三条天皇(読み)さんじょうてんのう

精選版 日本国語大辞典 「三条天皇」の意味・読み・例文・類語

さんじょう‐てんのう サンデウテンワウ【三条天皇】

第六七代の天皇冷泉天皇の第二皇子。名は居貞(おきさだ)。母は太政大臣藤原兼家の女超子。寛弘八年(一〇一一)即位。藤原道長の全盛時代で、失明のために道長の外孫敦成(あつひら)親王(後一条天皇)に譲位した。在位五年。貞元元~寛仁元年(九七六‐一〇一七

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デジタル大辞泉 「三条天皇」の意味・読み・例文・類語

さんじょう‐てんのう〔サンデウテンワウ〕【三条天皇】

[976~1017]第67代天皇。在位1011~1016。冷泉れいぜい天皇の第2皇子。名は居貞おきさだ藤原道長の全盛時代に、失明のため道長の外孫の後一条天皇に譲位。

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改訂新版 世界大百科事典 「三条天皇」の意味・わかりやすい解説

三条天皇 (さんじょうてんのう)
生没年:976-1017(貞元1-寛仁1)

第67代に数えられる天皇。在位1011-16年。冷泉天皇第2皇子,母は女御超子(藤原兼家の女)。諱(いみな)は居貞。986年(寛和2)7月従弟の一条天皇即位に際し元服立太子。1011年(寛弘8)危篤の一条天皇の譲位をうけた。天皇は執政の左大臣道長と不和で,とくに即位の翌年女御姸子(けんし)(道長の女)の立后に引き続き,女御娍子(じようし)(藤原済時の女)を道長の意に反して立后させ,道長はその儀式を妨害するなどの事があり,対立を深めた。道長は天皇の眼病が重くなり政務にさしつかえるようになると譲位を迫り,天皇はそれに対し道長を摂政に准じて政務をみさせ,位に止まろうとしたが,度重なる内裏焼失等もあって失意のうちに,娍子の生んだ敦明(あつあきら)親王の立太子を条件に,16年(長和5)正月一条天皇皇子で道長女の彰子の生んだ東宮敦成親王(後一条天皇)に譲位。翌年5月没した。おもな皇子女に敦明・敦儀・敦平・師明各親王,当子・禔子・禎子(後三条母)各内親王などがいる。陵は北山陵(京都市北区)。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三条天皇」の意味・わかりやすい解説

三条天皇
さんじょうてんのう
(976―1017)

第67代天皇(在位1011~16)。冷泉(れいぜい)天皇第2皇子。母は藤原兼家(かねいえ)の女(むすめ)超子(ちょうし)。諱(いみな)は居貞。986年(寛和2)立太子、1011年(寛弘8)即位したが、このとき超子はすでに亡く、有力な後見を欠き、在位5年の間、絶えず政権を掌握していた藤原道長(みちなが)の専横に悩まされた。天皇が藤原済時(なりとき)の女子(かいし)を皇后にたてようとしたとき、道長は他の公卿(くぎょう)とともに参内せず、立后の儀を妨害し、また自分の外孫である敦成(あつひら)親王の1日も早い即位を望み、三条天皇に譲位を迫った。天皇は皇女禎子(ていし)内親王を道長の息頼通(よりみち)に降嫁させることを図り、道長の意を和らげようとしたが、眼疾に脚気(かっけ)が加わり、退位のやむなきに至った。陵墓は京都北山陵。

[森田 悌]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三条天皇」の意味・わかりやすい解説

三条天皇
さんじょうてんのう

[生]天延4(976).1.3. 京都
[没]寛仁1(1017).5.9. 京都
第 67代の天皇 (在位 1011~16) 。名は居貞 (おきさだ) 。冷泉天皇の第2皇子,母は太政大臣兼家の娘,贈皇太后藤原超子。寛弘8 (11) 年即位。藤原氏の全盛時代で,道長が左大臣として権勢をふるった。天皇は東宮のとき大納言藤原済時の娘 娍子 (せいし) と道長の娘妍子 (けんし) の2妃があり,践祚後,娍子に立后の意志があったにもかかわらず,道長をはばかり妍子を皇后に,娍子を中宮に立てた。道長は済時に太政大臣を追贈することを奏して 娍子を皇后に立てたが,皇位継承問題が起ると,外孫の一条天皇第2皇子敦成親王 (のちの後一条天皇) の擁立を強く主張した。そこで天皇は 娍子所生の第1皇子敦明親王を皇太子にすることを条件にその言を入れ,在位4年半の長和5 (1016) 年1月譲位した。陵墓は京都市北区衣笠西尊上院町の北山陵。

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朝日日本歴史人物事典 「三条天皇」の解説

三条天皇

没年:寛仁1.5.9(1017.6.5)
生年:貞元1.1.3(976.2.5)
平安中期の天皇。名は居貞。冷泉天皇の第2皇子で母は摂政藤原兼家の娘超子。4半世紀の東宮時代を経て,寛弘8(1011)年即位。ときに伯父藤原道長の全盛期であり,外孫の敦成親王(のちの後一条天皇)の即位実現をのぞんだ道長から天皇の眼病を理由に再三にわたり譲位を迫られている。道長のことを「我に対して無礼きわまる」と天皇は憤慨し,中宮妍子は父道長と天皇の間で苦悩している。結局,天皇は第1皇子敦明親王の立太子を条件に長和5(1016)年,妍子と過ごした道長の枇杷殿で譲位した。「心にもあらでうき世にながらへば恋しかるべき夜半の月かな」はそうした折に詠んだ歌である。翌年死去し,京の船岡山で火葬にされ北山に埋納された。陵は京都市北区衣笠の北山陵。<参考文献>加納重文「三条天皇」(『講座平安文学論究』第7輯)

(朧谷寿)

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百科事典マイペディア 「三条天皇」の意味・わかりやすい解説

三条天皇【さんじょうてんのう】

平安中期の天皇。在位1011年−1016年。諱(いみな)は居貞(おきさだ)。冷泉天皇の第2皇子で,母は超子。1011年即位。天皇在位中は執政の左大臣藤原道長の全盛期で,天皇は道長としばしば対立した。天皇は道長から眼病を理由に譲位を迫られ,道長の意に反して立后させた【じょう】子(藤原済時の女)の生んだ敦明(あつあきら)親王の立太子を条件に,1016年一条天皇皇子で道長女彰子の生んだ東宮敦成親王(後一条天皇)に譲位。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三条天皇」の解説

三条天皇 さんじょうてんのう

976-1017 平安時代中期,第67代天皇。在位1011-16。
天延4年1月3日生まれ。冷泉(れいぜい)天皇の第2皇子。母は藤原超子。一条天皇の譲位により即位。左大臣藤原道長の全盛期で,その娘妍子(けんし)を中宮(ちゅうぐう)とするが,道長と反りがあわず,在位4年余で譲位した。寛仁(かんにん)元年5月9日死去。42歳。墓所は北山陵(きたやまのみささぎ)(京都市北区)。諱(いみな)は居貞(おきさだ)。法名は金剛浄。
【格言など】心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな(「小倉百人一首」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「三条天皇」の解説

三条天皇
さんじょうてんのう

976.1.3~1017.5.9

在位1011.6.13~16.1.29

冷泉天皇の第2皇子。名は居貞(おきさだ)。母は藤原兼家の女超子(ちょうし)。986年(寛和2)花山(かざん)天皇の出家事件により,一条天皇のもとで皇太子に立つ。1011年(寛弘8)践祚したが,在位中は皇位継承問題と眼病に悩んだ。藤原道長に退位を迫られ,抗争ののち,長子敦明(あつあきら)の立太子を条件に後一条天皇(一条皇子)に譲位したが,敦明の即位を見届けることなく死去した。天皇の死後,敦明は皇太子を辞退することになる。

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旺文社日本史事典 三訂版 「三条天皇」の解説

三条天皇
さんじょうてんのう

976〜1017
平安中期の天皇(在位1011〜16)
冷泉天皇第2皇子で,名は居貞 (おきさだ) 。母は藤原兼家の娘超子。藤原道長が外孫の後一条天皇を立てようとして,退位を強要した。

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367日誕生日大事典 「三条天皇」の解説

三条天皇 (さんじょうてんのう)

生年月日:976年1月3日
平安時代中期の第67代の天皇
1017年没

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