下益城郡(読み)しもましきぐん

日本歴史地名大系 「下益城郡」の解説

下益城郡
しもましきぐん

面積:三一一・五一平方キロ
富合とみあい町・城南じようなん町・松橋まつばせ町・小川おがわ町・豊野とよの村・中央ちゆうおう町・砥用ともち

県の中央部に帯状に位置する。地勢的には東高西低で、雁俣かりまた(一三一五メートル)京丈きようじよう(一四七二・五メートル)といった九州山地の西側脊梁山脈から連続する山岳丘陵や谷間の盆地からなる東部地域と、河川流域や宇土うと半島頸部の広大な平野地の西部地域とからなる。山間部を源とする緑川・浜戸はまど川・大野おおの川・すな川といった河川群は、氾濫を繰返しながら肥沃な平野を形成し、生活の主要舞台を提供してきた。緑川・浜戸川の織りなす平野は熊本平野の南の一角を占め、大野川・砂川のそれは八代平野の北の一角を構成し、米・麦・藺草などが栽培されている。これらの平野地域と東部山間地区とは、南北に国道三号、東西に同二一八号といった幹線道路で結ばれ、両道がT字形に交差する松橋町に、当郡のみならず宇城うき地方の行政の中枢機関が集中している。国道三号とほぼ並行して海側を国鉄鹿児島本線が通る。九州自動車道が城南町・松橋町・小川町と南下して八代へと至る。東は上益城郡、西は宇土郡・宇土市で一部は八代海に臨む。南は八代郡、北は熊本市・飽託ほうたく郡および上益城郡と接している。郡としての成立は近世になってからで、元禄(一六八八―一七〇四)頃に益城郡が上中下に分れ、のち上中が合併して上益城郡となったが、二分後も益城郡は行政的にも用いられた。以後下益城郡の領域は若干の変動を示して現在に至る。益城郡の古代・中世の郡域は近世の領域とは合致せず、西の一部は宇土郡に、南の一部は八代郡に属していた。

〔原始〕

縄文時代の遺跡では城南町の阿高黒橋あだかくろばし御領ごりようの貝塚が特筆される。これらは浜戸川の河岸段丘雁回がんかい山麓一帯に位置している。阿高は中期の標式遺跡である。黒橋は中期から後期にかけての遺跡、御領は後期の遺跡で、東西約一〇〇メートル・南北約七〇メートルに及ぶ西日本最大の貝塚である。このほかには同じく沈目しずめ遺跡が早期の遺跡として著名であり、他地区では松橋大野まつばせおおの貝塚のように海に突出した台地上で発掘されている。弥生遺跡もほぼ同様である。古墳文化は、比類のない方形周溝墓群および円墳・前方後円墳など四世紀から六世紀にかけての墳墓が発掘された塚原つかわら古墳群(城南町)に代表されるが、甚九郎山じんくろうやま孤塚きつねづか(城南町)松橋大塚まつばせおおつか宇賀岳うがだけ(松橋町)年の神としのかみ(小川町)といった広範な地域に前方後円墳などが築造されている。また宇賀岳古墳中郡なかごおり古墳(中央町)などに装飾古墳がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報