下し、かつては7、8人の子供が普通であった中間層以上の家庭でもすでに2、3人の子供が通常になっている。これは1970年代にエチェベリーア政権(1970~1976)がローマ法皇の反発を受けながら始めた家族計画が定着したこと、教育の普及が少子化を助長したことのほか、違法な中絶が増加しているためである。カトリックの総本山バチカンは「家族計画の手段としての中絶に反対する」という姿勢を変えていないが、中絶の合法化を求めるメキシコ家族計画財団などが活動している。

[丸谷吉男]

教育

教育制度は革命憲法第3条に基づき、宗教からの独立、民族主義の強調、非識字者の撲滅、初等教育の充実、革命精神を備えた教員の養成を目標としている。文部省は国家予算の配分においてつねに高い優先順位を与えられており、教育予算が国防予算を上回り、教員数が軍人数を上回っている。小学校6年、中学校3年、高等学校3年、大学3~7年で、小学校・中学校の義務教育は無償である。2002年の小学校在学率は99.5%、中学校在学率は62.5%。成人識字者率は90.3%(男92%、女88.7%)に向上したが、先住民人口の多い地域では識字者率は低い。2001年に高等教育機関は2539校、大学は1283校であり、メキシコ国立自治大学、国立工科大学、モンテレー工科大学、コレヒオ・デ・メヒコなどの有名校のほか、州立大学の充実ぶりが注目される。大都市では職業訓練学校、専門学校、英語学校が活況を呈しており、企業のニーズに対応しうる労働力の供給に寄与している。メキシコの北米自由貿易圏への参加の機運を背景に、国定歴史教科書が1992年、1994年と相次いで改訂され、排外的民族主義、特に反米的記述が削除されるなど論議を生んだ。

[丸谷吉男]

宗教

カトリック教会は植民地時代からメキシコの社会・文化に大きな影響を及ぼし、独立後も大土地所有を背景に勢力を拡大し、20世紀初頭にはディアス独裁政権を支える四大勢力の一つとなった。そのため、メキシコ革命以後には政府と対立し、1917年憲法の反教会条項は、「宗教的自由擁護連盟」の反乱、クリステロス戦争を誘発した。

 サリナス政権(1988~1994)は革命憲法制定以降初めてカトリック教会への規制を緩和する憲法改正を行った。従来は法人格は否定され、資産所有は禁止され、聖職者の公民権は否定され、政治的発言や政治的集会も禁止されてきたが、1992年の憲法改正により多くの規制が緩和され、聖職者の選挙権も認められた。しかし被選挙権はなお否定されている。民衆のカトリック信仰は強く、メキシコ市北部の「グアダルーペのマリア(グアダルーペ・イダルゴ)」に対する信仰は先住民の信仰とカトリック信仰の巧みな融合を示すもので、「褐色の聖母(マリア)」として知られる。

[丸谷吉男]

社会福祉

失業保険はまだ制度化されておらず、IMSS(社会保険庁)、ISSTE(公務員保険庁)、PEMEX(石油公社)、INI(先住民庁)、DIF(総合家族開発庁)などが医療その他のサービスを提供しているが、これらの対象外の者はSSA(厚生省)などの無料サービスを受けることになる。地域の発展格差、所得格差が福祉の不平等を生んでいることから、政府は貧困層への対策、地方分権化に力を注いでいる。1970年から2003年の間に平均寿命は61歳から74歳に延び、幼児死亡率は6.9%から2.8%に低下した。1996年には260万人の児童に無料朝食が、280万人の家族に無料トルティーヤ(トウモロコシ粉や小麦粉を煎餅(せんべい)状に焼いたもの)が提供され、栄養の改善が図られた。また、アメリカに居住している多くの移住労働者の社会保障が問題となっていたが、2004年アメリカとの間で社会保障協定が締結され改善が図られることとなった。

[丸谷吉男]

文化
特徴

メキシコ文化の最大の特徴は「インディヘニスモ」であり、それはディアス独裁政権の圧政に対して蜂起(ほうき)したインディオを中心とする民衆が革命を成就したときに、かつての支配者の信奉してきたヨーロッパ文化に対するアンチテーゼとしてメキシコの土着文化を再評価しようとして生まれた運動である。したがって現代のメキシコ文化は、マヤ文化やアステカ文化の流れをくむ素朴で力強い一面と諦観(ていかん)的で孤独な一面をもつ土着の要素に、スペイン風の情熱的で享楽的な要素、カトリック的な要素が融合した独自の「混血の文化」を形成しており、他のラテンアメリカ諸国の文化ともかなり異なるユニークなものとなっている。国民性は一般に明るく、人生は楽しむためにあるという考え方が支配的で、日本の江戸時代の「宵越しの金は持たない」に似た消費様式や現在を楽しく生きる風潮が強いため、貯蓄率はきわめて低い。スポーツではサッカーやボクシング、プロレスが大衆の人気を集めている。ビジネス面では「コネ」や「人脈」がものをいうことが多く、したがって血縁関係、地縁関係が尊重されるほか、名付け親を中心とする独特の「コンパドラスゴ」(儀礼的親族関係)が大きな影響力をもっている。

[丸谷吉男]

芸術

メキシコの芸術もまた革命後大きな変貌(へんぼう)を遂げた。文学では、写実主義によって社会の矛盾を描いたアスエラの『虐げられし人々』(1916)、ルイス・グスマンの『鷲(わし)と蛇』(1928)、フエンテスの『大気澄み渡る地で』(1958)などは「革命の文学」として知られる。メキシコ革命はまた美術の分野で独特の壁画運動を生み出し、リベラ、オロスコ、シケイロスの3巨匠は公共建造物の壁面に巨大な壁画を描き、革命精神を鼓吹した。政府は文部省を通じて美術の振興に力を注ぎ、メキシコ市には美術館や画廊が多く、美術愛好家を楽しませてくれる。インディオ文化がもっとも力強く継承されているのは歌と踊りの分野であり、国立民族舞踊団の「鹿(しか)の踊り」はスペインの征服以前の先住民(インディオ)ヤキ人の踊りがそのまま保存されたものといわれており、またいまなお農村に残っている「コリード」とよばれる物語歌は、毎年数百編に及ぶ叙事詩を生み出している。民族衣装に身を包んだマリアッチ楽団の演奏する「ランチェロ」とよばれる農民の歌や、アグスティン・ララの多くの愛の詩もまた国際的な評価を博している。最近の首都圏や地方都市における博物館や美術館の充実ぶりには目をみはるものがある。

[丸谷吉男]

マス・メディア

メキシコの言論・出版活動はラテンアメリカ諸国でももっとも活発であり、スペイン語圏における影響力も大きい。2000年現在、日刊紙は311紙、発行部数は925万部。主要紙には中立系の『エクセルシオール』、最古の歴史をもつ『エル・ウニベルサル』、もっとも新しい『レフォルマ』、政府系の『エル・ディア』、保守系の『ノベダーデス』、1984年創刊で左派系の『ラ・ホルナダ』、タブロイド版の大衆紙『ラ・プレンサ』、経済紙『エル・フィナンシエロ』、スポーツ紙の『エスト』、急進派の『ウノ・マス・ウノ』、英字紙『ザ・ニュース』などがある。週刊誌『ビシオン』『プロセソ』はスペイン語諸国で広く読まれている。通信社は国営メキシコ通信、テレビは公共1、商業局はテレビサなど235局あり、水準はきわめて高い。

[丸谷吉男]

日本との関係

1609年(慶長14)、上総(かずさ)(千葉県)海岸に漂着したヌエバ・エスパーニャ号の高官が徳川家康、秀忠(ひでただ)に謁見し、1613年伊達政宗(だてまさむね)が派遣した支倉常長(はせくらつねなが)らの使節団はメキシコを通過してローマに向かった。1888年(明治21)の日墨(日本・メキシコ)修好通商条約は日本にとって最初の平等条約であった。第二次世界大戦中の1942年(昭和17)、メキシコは連合国側の一国として宣戦布告したが、1952年(昭和27)に対日平和条約を批准し、国交を回復した。エチェベリーア大統領(在任1970~1976)は最初の外遊先として公式訪日し、留学生交換計画など文化面、経済面の交流拡大に努めた。第一次石油危機後、ロペス・ポルティーヨ政権期(1976~1982)にメキシコが巨大油田の発見により世界的石油大国に変貌(へんぼう)するなかで、石油の確保を目ざしたわが国は官民あげてメキシコに接近した。田中、大平両首相のメキシコ訪問、エチェベリーア、ポルティーヨ両大統領の訪日を機に日本の経済協力、民間投資は大幅に拡大したが、1982年にメキシコが金融危機に陥り、その後大地震、逆オイル・ショックなども加わり、デラマドリ政権期(1982~1988)には両国関係は冷却化した。サリナス大統領(在任1988~1994)は財政の再建、貿易・投資の自由化、規制の緩和、国営企業の民営化などにより、世界銀行、IMF(国際通貨基金)の路線に沿った構造調整を推進した。NAFTA、APECなどに加盟し、メキシコ経済を近代化して、後継者のセディジョ大統領に政権を引き継いだ。セディジョ政権は発足直後に通貨危機に陥り、その回復に2年を要したが、1997年には経済の安定化を背景に日本を公式訪問し、橋本龍太郎総理のメキシコ訪問とあわせて両国関係は改めて友好の度を深めた。フォックス政権(2000~ )にかわっても良好な関係を築いており、2002年の日墨首脳会談で小泉純一郎首相とフォックス大統領は両国の経済連携強化のための締結交渉を立ち上げ、2004年日本メキシコ経済連携協定(EPA)に署名(2005年4月発効)した。また2003年にはフォックス大統領が日本を公式訪問し、第三国への技術協力を共同で実施するための「日・メキシコ・パートナーシップ・プログラム」が署名された。2003年現在、日系進出企業は日産自動車、コニカなど339社、在留邦人は4510人。日本の対メキシコ輸出額は2004年に51.9億ドルで、機械・設備、自動車・電機部品が中心であり、輸入額は21.7億ドルで石油、豚肉、銀などが中心である。日本は経済協力に積極的で、重油脱硫、ディーゼル油脱硫、国鉄機関車修復への円借款供与、ガソリン無鉛化、上水道整備、首都圏植林への輸銀融資のほか、無償資金協力として漁業訓練船、小学校校舎建設、漁業調査センター整備、地震防災センター設立などを行っている。技術協力では2003年度までにメキシコから5260名の研修員を受け入れ、1551名の専門家派遣を行い、青年海外協力隊員144名を派遣している。アジア諸国がメキシコとの経済交流を拡大する傾向があるなかで、日本も橋本龍太郎首相のメキシコ訪問(1996)以降、交流拡大の機運が高まり、2004年に小泉純一郎首相がメキシコ訪問の際、日墨文化サミット開催に合意(翌2005年にメキシコ市で開催)し、経済分野のみならず文化交流を含めた幅広い分野での交流が促進されている。

[丸谷吉男]

『恒川恵市著『従属の政治経済学メキシコ』(1988・東京大学出版会)』『黒沼ユリ子著『メキシコの輝き』(1989・岩波書店)』『丸谷吉男編著『メキシコ――その国土と市場』(1993・科学新聞社)』『工藤律子著・篠田有史写真『居場所をなくした子どもたち――メキシコシティのストリートチルドレン』(1998・JULA出版局)』『邸景一他著、「旅名人」編集部編『ユカタン半島――メキシコ・マヤ文明の足跡』(1998・日経BP社、日経BP出版センター発売)』『NAFTA研究会編著『新生するメキシコ産業――NAFTA効果の検証』(1998・日本貿易振興会)』『星野妙子著『メキシコの企業と工業化』(1998・アジア経済研究所、アジア経済出版会発売)』『並木芳治著『メキシコ・サリーナス革命――北米自由貿易協定に賭けた大統領』(1999・日本図書刊行会、近代文芸社発売)』『谷浦妙子著『メキシコの産業発展――立地・政策・組織』(2000・日本貿易振興会アジア経済研究所)』『石黒馨著『開発の国際政治経済学――構造主義マクロ経済学とメキシコ経済』(2001・勁草書房)』『宮本雅弘編著、村上達也・白田良子他著『図説 メキシコ――混血が生む新しい民族文化』(2001・河出書房新社)』『国本伊代著『メキシコの歴史』(2002・新評論)』『工藤律子著、篠田有史写真『仲間と誇りと夢と――メキシコの貧困層に学ぶ』(2002・JULA出版局)』『加藤薫著『メキシコ壁画運動――リベラ、オロスコ、シケイロス』(2003・現代図書、星雲社発売)』『鈴木康久著『メキシコ現代史』(2003・明石書店)』『丸谷雄一郎著『変貌するメキシコ小売産業――経済開放政策とウォルマートの進出』(2003・白桃書房)』『安原毅著『メキシコ経済の金融不安定性――金融自由化・開放化政策の批判的研究』(2003・新評論)』『高山智博著『メキシコ多文化 思索の旅』(2003・山川出版社)』『野村暢清著『宗教と社会と文化2――メキシコ・カトリック村落の研究』(2003・九州大学出版会)』『山崎真次著『メキシコ 民族の誇りと闘い――多民族共存社会のナショナリズム形成史』(2004・新評論)』『国本伊代・畑恵子他著『概説メキシコ史』(2004・有斐閣)』『禪野美帆著『メキシコ、先住民共同体と都市――都市移住者を取り込んだ「伝統的」組織の変容』(2006・慶應義塾大学出版会)』『世界経済情報サービス編・刊『メキシコ(ARCレポート)』各年版(J&Wインターナショナル発売)』『山本純一著『メキシコから世界が見える』(集英社新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「メキシコ」の意味・わかりやすい解説

メキシコ
Mexico

基本情報
正式名称=メキシコ合衆国Estados Unidos Mexicanos 
面積=196万4375km2 
人口(2010)=1億1065万人 
首都=メキシコ市Ciudad de México(日本との時差=-15時間) 
主要言語=スペイン語 
通貨=メキシコ・ペソMexican Peso

北アメリカ大陸の南部にある合衆国。北はアメリカ合衆国,南東はグアテマラおよびベリーズと国境を接している。メキシコとは,古代アステカ帝国の言語であったナワトル語の〈メシコ〉に由来する。その語源に関してはさまざまな説があるが,一般には,太陽と戦いの神ウイツィロポチトリの別名〈メシトリ〉と,場所を表す〈コ〉から成り,〈メシトリの地〉を意味すると解釈されている。現在,メキシコでは自国のことをメヒコと発音する。
執筆者:

ラテン・アメリカ第3位の面積をもち,その国土は熱帯から亜熱帯地域にまたがっているが,大部分は山地と広い高原で,気候も海岸の低地を除くと,一般に温暖または冷涼である。このため低地ではサバンナ,高原ではステップ気候が卓越している。

 アメリカ合衆国から続くシエラ・ネバダやロッキーの山脈が,メキシコに入ってシエラ・マドレとなって,国土を北西から南東に走っている。西シエラ・マドレは太平洋岸に沿って,東シエラ・マドレはメキシコ湾側に連なる。この両山脈は南に向かうにつれて高度を増し,南部の太平洋岸で合して南シエラ・マドレとなって東西に走り,テワンテペク地峡を越えてグアテマラに至っている。東・西のシエラ・マドレと南シエラ・マドレに囲まれた地域は,標高1000~2000mの広大なアナワク高原メキシコ中央高原)となっている。南シエラ・マドレの北側に,バルサス低地帯をはさんで,これと平行に東西に走るメキシコ新期火山帯があり,東・西のシエラ・マドレと重なって,ポポカテペトル,イスタクシワトル,オリサバなど,標高5000mを超える高い火山列をつくっている。太平洋の沿岸は山地が海に迫って,入江や断崖が多いが,メキシコ湾沿岸には砂浜や湿地の多い低地が形成されている。南のユカタン半島は,水平な石灰岩の地層から成り,低平な丘陵地となっている。

 降水量は,カリフォルニア湾沿岸において最も少なく,年間降水量は100mmにも満たない。またアナワク高原の北部でも降水量は少なく,年間200~400mmの地域が続き,砂漠やステップが広がる。アナワク高原も南に向かうにつれて降水量は増加し,メキシコ市付近では,年間1000mmに達するようになる。メキシコの多雨地域は,テワンテペク地峡の北側,ベラクルス州,タバスコ州にあり,年間4000mm以上の降水量を記録する所もある。国土の中央部を北回帰線が走り,低緯度にあるにもかかわらず,アナワク高原は,その高さのため気温は比較的低く,メキシコ市では年平均気温は16℃,最暖月の5月でも19℃にしか達しない。南のテワンテペク地峡付近では高温多湿となり,熱帯雨林気候となる。
執筆者:

国民の8割以上が白人(主としてスペイン人)と先住民(インディオ)との混血(メスティソ),それに約1割の先住民と1割以下の白人といった独特な人種構成をもつ。その起源は1521年のスペイン人によるアステカ王国の征服にさかのぼる。スペインの征服者エルナン・コルテス自身,先住民の女性マリンチェとの間に子を残しているので,彼はその意味でも混血の国メキシコの祖といえよう。しかしその後,300年にわたる植民地時代は,スペイン人を支配者とし,先住民を被征服民とする階級差が大きい二元的社会であった。混血は時代とともに増え続け,社会的には周辺的な存在であり,スペイン人の下にあって先住民を搾取する側に属した。だが国民の大半が混血である現在では,メキシコは人種問題に関してはアメリカ合衆国や日本よりもきわめて開かれた国となっている。

 メキシコは現在でも,他の多くのラテン・アメリカ諸国と同様,貧富の差が大きい社会といえる。それは植民地時代のスペイン人を主人とし,インディオを従属民とする二元的社会という構造が十分に解消されていないからである。それと同時に,征服以後,メキシコ全土において混血化が進行し,皮膚の色による序列がみられる複雑な社会がつくり出された。メキシコは1821年にスペインから独立したが,こうした社会構造そのものにはあまり変化がみられなかった。なぜならば独立戦争そのものが,政治などの実権を牛耳るペニンスラール(本国から派遣されたスペイン人)の支配を不満とするクリオーリョ(新大陸生れのスペイン人)の反乱という側面が強かったからである。したがって,独立後,法の下の平等はうたわれたが,現実にはペニンスラールに代わってクリオーリョが支配者の座に就いただけであった。先住民出身の大統領ベニト・フアレスも出現したが,それはむしろ例外といってよかった。相変わらず先住民や混血は国内の地主や外国人企業家によって搾取され続けた。このような状況に対して起こったのが,1910年のメキシコ革命である。これは全国民を巻き込む戦争となり,その結果として,農地改革のもとになる条項や労働者の保護をうたった条項を盛り込んだ1917年憲法が生まれた。これによって確かに社会的には大きな変化がもたらされたが,経済格差を解消するところまではいかなかった。とくに40年以降,増産と工業化が促進されて全体的に発展し,中間階級が増大したとはいうものの,貧富の差はなくなっていない。現在でも,中間階級以上の〈発展した部分〉と,貧しい農民や都市の下層労働者から成る〈周辺部分〉が存在する。

 目だった変化を見せているものに人口増加がある。1940年に1981万人だった人口が,60年には3604万人となり,80年には6740万人,96年には9271万人,2005年には1億0700万人と驚くべき急増ぶりを示した。また教育の普及により,1930年には6歳以上の人口の66.6%が文字を読めなかったが,2003年には9.7%と激減した。保健面での向上も目覚ましく,1940年に41歳だった平均寿命が,2003年には男72歳,女77歳に延びている。

メキシコには2万年の長さをもつ独自の文化が存在した。もちろん,それが現在まで存続しているわけではない。16世紀に起こったスペイン人による征服の結果,この地にスペイン文化が移植され,それが新たなメキシコ文化の基調となった。しかし先住民が住む地方では,いまもインディオ的な生活様式が見られ,そこでは外来のスペイン文化が土着のものと融合した形になっている。メキシコには現在,ナワトル,マヤ,サポテカといった固有の言語や文化をもつ民族集団が56も存在し,その数は800万~1000万人にものぼると見られている。メキシコ文化とか国民文化などと呼ばれているものは,ヨーロッパ文化を主体にした混血文化といってよいであろう。しかしメキシコ文化が即スペイン文化ではなくて,混血文化であると認識されるようになったのは,それほど古いことではなく,メキシコ革命以後であるといってよい。それ以前は,近代化=ヨーロッパ化であるとみなされ,遅れた文化をもつインディオはヨーロッパ文化によって文明化されるべきであると考えられていた。

 革命が一段落した1921年に文部大臣に就任したバスコンセロスJosé Vasconcelos(1882-1959)は,民族主義教育を推進し,また画家たちに公共建築の壁面を提供してメキシコの歴史や民衆の生活をテーマにした壁画を描かせた。これが有名な〈壁画運動〉である。このようなメキシコ文化の創造の一つとして,バスコンセロスなどの哲学者による〈メキシコ的なもの〉の探求もあげられる。またインディオ的なものがメキシコのルーツの一つであるとみなされ,先住民が築いた古代文明に対する関心が高まったり,貧しい生活を強いられているインディオの向上を図る〈インディヘニスモ〉が活発化したりした。しかしながら,このインディヘニスモは,インディオを国民文化に統合することを目標としたものであった。メキシコのインディヘニスモの指導者,カソAlfonso Caso(1896-1970)によれば,インディヘニスモとは,〈メキシコに住むインディオを,実際にメキシコと彼ら自身の発展のために貢献するようなメキシコ人に変えていくこと〉なのである。しかしこの目標は,1960年代末に批判されることになる。それを追求することは,インディオの否定につながるとみられるようになったからである。そして彼ら固有の民族としてのアイデンティティの尊重が叫ばれた。従来の混血文化という単一文化をもつ国家よりも,多文化・多民族文化のほうが豊かだという認識に変わったのである。しかし現状は,メキシコ政府や多くの学者の呼びかけと支援にもかかわらず,多様で他に類のないメキシコの伝統文化が,多国籍企業の進出やアメリカ文化の浸透により,重大な岐路に立たされている。
ラテン・アメリカ美術 →ラテン・アメリカ文学
執筆者:

現代メキシコの政治の最も顕著な性格は,その安定度の高さである。武装反乱やクーデタを日常茶飯事とするラテン・アメリカの政治風土の中で,1930年以来半世紀以上にわたって武力革命やクーデタの経験をもたないメキシコは,政治的にはこの地域の例外といってよい特異な存在である。この国の政治が高度な安定性を保っている理由として,次のようなことがあげられる。(1)軍部が政治に介入しない。(2)一党支配体制が確立している。(3)大統領の権力がきわめて強大である。以上の三つは,それぞれメキシコの政治の特徴として相互に密接に関連し合って,他のラテン・アメリカ諸国とは異なったこの国独自の政治構造を形づくっている。

 第1の特徴である軍部の政治不介入は,20世紀初頭のメキシコ革命の経験に由来する。革命の過程は10年以上に及ぶ武力闘争の連続であった。革命を最終的に収束した政治指導者たちは,暴力の主体たる軍部を政治の支配下に置くことによって政治そのものを安定させようと試み,成功した。具体的には,兵力の縮小,軍事予算の削減,軍部の権限の法的規制などによるが,最も効果的だったのは,労働者,農民,官僚などの非軍事的勢力から成る政党を結成し,軍部の政治に対する影響力を封じ込めてしまったことである。言い換えると,政党の創設によって政治を制度的に整備されたものとし,軍部という直接的暴力が政治に介入する余地をなくしてしまったのである。軍部の政治からの排除は1940年代に完了し,46年以降,歴代の大統領はすべて文民出身である。

 第2の,そして最大の特徴は,制度的革命党(PRI)による一党支配体制にある。PRIの誕生は1946年であるが,その前身は1929年に創設された国民革命党(PNR)である。PNRは軍部以外の諸政治勢力の糾合体であり,この政党こそが政治から軍部を追放した主体であった。もともとPNRは,雑多な集団によって構成された革命勢力が革命を成功させたことによって獲得した権力を維持・強化する目的で結成されたものである。このような経緯から,PNRは誕生した時点ですでに唯一の政党だったわけであり,また権力を獲得するためにつくられた他の国の多くの政党とは性格を異にしていた。

 こうして1929年以降,メキシコは一党支配体制下に置かれていたが,これは,社会主義国に見られるような一党独裁体制とは必ずしも同じではない。というのは,社会主義国とは異なって,メキシコにはPRI以外にもいくつかの政党が存在するからである。それらは,国民行動党,人民社会党,メキシコ共産党などである。しかしこれらの野党は,党員数,動員力,議席数,得票率などあらゆる面で与党とは大きな隔りがあり,PRIに比肩しうる存在ではない。事実,PRIはメキシコの全有権者数の3分の1にあたる1000万人以上の党員を擁し,大統領選挙でも上・下両院議員選挙でも70%を下回る得票率を記録した経験はなく,90%以上の投票を獲得したことさえある。議席数についても,上院のほとんど全議席,下院議席の4分の3以上はつねにPRIによって占められている。こうしたことからメキシコでは,形式的には複数の政党による民主的な政治が営まれているものの,実際には野党は,政党間の競合という民主政治のたてまえを保つための存在にすぎない。野党の議席の大半は,選挙の結果として有権者の力で獲得したものではなく,そのままではあまりにも議席数が少なくなってしまうために,得票率に応じて政府,すなわちPRIが配分し与えたものである。メキシコの政治においては,野党はむしろ圧力団体に近い存在とみることができる。

 PRIは,創設時の超階級的性格をいまだに保っているばかりでなく,今日ではほとんどあらゆる職業分野の団体と個人をその傘下に収めている。このような超階級的・職能横断的性格によって,PRIは国民の各層から幅広い支持を集めることに成功している。しかもこうした性格が,PRIを社会主義国家の一党独裁政党のような,一枚岩的な固い組織となることから免れさせている。したがってPRIの内部には,労働組合や農業協同組合を含む各種の利益集団の利害と意見の対立が存在している。PRIは,外部には競合すべき組織をもたないが,その内部では諸集団間の競合が行われているのである。政治の領域における各主体間の相互作用の総体を政治システムと呼ぶとすれば,メキシコの場合は,PRI自体が一つの政治システムを形成しており,社会主義国家ではないにもかかわらず,単一の政党によって政治システムのほぼ全体が成り立っているところに,政治構造の独自性がある。

 PRIによる政治的統合は,言い換えれば政治の制度化ということになるが,この制度化がこれまでのところ順調に成し遂げられてきたのは,メキシコの政治の第3の特徴である大統領の強大な権力によるところが大きい。PRIの頂点に立って政治を支配しているメキシコの大統領は,国内的にはアメリカ合衆国の大統領をはるかに上回る権限を保持している。PRIの党首は一応全国幹部会の議長ということになっているが,実質的なリーダーは大統領である。そして,議会は両院ともPRIの圧倒的支配下にある以上,アメリカ合衆国のような議会と大統領の対立,あるいは議会による大統領の権力のチェックといった事態は起こりようもない。全閣僚および連邦区(メキシコ市)知事の任免権は大統領に属しており,住民の直接選挙で選出される各州知事も大統領がその罷免権を有している。このように制度的に保障された権限とともに,ペルソナリスモpersonalismoというこの国特有の政治風土が,大統領の権力をさらに強固なものとしている。

 ペルソナリスモとは,政治思想などを抽象的な形で理解することができないために,それを特定の個人に投影して見ることであり,個人崇拝,個人絶対の形をとると同時に,公的な人間関係に私的な人間関係が介入する契機となっている。メキシコの社会的疾病の一つといわれる政治的腐敗もここに由来しているが,他方このペルソナリスモこそが,大統領がPRIを統合することを可能にしているといえる。ペルソナリスモは社会の各レベルで見られる現象であるが,その諸レベルの頂点に位置しているのが大統領だからである。PRI内部の諸集団間の競合は,これを放置すればやがて内部紛争に発展し,党分裂の危機を招くかもしれない。しかし,ペルソナリスモに裏打ちされた強大な権力をもつ大統領が,最終的な紛争調停者,利害の調整者として存在することにより,競合は分裂をもたらすことなく,むしろ組織の活力として安定の方向に作用する。

 メキシコの政治は,PRIの一党支配体制による政治の制度化と,強大な権力を握る大統領に象徴されるペルソナリスモという政治風土とで,その安定が維持されている。もしこの安定が崩れることがあるとすれば,それは,近代化の産物である制度化と,伝統に根ざした政治風土との矛盾が露呈したときであろう。
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1970年代の石油危機は多くの国の経済に大きな衝撃を与えたが,メキシコ経済はその石油危機の進行とほぼ並行して発見された巨大な石油資源の開発により目覚ましい発展を遂げた。とはいえ,メキシコは,イランその他の産油国のように石油以外にみるべき産業をもたない発展途上国とは異なり,88年の1人当り国民総生産が1820ドルという中進国であり,同時に巨大産油国でもあるという国は,世界経済史上初めての国であった。83年の潜在埋蔵量2500億バレル,確認埋蔵量725億バレルという石油賦存量は,メキシコを世界第5位の石油大国に押し上げたが,その大部分が1970年代の石油危機の進展と並行して発見されたことはきわめてドラマティックであった。しかも,そのような巨大産油国でありながら,OPEC(石油輸出国機構)に加盟していなかったので,OPECによる原油価格や生産量の操作によって重大な影響を受けていた日本など石油消費国のメキシコ石油に対する期待が高まった。

19世紀後半から1910年のメキシコ革命勃発までの経済は,封建的な大土地所有制と外国資本の投資に依存した植民地経済であった。製鉄所がつくられ,鉄道が建設され,鉱山が開発され,農産物は輸出されたが,その利益の大部分は外国資本や大地主など一部の特権階級に独占され,国民の90%以上を占めた農民はなんらの恩恵にも浴することがなかった。土地なき農民の武力蜂起を中心として始まったメキシコ革命により,外国資本は逃避し,工業や農業も崩壊し,20年代後半になってやっと回復の途についたが,29年の世界経済恐慌が追打ちをかけたため,30年代の経済は混乱のうちに推移した。34年に発足したカルデナス政権は,労働組合や農民団体の支援を背景に,鉄道や石油産業の国有化,土地改革による農民への農地分配,国家が経済活動において指導的役割を果たすという〈混合経済体制〉の導入,財政・金融制度の整備,道路・港湾・灌漑施設などインフラストラクチャーの建設などを推進した。

 第2次大戦はメキシコ経済に発展の契機を与えた。直接戦火を被らなかったメキシコは,連合国への主要な戦略物資供給国として農産物や天然資源を大量に輸出し,史上空前の外貨を獲得すると同時に,戦争のために輸入できなくなった工業製品を国内で生産するために輸入代替工業化政策を進め,各種産業の振興を図った。土地改革によって農民の生産意欲が向上し,農民の所得が増加していたので,国内需要は旺盛で新興の民族産業資本の発展を助長した。そして,第2次大戦終了時には,メキシコはかつての一次産品輸出国から新たな工業国へと変貌していた。

第2次大戦後から1970年にかけての経済発展は目覚ましく,〈メキシコ経済の奇跡〉として世界の注目を浴びた。第1の特徴は,長期にわたる高度経済成長であった(1940-60年の年平均実質経済成長率は6%を上回り,60-70年には7.1%という,発展途上国のなかでも例の少ない高さであった)。第2は,インフレなき成長を実現したことである。この時期のラテン・アメリカ諸国はいずれも高率のインフレに襲われていたが,メキシコは生活必需品の価格統制や最低賃金制の運用によって物価の抑制に成功した。第3は通貨の安定であり,メキシコ・ペソは1954年から76年まで,為替管理を行うことなしに,対ドル為替レートを維持した。これらの特徴は,当時のラテン・アメリカ諸国の実情と対比して,〈奇跡〉というべき実績であった。しかしその奇跡の陰に忍びよっていた諸問題は,1970年代に至り,石油危機の影響とあいまって経済危機をもたらした。

 エチェベリアLuis Echeverría Álvarez(1922- )政権(1970-76)は国内的には労働者,農民寄りの政策をとって民間経済界と対立し,対外的には外資規制法の制定や国連を舞台とした第三世界外交によってアメリカ合衆国などの先進諸国の反感を招いたため,経済は停滞傾向をたどり,不況による失業の増大やインフレなどの問題が顕在化した。そこで政府は外国から多額の借款を導入し,公共部門主導の政策によって経済を再建しようとしたが,第1次石油危機により事態はいっそう深刻化した。とくに公的対外債務が同政権期に5倍以上に増加し,200億ドルを超えたことは内外の通貨不安を高め,76年8月,メキシコはついに22年間にわたる固定為替相場を放棄して変動相場制に移行し,ペソは大幅な下落を余儀なくされた。

ペソ下落に象徴された未曾有(みぞう)の経済危機のさなかに発足した,ロペス・ポルティーヨJosé López Portillo(1920-2004)政権(1976-82)は,労働者には賃上げ自粛を,民間経済界には積極的な投資を要請し,対外的にはアメリカ合衆国など先進諸国との関係改善を図り,外国投資の導入を促進した。また〈天然資源は国内消費に必要なだけ生産し,将来のために温存すべきである〉という歴代政権の方針から〈現在の危機を乗り切るために石油開発を推進し,石油輸出収入を有効に利用すべきである〉というように石油政策を大きく転換した結果,石油産業が経済のリーディング・セクターとなり,経済成長率は1978年8.2%,79年9.2%,80年8.3%,81年8.1%と高水準を達成し,年間約70万人の新規雇用が創出され,〈国家工業開発計画〉〈総合開発計画〉〈国家エネルギー計画〉など意欲的な開発計画が推進された。そして,メキシコ経済の前途は洋々たるものとみられ,各国金融機関は競ってメキシコに融資を行い,多国籍企業の進出が加速され,先進諸国首脳のメキシコ訪問が続いた。

 それだけに,82年8月13日の〈メキシコ金融危機〉の与えた衝撃は大きかった。(1)800億ドル以上の対外債務,(2)史上空前の高インフレ,(3)ペソの暴落,(4)為替管理の導入,(5)国内民間銀行の国有化,(6)企業倒産と失業の急増,(7)社会階層間の貧富の差の拡大などを特徴とする経済危機のなかで,82年12月1日にデ・ラ・マドリMiguel de la Madrid Hurtado(1934- )政権が発足した。

 金融危機の原因は,(1)原油価格反落による外貨収入の減少,(2)混合経済体制に伴う非効率と巨額の財政赤字,(3)国際金利上昇による金利負担増,(4)工業生産能力の限界,(5)輸送・流通能力の限界,(6)熟練労働者など人的資源の限界,(7)農業生産の不振と大量の食糧輸入,(8)国内の資金不足(9)労働運動の激化と賃金上昇などであった。要するに,6%程度の経済成長に適した体質であったメキシコ経済が,巨額の石油収入という要因を背景として,短期間に高度成長路線へと転換したために過熱現象を生じ,多くの部門に不均衡とボトルネックを生み出したということであった。

 デ・ラ・マドリ政権は若手テクノクラートの登用,綱紀粛正の推進,民間経済部門の活力強化,国有化銀行に対する補償の履行,IMFとの協定の順守,為替レートの小刻み切下げ政策,外資政策の弾力的運用,対米柔軟路線への転換などにより,第2次大戦後最大といわれた危機を着実に克服し,84年には3年ぶりに経済成長をプラスに転換した。対外債務問題についても国際民間銀行団との間で多年度一括リスケジュールを成功させ,対外債務問題解決のための〈メキシコ方式〉を定着させた。

メキシコは19世紀中葉にアラモの戦を頂点とするアメリカ合衆国との戦争に敗れ,テキサス州,カリフォルニア州など国土の51%に相当する地域をアメリカ合衆国に〈強奪〉されたと感じている。メキシコ革命が最大の敵とみなした外国資本の中心をなしていたのも,アメリカ合衆国資本であった。したがって〈特定の外国(主としてアメリカ合衆国を意味する)に経済的に過度に依存すること〉は歴代政権にとってタブーとされてきた。にもかかわらず3000km以上にわたって陸続きの国境を接するアメリカ合衆国経済の浸透力は強く,1983年においても輸出,輸入,直接投資の70%前後はアメリカ合衆国によって占められた。エチェベリア大統領もロペス・ポルティーヨ大統領もともに日本を公式訪問し,日本との経済関係の拡大・強化を要請し,毎年100名ずつという大規模な留学生交換計画や文化交流協定,各種の経済協力協定に調印している。これらはアメリカ合衆国の圧倒的な経済力の圧力を軽減するために日本やヨーロッパ諸国との貿易,投資,経済協力を拡大したいという願望の現れであった。日本にとっては,石油輸入の大部分を占める中東諸国の政情が不安定であり,かつOPEC加盟の産油国の強引な石油戦略によってしばしばエネルギーの安定供給を脅かされた経験からみても,太平洋の対岸に位置し,過去半世紀以上にわたって安定した政情を維持し,しかもOPECの政策に拘束されずに,独自の石油政策をとりうるメキシコの石油は,エネルギーの安定供給のために必要不可欠のものである。21世紀をめざしてメキシコが工業化政策に力を入れれば入れるほど,日本の資本財,中間財,投資,技術移転に対する需要が高まることは必定である。このように両国経済は経済摩擦を起こすような競合関係にはなく,相互に利益を分かち合えるような相互補完関係にあることからみて,今後日本とメキシコは経済のみならず,政治や社会や文化の面でも友好度を高めてゆくことになろう。
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メキシコの歴史は,大きく分けると,先スペイン時代,植民地時代,独立以降の時代の三つの時期に区分される。先スペイン時代はH.コルテスによるアステカ王国征服(1519-21)以前の時期であり,植民地時代はスペインが支配した1521-1821年の300年間を指す。独立以降の時代はメキシコがスペインから独立した1821年以降を指し,なかでも社会革命が勃発した1910年を現代史の起点とするのが普通である。

アメリカ大陸最初の住民は今からおよそ3万5000年前にベーリング陸橋を渡ってアジア大陸から移住したと考えられるが,メキシコでこれまでに発見された最古の住民の痕跡(メキシコ市南東約30kmのトラパコヤTlapacoya遺跡)は約2万1000年前のものと推定されている。メキシコ古代文明の母と呼ばれるオルメカ文化がメキシコ湾岸低地帯に出現したのは紀元前1200年ごろであった。暦やゼロの概念を有し,巨大人頭石像を残したこの文化は,前500年ごろに衰退した。その後,紀元前後から900年ごろにかけて各地方でさまざまな文化が栄えた。なかでも太陽と月のピラミッドで知られるアナワク高原のテオティワカン文化は350-650年に繁栄し,その他の文化に大きな影響を与えたことが知られている。

 その後のアナワク高原では13世紀後半にメシカ族が北方より南下し,古代メキシコ文明の中で最強といわれるアステカ王国を築いた。アステカ王国は16世紀初めには今日のグアテマラ国境までその勢力圏を拡張し,現在メキシコ市のあるテスココ湖上に築かれた首都テノチティトランは,スペイン人が初めてここに到着した1519年に人口8万人を擁していた。コルテスに率いられたスペイン軍は1519-21年にアステカ軍と戦い,湖上の首都を陥落させた。わずか数百人のスペイン人がアステカ王国を征服できたのは,ヨーロッパ文明の武器や戦術が古代文明の段階にとどまっていたアステカ文化の武器,戦術に勝っていたほか,アステカ王国がすでに絶頂期を過ぎて内部で社会不安が高まっており,勢力圏内の一部の部族が寝返ってスペイン軍に荷担したからであった。

植民地時代の300年間はその発展過程によって次の三つの時期に分けられる。(1)征服とそれに続く探検および開発の時代である16世紀。(2)先住民人口が激減し経済活動が停滞したが,のちのメキシコ社会の特色の多くを形成した17世紀。(3)経済活動が再び活発となり,社会が新たな躍動を始める18世紀。

 16世紀は別名〈征服の世紀〉とも呼ばれ,軍事的征服と並行して,精神的征服としての先住民のキリスト教化を目ざす宣教師たちの,熱心な布教活動が顕著な時代でもあった。一方,16世紀半ばにサカテカスやグアナフアトで有望な銀鉱脈が発見されると鉱山開発ブームが起こり,それに伴ってスペイン人による北部辺境地の開発が急速に進められた。この間1528年に,重要な司法行政庁であるアウディエンシアが最初の植民地統治機関としてメキシコ市に設置され,ついで35年には広大な新大陸スペイン領を二分して治めた副王庁の一つがメキシコ市に設置されて,スペイン王室の植民地統治機構が整えられた。

 植民地経済の開発はエンコミエンダ制による先住民労働力の徴発によって始められたが,この制度によって農業,鉱山開発,都市の建設などのために動員された先住民は,過酷な労働とスペイン人が持ち込んだ天然痘など未知の病気のために16世紀を通じて人口を激減させた。征服直前のアナワク高原における推定人口約2500万人は,17世紀初頭には約100万人にまで減少したと推計されている。一方,過酷な労働から先住民を救おうとする先住民保護運動がラス・カサスらによって展開され,王室はエンコミエンダ制を制限したが,先住民人口の減少によりエンコミエンダ制は実質的に存在価値を失っていった。エンコミエンダ制に代わって16世紀末から17世紀前半にかけて出現したのがアシエンダ制(大農園)である。アシエンダは単なる大土地所有制であるだけでなく,半封建的な社会経済組織体へと発達した。とくに北部や辺境地のアシエンダは地理的孤立性や流通貨幣の不足から自給自足を原則として発達し,独自の地域社会を形成した。

 18世紀に入るとメキシコは新たな銀ブームを迎え,経済活動が活発となった。とくに啓蒙君主として知られるスペイン国王カルロス3世の時代に実施された〈ブルボン改革〉と呼ばれる行政改革と産業振興政策は,メキシコの発展に大きな影響を及ぼした。貿易自由化政策はメキシコの貿易を増大させ,経済の繁栄は多くの新移民をスペインからもたらし,植民地社会を活発化させた。一方,植民地時代を通じて本国人と差別されながらも経済基盤を築いてきたクリオーリョは,このころすでに100万人(総人口600万人の約16%)に達し,彼らはこのような躍動する社会の中でアメリカ合衆国の独立およびフランス革命の影響を受け,メキシコ人意識に目覚めていった。1810年に始まる独立運動は,本国スペインがナポレオンによって侵略されスペイン王室の権威が失墜したことを契機として始まったが,19世紀初頭のメキシコにはすでに独立への気運が高まりつつあったのである。

独立以降の今日に至る時代は,(1)独立後1860年代まで続く混乱の時代,(2)政治の安定と経済の繁栄を達成したディアス独裁時代(1877-1911),(3)1910年に勃発したメキシコ革命を起点とする現代,に大きく分けられる。

 1810年9月16日の〈ドローレスの叫び〉で始まった独立運動は,独立の父イダルゴ神父によって率いられ,イダルゴが処刑されたのちモレロスによって引き継がれて,13年チルパンシンゴの議会で独立宣言がなされた。しかし,この初期独立運動はやがて挫折し,メキシコがスペインから独立するのは21年であった。短命のイトゥルビデ帝政(第1次帝政)を経たあと,24年に憲法が制定されてメキシコは連邦共和制を採用したが,この後約半世紀にわたって政治の混乱と経済の停滞が続いた。弱体な連邦政府の下でカウディーリョ(地方軍閥)が権力を争い,中央集権主義者と連邦主義者,また教会擁立派と反教会派が対立した。11回にわたって大統領の地位に就き,29年の対スペイン戦争で国民的英雄となったサンタ・アナはこの時代を代表する典型的なカウディーリョである。

 一方,36年北部のテキサスがメキシコから分離独立し,やがてこれを合併したアメリカ合衆国に対してメキシコは46-48年に〈メキシコ・アメリカ戦争(米墨戦争)〉を起こした。しかし,メキシコは敗北し,領土の半分以上を失ってほぼ今日の領土にまで縮小した。この未曾有の敗北の中で54年自由主義派が権力を握り,近代化を目ざす諸改革法と1857年憲法を制定した。個人の権利を尊重し,自由放任主義経済と政教分離を主張した自由主義派の人々は,この〈レフォルマ〉として知られる改革の時代(1854-67)を通じてメキシコ近代化の基礎をつくった。とくにカトリック教会は改革政治の的となった。国土の半分を占めていたといわれる教会所有地が解体され,戸籍,婚姻,教育など国民の日常生活のほとんどすべてを支配していた教会の権限が剝奪された。その結果,58-60年に教会を中心とする保守勢力と改革を推進する自由主義派勢力との間で内戦が起こった。61年内戦を終結させた自由主義派政府は財政窮乏から外債利子支払停止を宣言したため,フランスの武力干渉を招いた。フランスはオーストリア大公マクシミリアンを送ってメキシコを支配し,第2次帝政時代(1864-67)を出現させた。自由主義派勢力はフアレス大統領の指揮下で戦い,67年にフランス軍を破った(メキシコ干渉)。ここに〈復興共和国〉と呼ばれる時代が始まり,76年に至るまでメキシコの近代化を目ざした諸改革が実施された。

 76年自由主義派のリーダーの一人であり,対フランス干渉戦争で活躍したP.ディアスが武力で政権を掌握した。ディアスはこの後1911年に国外へ亡命するまで実権を握り,35年間に及ぶ独裁時代を出現させた。ディアス時代は政治の安定と経済発展に特徴づけられる時代であった。強力な国家警備隊の配置によって全国的に平穏が保たれ,割拠するカウディーリョたちは体制内に組み入れられた。一方,経済開発を促すための新しい鉱山法や拓殖法が制定され,外国資本が誘致された。国内政治の安定と積極的な外資導入策は,膨大な外国資本のメキシコへの導入を成功させ,経済開発は急速に進められた。しかしその結果,メキシコの重要な経済部門の大部分が1910年までに外国資本によって支配されるに至ったのである。例えば,1910年外国資本は鉄道の98%,石油の97%,鉱山資源の97%を占めたほか,国土の約4分の1を所有していた。一方,農民の97%は土地を所有せず,大農園の支配する農村は困窮化した。また,工業の発達とともに工場労働者の数も増加したが,劣悪な労働条件は多くの工場でストライキを発生させた。20世紀に入ると独裁体制に反対する知識人や新興産業資本家層の不満が高まり,やがて1910年にはメキシコ革命へと発展していったが,勃発した革命は急進的改革主義者,農民,労働者などさまざまな勢力によって展開された。

1910年に勃発したメキシコ革命は10年代を通じて動乱を経験し,17年に革命の目標を盛り込んだ憲法を制定した。メキシコの現行憲法でもあるこの革命憲法に基づいて,今日までに農地改革,徹底した政教分離,鉄道および石油の国有化を含む外国資産の国有化などが実施されてきた。最も強力に改革を推進したカルデナス政権(1934-40)の終了をもって一般にメキシコ革命は終わったとされるが,メキシコはこの直後に始まる第2次大戦を契機として工業化の時代を迎えた。

 第2次大戦はメキシコ現代史の一つの転機であった。メキシコは連合国への主要な戦略物資供給国としての役割を果たし,戦時経済ブームを享受すると同時に,戦争のために輸入できなくなった工業製品を国内で生産するための工業化を推進し,戦後に迎える工業時代の基礎を築いた。政治的には1946年に政党組織が再編成されて制度的革命党が設立され,強力な一党支配体制下での安定政治の基礎が固められた。その後ほぼ70年ごろまでメキシコは高度経済成長期を迎え,経済発展と国民生活の著しい向上とを経験した。しかし,そのひずみとしての社会問題も一方で深刻化し,貧富の格差の拡大,労働運動の激化,反政府ゲリラ活動の出現なども見られた。国民の対政府抗議運動は1968年のメキシコ・オリンピック開催を契機として頂点に達し,流血の惨事を招いた。

 70-76年に政権を担当したエチェベリア大統領は,このようなメキシコ高度経済成長期のひずみの深化と世界的な石油危機という二重の難題を抱えながら,国際政治の舞台でリーダーシップを発揮した。1974年末エチェベリア提唱の〈国家間の経済権利義務憲章〉が国連で採択され,翌75年にはラテン・アメリカ経済機構(SELA)の設立にメキシコは指導的役割を果たした。1970年代後半には次々に発見される膨大な石油資源を基礎にした石油開発戦略と自主外交が顕著となった。しかし,続く世界的経済不況は石油資源に極度に依存しはじめたメキシコ経済を直撃し,82年のメキシコはペソの大幅な切下げに象徴されるように困難な事態に直面している。

日本とメキシコの関係は17世紀初頭に始まり,日本の長い鎖国時代に中断したのち明治初年に再開された。スペイン植民地時代にマニラとメキシコ西海岸のアカプルコの間を航行したガレオン船による東洋貿易は,当時のメキシコに莫大な富をもたらしたが,ガレオン船はしばしば難破し,日本の太平洋岸に漂着した。これらの難破船事件を契機として日本とメキシコの間でいくつかの交流があったほか,1614-18年にかけてアカプルコ経由でローマへ派遣された伊達政宗の使者支倉常長(はせくらつねなが)とその一行のメキシコ滞在も知られている。

 両国が近代国家として国交を樹立し交流するのは,1888年,両国が修好通商条約を締結してからである。この条約は日本の不平等条約改正史の上で日本がとりつけた,最初の平等条約であった。しかし,この後の近代日本・メキシコ関係は緊密な経済・政治関係を樹立するに至らず,19世紀末に試みられ失敗した〈榎本植民地〉の建設と,20世紀初頭に見られた約1万人の日本人労働移民の渡航が目だつできごとであった。榎本武揚(外務大臣)ら当時の政財界の有力者の出資で計画された榎本植民地計画は,メキシコ南部チアパス州エスクイントラ地区に土地を取得し,コーヒー栽培を目的に1897年に最初の農業移民35名を送り出した。この計画は3年足らずで挫折したが,農業移住者の一部はこの地方に定着した。一方,労働力不足に悩むディアス時代のメキシコが日本人労働者を誘致したため,1900-07年におよそ1万人の日本人が渡航した。これらの出稼労働者はおもに南部低地のサトウキビ農園や北部の炭坑に送られたが,アメリカへ密入国するためにメキシコに渡る者が多かった。そして国境を越えてアメリカ合衆国へ不法入国する日本人の数が増大したことから,日米間で1907年に取り交わされた〈日米紳士協約〉によって日本人労働者のメキシコ渡航が禁止された。この後,日本とメキシコの関係はほとんど進展しなかったが,太平洋戦争ではメキシコはアメリカに対して協調政策をとり日本に宣戦した。戦後の両国関係は,とくに60年代以降緊密化を増しており,経済関係ばかりではなく,教育,文化の面でも著しい交流が見られる。
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メキシコ[市]
Ciudad de México

メキシコ合衆国の首都。大都市域人口1949万(2003)。ラテン・アメリカ最大の都市。旧メキシコ市は都心4区を指すが,1970年の法改正以後,連邦直轄地Distrito Federalとメキシコ市は一致し,面積1499km2。東西40km,南北50kmのメキシコ盆地の西端に位置し,北西はグアダルーペ山地(最高峰3029m),西はアフスコ山(3940m),南は3000m級の山地に囲まれる。北緯19°03′から19°35′にあるが,標高2280mのため高山性気候に属し,年平均気温15.1℃(年較差5.2℃)である。年平均降水量は720mmで,季節は乾季(12~5月)と雨季(6~11月)とに分かれ,四季の変化はむしろ一日の朝,昼,晩のうちにあるとよくいわれる。

 13世紀末,北方の狩猟民であったアステカ族は,定住の地を求めてメキシコ盆地までたどりついたとき,彼らの伝説による神託の地〈サボテンの上にとまったワシが蛇を食べている場所が未来の繁栄を約する土地〉をテスココ湖に突き出た岬に見つけた。この伝説はメキシコの国旗の図柄に象徴的に描かれている。アステカ族は周辺部族を征服し,371の従属都市から貢納を集める大帝国に発展し,14世紀半ばにテスココ湖上に浮かぶ島に壮大な都市テノチティトランTenochititlánを建設した。湖には数本の堤道が築かれて島と湖岸とを結び,中央広場には神権政治の舞台である大ピラミッドがそびえ,人口は約20万~30万を数えたといわれる。1521年,H.コルテスに率いられたわずか900余りのスペイン兵による約2ヵ月にわたった攻撃で帝国は滅亡した。現在のメキシコ市の中心ソカロ(中央広場,正式名称は憲法広場)は,テノチティトランの広場にあたり,国立宮殿の近くにアステカ宮殿の床面が発掘されている。国立宮殿や大聖堂の土台などは,破壊されたテノチティトランの建造物の石や壁で築かれた。

 スペイン植民地時代は,ヌエバ・エスパニャ副王領(副王制)の首都として繁栄し,ソカロ周辺にはその歴史を物語る建造物が集中している。北側にそびえる大聖堂は,16世紀に起工され,ゴシック,ルネサンス,バロックなどの多様な建築様式が用いられ,18世紀に完成したラテン・アメリカ最大の宗教建築といわれる。東側にある国立宮殿はこの国の政治の中枢である。正面階段と回廊には,1910年代のメキシコ革命の中から生まれた壁画運動の代表作のひとつであるD.リベラの大壁画があり,そのモティーフはメキシコの歴史およびメキシコ土着文化の復権と国民統合をめざすインディヘニスモを表現している。ソカロを起点とする植民地時代の建物が多いマデロ通りと,近代的ホテルや商店がたち並ぶフアレス通りが,いちばんの繁華街となっている。フアレス通りの西端がぶつかるレフォルマ大通りは,19世紀半ばマクシミリアン皇帝がパリのシャンゼリゼを模して建設したもので,現在は近代的高層建築が林立する美しい町並みを形成している。現在市街地は,市を南北に貫くインスルヘンテス大通りに沿って南に拡大し,南端に広がる溶岩台地には大学都市(メキシコ国立自治大学の所在地)が建設されている。学生数10万を数え,ラテン・アメリカ各地から学生,研究者を集めている。市内の交通は,1968年のオリンピックを機にフランスの技術を導入した地下鉄が建設された。地下鉄建設の際に発掘された遺跡が保存・展示されている駅もあり,また都心部の道路工事中に遺跡や遺品などがしばしば発掘され,この地の歴史を物語っている。自動車交通量も急増しており,排気ガス規制がなく,しかも周囲を山でかこまれた盆地に位置するため大気の流通が悪く,大気汚染による公害が指摘されている。

 メキシコ市は,他のラテン・アメリカの大都市と同様,第2次大戦後急激に人口の増加をみた。1970年を例にとっても,出生率42.8‰,死亡率9.5‰で高い自然増加率を示すが,人口増加率の大半は農村からの人口移動である。メキシコ市大都市圏へは1930-40年に29.8万人,40-50年に60.0万人,50-60年に67.0万人,60-70年に163.9万人が,おもにメキシコ中央高原(アナワク高原)の農村から流入し,79年には大都市圏人口は1475万に達した。この結果,就職難,住宅不足は深刻度を増している。メキシコ市への人口集中は,第2次大戦後の工業化がメキシコ市を中心に進展したことによることが大きい。製靴,家具,印刷・出版,皮革,ゴム,化学,金属,電気・エレクトロニクス,自動車部門は全国総生産額の50%以上を占め,外国資本に依存しつつ消費財生産部門の工業化が急速に進んだ。その結果,この国の製造業就業人口の30.3%,商業就業人口の27.9%,サービス業就業人口の38.3%,国家公務員の68.9%が集中し,社会的・経済的卓越性を増大させた。メキシコ市と農村地域の経済格差が農村からの人口を流出させるメカニズムの一因となっている。メキシコ市の北東に隣接するネサワルコヨトルNetzahualcóyotlは,寒村から2000年には122万5000の人口を数えるメキシコ第5の都市に成長した。流入人口に見合った雇用機会の創出は遅れ,そのため大半は第3次産業のインフォーマル・セクターに吸収され,メキシコ市の就業人口の41.5%にまで達している。メキシコ市の郊外には〈失われた都市ciudades perdidas〉と呼ばれるこのような人たちの住宅地が都市計画に先行して,しばしば公有地,私有地を不法占拠する形で広大に広がり,その住宅の質,住宅環境の劣悪さは都市問題の根源となっている。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「メキシコ」の意味・わかりやすい解説

メキシコ
Mexico

正式名称 メキシコ(スペイン語ではメヒコ México)合衆国 Estados Unidos Mexicanos。
面積 195万9248km2
人口 1億2727万6000(2021推計)。
首都 メキシコシティー

北アメリカ大陸最南部を占める連邦共和国。北はアメリカ合衆国,南東はグアテマラベリーズと国境を接し,東はメキシコ湾カリブ海,西と南は太平洋に面する。ユカタン半島とメキシコ湾岸低地を除くと,国土の大半は山地と高原からなり,東マドレ山脈西マドレ山脈に挟まれたメキシコ高原がその中核をなす。同高原の南縁には北緯 19°の線にほぼ沿って火山帯が連なり,ここにメキシコの最高峰シトラルテペトル火山(5700m)をはじめとする火山,高峰がそびえる。全体に標高が高いため,緯度のわりに熱帯気候に属する地域は少なく,ユカタン半島,海岸低地などにかぎられる。北東貿易風ハリケーンの影響下にあり,その風上にあたる東部から南部にかけての沿岸低地および海に面した山地斜面では雨が多く,一部に熱帯雨林が繁茂するが,国土の半分は年降水量 600mm以下の乾燥地で,メキシコ高原北部,バハカリフォルニア半島砂漠気候となっている。先住民ラテンアメリカインディアン(インディオ)と征服者スペイン人が民族的,文化的に融合して今日のメキシコを形成しており,住民のおよそ 3分の2が両者の混血メスティーソである。そのほかインディオが約 20%,白人が約 15%。公用語はスペイン語。住民の約 90%がキリスト教のカトリック。20世紀初頭のメキシコ革命後,新体制のもとにきわめて安定した政情が続き,農地改革が進展,豊かな資源と相まって経済が急速に発展した。第2次世界大戦後の人口の増加は著しく,1950~90年で 3倍以上となった。農業は第2次世界大戦後,国内総生産 GDPに占める割合が急速に減少したが,依然として基幹産業である。主要作物は国内消費用のトウモロコシ,コムギ,マメ類,イネ,輸出用のサトウキビ,コーヒー,綿花,果物,ヘネケン(繊維植物)など。牧畜も盛ん。鉱業は植民地時代以来の重要産業で,なかでも銀の生産量は世界最多。このほか蛍石,ビスマス,硫黄,石墨の世界有数の生産国であり,銅,鉛,亜鉛,金,水銀,鉄,マンガンなども産する。またラテンアメリカではベネズエラと並ぶ産油国で,石油も重要な輸出品。工業は近年著しく発展。主要工業は石油化学,食品加工,化学,自動車,電機,印刷,製紙,衣料,金属,鉄鋼など。工業発展に伴い消費財の輸入は減少したが,生産財の輸入と人口増加に伴う食糧の輸入が近年増加し,輸入超過が続いている。テオティワカン遺跡やアステカ帝国の遺跡,またカンクンアカプルコなど世界的に有名なリゾート地があるため,観光も重要な産業になっている。鉄道網,道路網ともよく発達。近年は乗客,貨物とも道路輸送が主力となってきている。山がちのため空運も盛ん。(→メキシコ史

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旺文社世界史事典 三訂版 「メキシコ」の解説

メキシコ
Mexico

北アメリカ大陸南部に位置する高原の国。首都メキシコシティ
【古代文明と植民地化】トウモロコシと豆の栽培を中心とする農耕文化を基礎とした先住民(インディオ)によって,前1000年ころメキシコ湾岸低地にオルメカ文化が成立。その後,紀元前後から5世紀ころにかけて,メキシコ高原中央に「太陽のピラミッド」で有名なテオティワカン文明が成立し,同じころユカタン半島にかけてマヤの都市文明も成立した。その後,トルテカ文明をへて,13世紀ころからアステカ人がメキシコ高原に進出し,15世紀にはテノチティトラン(現メキシコシティ)を首都にアステカ王国を建てて繁栄した。16世紀にはいるとスペイン人探検家がユカタン半島に上陸し,1521年コルテスによってアステカ王国は滅ぼされ,インディオの文明が破壊された。征服後,スペイン人はカトリックの布教を始めるとともに,エンコミエンダ制で土地と先住民を統治し,先住民を金銀鉱山の開発(1546年サカテカス銀山を発見)や大農場で酷使した。17〜18世紀になると,債務奴隷を労働力とする大農場経営(アシエンダ制)が広まった。
【独立と19世紀の動向】独立運動は,1810年からイダルゴ神父によって開始された。彼の運動は保守派クリオーリョの妨害で失敗したが,後継者によって1813年に独立宣言が出されたのち,クリオーリョの支持を得たイトゥルビデによって,21年独立が実現した。1822年帝政となるが,24年共和政に戻る。1833〜55年まで大統領サンタ=アナの独裁時代が続いたが,この間,36年のテキサスのアメリカ移民によるメキシコからの分離宣言(1845年併合),1846〜48年のアメリカ−メキシコ戦争によるカリフォルニア地方などの割譲で,領土の5分の2を喪失した。国内では1854年から自由主義者による革命が起こり,57年に憲法が制定され,翌58年インディオ出身のフアレスが大統領に就任した。直後から保守派・教会勢力などとの内戦が始まる中,フアレスが外債利子の支払い拒否を発表すると,1861年からフランス・イギリス・スペインによるメキシコ出兵が行われた。この戦いの中でナポレオン3世がオーストリア皇族のマクシミリアンをメキシコ皇帝に即位させたが,メキシコ人はアメリカの支援を受けてこれを挫折させた。その後,1876年軍人のディアスが武力で政権を奪い,以後1911年まで独裁政治を展開。この間,地主階級や英・米を中心とする外国資本への従属とモノカルチャー経済が進んだ。
【20世紀の動向】1910年11月,自由主義者マデロの呼びかけでメキシコ革命が始まり,翌年ディアスが亡命し,独裁政治が打倒された。革命は,マデロの失脚,右派クーデタの打倒ののち,ブルジョワジーを中心とする護憲派と,徹底した土地改革を求めるサパタの指揮する農民軍との間で主導権争いが続いた。1917年に民主的・民族的なメキシコ憲法が制定されたが,土地改革は不徹底なままで,革命は34年まで続いた。革命後,制度的革命党(PRI)の一党独裁となり,カルデナス大統領(在任1934〜45)のもと,1938年に米英系石油会社の国有化が行われ,土地改革も進んだ。第二次世界大戦後は,1948年アメリカ州機構に参加するいっぽう,中道主義と内政不干渉を掲げ,内戦の続く中米諸国へのアメリカ合衆国の軍事介入に反対してきた。1970年代には石油収入をもとに工業化を進めて新興工業経済地域(NIES)の一国に発展したが,80年代になるとインフレと石油価格の下落から経済危機に陥り,対外累積債務が増大した。1991年にスペイン・ポルトガルと両国の旧植民地諸国によるイベロ−アメリカ諸国会議を開き,その中心国としてアメリカ合衆国による経済的支配の打開をはかるいっぽう,94年1月アメリカ合衆国・カナダとの経済圏の実現をめざす北米自由貿易協定(NAFTA)を発足させた。国内では同じ1994年1月から,先住民の生活権問題から南部チアパス州で「サパティスタ国民解放軍(EZLN)」の武装蜂起が始まった。1997年の下院選挙で与党PRIが過半数割れし,一党独裁が崩壊した。その後,EZLNが政治組織「サパティスタ国民解放戦線」を結成した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「メキシコ」の解説

メキシコ
México

現地音ではメヒコ。16世紀初めまでメソアメリカ諸文明が栄えたが,侵入者のスペイン人に滅ぼされ,1535年以後は,ヌエバ・エスパニャ副王領として治められて,本国にとって重要なの供給地となった。18世紀末には,スペインのアメリカ全植民地の人口の約50%を占めて重きをなしたが,1808年ナポレオン軍のスペイン侵入を契機として始まった政治的動揺のうちに,保守派が主導権をとって独立し,22年帝政,24年共和制に移行した。それ以後19世紀後半までは,保守派と自由派の対立が続き,外国の干渉も少なくなかった。1864~67年には,ナポレオン3世に支持されたマクシミリアンの帝政,46~48年には国土の半分以上を失う結果となったアメリカ‐メキシコ戦争が起こった。76年から始まったポルフィリオ・ディアスの独裁は,社会の治安を確保し,積極的な外資導入によって産業の開発を促したが,反面労働者階級の不満や大土地所有制度の矛盾は深化し,1910年に革命が始まった(メキシコ革命)。革命は34~40年のカルデナス大統領の時代までに一定の成果をあげ,制度的革命党の一党独裁体制のもとに第二次世界大戦後産業発展の時代に入った。しかし経済問題や社会的矛盾は解消せず,2000年の大統領選挙では野党が勝利し,長年にわたる一党独裁に終止符が打たれた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「メキシコ」の解説

メキシコ

中央アメリカ北部に位置する国。漢字表記は墨西哥・墨斯哥など。古くからテオティワカン,サポテカ,マヤ,アステカなどの文明が栄えた。16世紀からの約300年にわたるスペインの植民地支配から1821年に独立。98年米西戦争で北部領土を失ったが,1910年のメキシコ革命後は近代化が進んだ。日本とは17世紀初頭にノビスパンとよばれて交流があったが,鎖国で中断。明治政府が1888年(明治21)最初の平等条約である日本・メキシコ修好通商条約を結んだ。19世紀末,榎本武揚(たけあき)の日本人移民事業は失敗したが,20世紀初頭には約1万人が移民した。太平洋戦争で対日宣戦,戦後サンフランシスコ講和条約に調印。現在は経済・金融面で緊密な関係をもっている。メヒコと自称する。正式国名はメキシコ合衆国。首都メキシコシティ。

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デジタル大辞泉プラス 「メキシコ」の解説

メキシコ

イタリアのマセラティが1966年から1973年まで製造、販売していた乗用車。2ドアクーペ。4人乗り。

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世界大百科事典(旧版)内のメキシコの言及

【アステカ文化】より

…テノチティトランと呼ばれた現在のメキシコ市の中心部に都を置き,14世紀からスペイン人によって征服された1521年まで栄えた文化。アステカAztecaとは彼らの伝説上の起源の地,〈アストランAztlan〉の人を意味する。…

【北米自由貿易協定】より

…1992年12月にアメリカ,カナダ,メキシコ3国間で調印され,各国での批准を経て,94年1月に発効した協定。略称NAFTA(ナフタ)。…

【副王制】より

…【小林 一宏】
[インディアスにおける副王制]
 副王制がインディアスに実質的に設置されたのは1535年である。メキシコのアウディエンシアの専横と腐敗の報に接し,スペイン王室は国王の代理として,また,土着の君主の後継者としてインディアスを統べる,いわばカリスマ的な権力を有する官吏を派遣する必要を痛感し,1529年ヌエバ・エスパニャ初代副王としてメンドサAntonio de Mendozaを任命した(実際の統治期間は1535‐50年)。16,17世紀を通じて,副王の大半はスペインの上流貴族の出身であったが,18世紀以降になると,ペルーのアマトManuel de Amat y Junyent(在任1761‐76)やヒル・デ・タボアダFrancisco Gil de Taboada y Lemos(在任1790‐96)のように,しばしば小貴族や中産階級の出で啓蒙精神の持主の中からも任命された。…

※「メキシコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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