( 1 )「労動」から「労働」への表記の交替には、「労動」に「はたらく」の意味が加わったことが背景として考えられる。「働」は国字であり、中世の古辞書にすでに見える。
( 2 )明治一〇年(一八七七)前後に多く出版された漢語字引き類には、「労動」とするものも、「労働」とするものもあり、当時、両者が併用されていたことが確認できる。明治三〇年頃から活動が盛んになった労働運動では、「労働」を用いている。
社会的存在としての人間が,その生存を維持するために行う活動を,生産と消費に大別することができるとすれば,生産を支える人間の活動が広義の労働であるといえよう。しかしこれはかなり一般化したとらえ方であり,この語の伝統的な用法の中では〈労働〉は〈仕事〉としばしば対置して使い分けられ,それは英語におけるlaborとworkの使い分け方にほぼ一致している。前者は多少とも労苦をともなう活動のニュアンスを,後者は多少とも積極的な成果を展望する活動のニュアンスをもって用いられるといえよう。
もともと漢字の〈労〉は,苦労して働くという意味のほかに,疲れ,病気,心配等の意味をもっていた(〈働〉は亻(人)と動を合成した国字であり,まさしく人間の活動としての働きを意味する)。つまり苦労して働き,その結果として疲れたり病気になったりするという,双方の間をゆれうごく言葉であったといえる。ギリシア語で労働することをあらわすponeinが,つらい仕事をするというニュアンスをもつこともよく例にひかれるが,労働の情景を記述した最古の古典の一つとされるヘシオドスの《仕事と日々》が,〈むかし人間の種族は禍いや辛い労働をゆめにも知らず,……痛ましい病などにも罹らずに,〉(真方敬道訳)と,労働を病や禍いと等置しているのは,漢字の〈労〉の用例とたいへん似ていて興味深い。もともと労働とは,人間が生きていくための必要からやむをえず行わねばならない,つらく苦しい,疲れる,そして時としては病をもよびこみかねない,肉体的な活動のことであったといえよう。それが,今日用いられるような意味になにゆえ変わってきたか,その変化は何を意味するかを考えるためには,人間の生産的活動の歴史を,その中の典型的ないくつかの段階だけであるが,眺めてみるのが好都合である。
近代以前の社会では人口の大部分は農業に従事していた。したがってどの国においても労働についての基本的な考え方は,農業の中で作られたと考えてよい。農業の特徴は,労働の展開,作業の順序が1年の季節の進行に厳密に従って行われることであり,したがって古代の農業に関する心得は多く農事暦の形で残されている。《仕事と日々》の農作業の記述の部分も農事暦の一例とみなせる。その部分のいちじるしい特徴は,季節の進行の特定の時点を明確に告知する自然の特徴的現象の美しい描写であり,それと特定の農作業の開始の組合せである。それらの自然は神話上の人物や神々とつねに結びつけて描写される。つまり自然の,時として荒々しい,人間のはるかに及ばない巨大な進行は,神々の力と重ねてとらえられ,神々の怒りを和らげ,その摂理に従って営々とつらい労働に耐えるとき,神々は大きな恵みすなわち自然の豊かな実りを人間にもたらすと考えられた。だからここでは労働のサイクルは,1年の季節の進行に厳密に従うと同時に,必ず神への祈りに始まって神への感謝で終わり,仕事を始める日の吉凶の判断,神々の怒りをあらかじめ避けるためのさまざまな禁忌をともなったものであった。こうした特徴は古代中国の農事暦でも,また日本の農耕儀礼でも,共通してみられることである。
したがってここでは,労働過程は人間と自然との関係としてあらわれるが,後代に考えられたように,人間が自然を利用するとか,人間と自然の物質代謝とかいった形で自覚されることは決してなかった。むしろ自然は人間をはるかに超える巨大な力であり,人間は自然に従い,自然を鎮めることによって,自然から恵みをうけとる受動的な存在でしかなかった。労働が行われる大地は,そのまま人間の生活の行われる大地であり,農事の展開を律する季節の進行は,そのまま共同体の行事の展開や,それぞれの家の生活のサイクルを律するリズムであった。生活と生産は分離されたものとしてはあらわれず,共同体の役割分担を守ることも,祭祀をつつがなく行うことも,婚礼や出産の禁忌を守ることも,神々を鎮め結果として自然の豊かな実りをひきだそうとするものであるかぎり,生産的行為であった。その意味で生産と消費,仕事と遊びは分離されていなかった。畑や山での肉体を用いた労働だけが生産に対応させられる行為なのではなく,共同体の生活の全体が生産的活動であると同時に生活であり消費であった。労働の厳しさ,つらさは,むしろ生活の厳しさ,つらさとして意識されていたといえよう。
労働する主体の労働の対象に対する関係という点で,古代の農夫の場合と対照的な位置に立つのは手工業職人の労働である。静的な素材を,道具を手にした人間が,加工し,みずからの構想に従って物に作りあげていく手工業では,労働はもはや圧倒的な自然に従う行為ではなく,労働の対象と労働者との関係は対等である。農業の場合,作物を生む力は自然の側にあった。手工業職人でも完全に対象から自由ではなく,素材の性質に従って仕事しなければならないとはいえ,無機的な素材は人間が加工しないかぎり変化しない。その意味で物を生む力は人間の側にある。そして作業の行われる場所は自然の中でなく,人間の住居もしくは作業場である。ここでは,労働は一挙に人間の主体的な意識にリードされた対象的活動となる。労働を,労働者が,労働手段(道具)を用いて,労働対象を加工し,生産物に仕上げていく活動であるととらえる常識的な図式は,古代の農夫の労働や,機械のシステムに組み込まれた今日の労働よりも,むしろ,手工業職人の労働の記述に最もふさわしいことを注意しておきたい。
手工業に基礎をおいた社会を理解するためにたいせつなことは,仕事能力と人間との一体性である。すでに述べたように,ここでは物を作る能力は人間に帰属している。材料の選び分け,それぞれの入手方法や貯蔵方法,加工に応じた道具の使い分け,その使い方,仕上げの際の秘訣,一つの物を作るためにも覚えなければならぬ項目は無数にあり,その一つ一つを身につけるために一定の期間の実地の経験がいるので,仕事の能力を身につけるためにたいへん長い年月がかかる。したがって人生の半分を使って一つの仕事(職)を身につけ,残りの部分をその職によって生きるというのが通例であった。手工業の社会の基礎になる職というのは,ヨーロッパの例でいえば,織布工,製靴工,仕立屋,肉屋,パン屋,石工,大工といった程度の仕事の区分であるが,どの職も徒弟,職人,親方という三つの段階を技能形成の順にもった。子どもが親元を離れうる年齢に達すると,なにかの職の親方のもとに預けられて徒弟となり,仕事の手伝いをとおしてその職の基礎的な事項を身につけ,成年に達するころに職人となり,親方の仕事の一部を分担するか,あるいは渡り職人としてあちこち渡り歩いて修業し,仕事の全部について熟達したとき機会に恵まれれば親方になって,職人や徒弟を使いながらその仕事を事業として営む。この三つの階梯を通過することはほぼ人間の一生と一致した。
人間が一つの職だけによって生きるためには,当然,製造される品物を売り,生活に必要な他の物を買うという交換過程が必要であるから,手工業の社会では交換の組織としての市場が必須であり,市場のまわりに形成される都市がそれぞれの職を営む人々の生活の場となる。生産と交換における同職者の共同利益を守るために同職組合つまりギルド(〈手工業ギルド〉の項参照)が作られ,それが同職者の市民生活のための組織ともなる。それはどの国の歴史にもほぼ共通してみられる,手工業の社会の特色であるが,それが最も鮮明にみられるのはヨーロッパの中世都市であろう。ここではギルドは3重の役割をもっていた。まず第1にそれは同職者の営業上の共同利益を守り,活動を助けるための組合であった。第2に都市の運営がギルドの連合体をとおして営まれたことに示されるように,ギルドは市民生活の基本単位であった。特定のギルドに所属しその職によって身を立てるということは,その都市の市民として対等の足場を得ることを意味したのである。そして第3にギルドは宗教上の連帯の組織であった。イギリスの中世都市で,イースターやクリスマスの聖なる行事である聖史劇は,教会の行事としてではなく都市の行事として,ギルドによって上演されるのが常であり,各ギルドごとに劇の種類や幕の持分が決まっていたというような事実は,ギルドにおける職業生活と市民生活と宗教生活との重なり合いの一端をうかがわせるものである。
この時期,労働がつらくなかったわけではなく,また固有の身分秩序にもとづく徒弟労働の搾取など独特の問題がなかったわけでもない。しかしこの時期の生産活動は,労働という言葉より,仕事という言葉で語るほうがよりふさわしい側面をもち,さらにいうならば職業という,よりこの時代にふさわしい概念の中に埋没していたといえよう。仕事はまちがいなく個人の主体的活動として意識されているが,その意味は,人間の成長,市民的生活,神の恩寵(おんちよう)との関係の中で与えられていたのである。
今日のわれわれの労働と生産活動についての考え方は,ギルドの秩序が徐々に解体し,産業というべき活動の萌芽があらわれてくる過渡期に形成されている。富や財産というものが,王侯貴族や教会などの独占物から商人や企業家の活動をとおして作りだされるものに移行していく過渡期に,私有財産(〈私有財産制〉の項参照)を個人の労働と勤勉の産物として説明する思想があらわれる。この思想は骨組みにおいて古代からの労働思想を正確にひきついでいる。すなわち,つらい苦しい労働を営々と行う者に神は恵みをたれるという思想が,つらい苦しい労働に耐え勤勉に励むものが富を形成する,したがってそれが彼の私有財産であることは正当であるという考えに発展するのである。この勤勉industryが今日の産業industryの語源である。産業とは人間が労働によって富を目的意識的に形成する活動なのである。
こうした思想は,A.スミスを頂点とする古典派の経済学者によって,労働を起点として国民の富の形成を説明する,最初の経済学説(〈古典派経済学〉の項参照)として完成されるのだが,そこでは労働は富の源泉となる人間の能動的な,対象に働きかける活動として把握されている。これは労働が自然(神々)に従う生活や(神に定められた)職で生きる生活の一部であったそれまでとは,たいへん大きな逆転であった。この逆転を加速したものに,機械にもとづいた生産の登場があることは見逃せない。
機械の登場がもたらした重要な変化の第1は,生産過程において生産物を生みだす能力の中心が,機械に移行したことである。機械はもちろん人間の意志を超越した自然や神ではなく,人間が自然法則をとり入れて目的意識的に設計し生産したものであり,人間によって操作されるものである。生産過程の全体が人間の意志の貫通したものとしてあらわれる。K.マルクスの〈自然を搾り取る〉という言葉に典型的にみられるように,自然と人間の関係は逆転する。労働は何かに従うものではなく,人間を主人とする行動と意識されるのである。
第2に重要なことは,機械の導入が生産の組織化を加速したことである。機械体系を軸とした工場,その体系になぞらえた事務所が生産活動の単位となった。こうした生産設備は巨額の資金を要するものであったので,設備を所有できる人とできない人の分岐がきわめて明りょうになった。資本の提供者が富の生産のために機械体系を組織し,他の人間は賃金と引換えに労働を提供するという形態が普通となる。資本家と労働者が分岐し,生産は資本と労働という2要素で構成される過程となり,人間の活動である労働は賃労働という形態を帯びる。
変化の第3の重要な特徴は,機械が発達すればするほど,生産過程の中で機械の比重が高まれば高まるほど,その中で人間の活動つまり労働の果たす役割が部分的になっていくことである。機械を操作する労働の多くは人間のもつ全能力にくらべて,はるかに部分的な能力の反復的支出となっていく。必要な技能の形成期間は人生の長さにくらべるとはるかに短期間となり,手工業職人の社会の基礎をなした技能形成と人生の一致の関係はくずれる。部分化された活動の一つ一つは具体的であるが,それらはシステムをとおして全体化されて初めて生産と結びつくので,個々の労働の生産への貢献は抽象的である。他方では,ギルドの時代よりはるかに細分化された専門分野の中で,一生かけて能力を蓄積していく型の仕事もふえていく。ここでは労働の性格は職人的要素をとどめているけれど,仕事自体が全体のシステムの中のきわめて細部の機能を担う点は変わらないので,やはり個々の労働の生産への貢献は抽象的である。現実の生産の質と量を決定するのは機械システムの状態と稼働時間であるから,機械の稼働時間とほぼ一致する労働者の拘束時間,すなわち労働時間だけが,労働と生産をつなぐ具体的な尺度となる。こうして,一方では労働は個人の能動的活動にひきつけてとらえられていきながら,他方労働と生産のつながりを問う局面では,それはますます抽象的な社会的に平均化された,時間で計測される量としてとらえられるようになるのである。
スミスからマルクスに至る,労働を富の生産と結びつけ,富の指標としての価値を労働によって説明しようとした大思想家たちの労働観は,現代のわれわれの労働観に大きな思想的影響を保ちつづけている(〈労働価値説〉の項参照)。それはこの人々の思索した18世紀から19世紀前半のヨーロッパという時代が,人口の過半がいまだ農業に従事し,都市の生活者はギルド時代の文化と職業観を強く保持し,しかし生産活動の全体には機械に基礎をおいた産業が急速に広がりつつある過渡期であったからであろう。そのためにこの時代の思想家たちは,過去の労働観の残像を十分にとりこむことによって,人間の歴史的な発展の全活動を包摂するとともに,全面的な機械の時代の労働の実感もとらえるような労働観を作りあげたのである。彼らにあっては労働は人間の自己活動となった。それは〈つらい,苦しい〉という伝統的な語感を保存しながらも,価値の生産と結びつけられることによって,たいへん積極的な能動的活動となった。その点で労働は仕事の意味も包摂するものとなった。労働が価値の源泉であるという思想は,農業やギルドの時代の労働と人生の重なり合いの残像の上にうけとめられて,単なる経済学説としてではなく,労働こそが人間を形成する,労働が社会発展を作りだすという,人生観,社会観として大きな影響力をもつようになる。
このように,人間の自己活動としてとらえられる労働は,個々の労働者の現実の活動と重ねられて,きわめて具体的であり個別的な行為である。しかしこれらの思想家の著作で労働が生産と結びつけられ,価値と重ねられる局面では,それはきわめて抽象的な社会的に平均化された量としてあらわれる。同一の概念にはらまれるこの両極端は,矛盾であるといってよい。しかし労働がこのように矛盾をはらんだ概念であることは,かえって今日の労働の実感をよく表現しているといえよう。なぜなら,個人としての活動の局面ではたいへん具体的であるが,個々の活動の全体へのつながりはあいまいで抽象的であるというのは,すでに述べたように,機械システムの中に組み込まれた労働の特性だからである。今日の労働はますます複雑に大規模になっていく機械システムの中の労働であり,ますます細分化された分業の中の労働である。生産の能力の大部分はシステム自体にこめられており,労働は巨大な外的システムの秩序に従ってなされなければならない。人々は積極的であるべき自己の具体的な活動を,単に全体とのつながりの抽象的な活動と感じるだけではなく,巨大な外的な力に対して従属的で無力なものと感じ,それを自己の中の分裂としてうけとめている。そしてその分裂の原因について,人々は,それは要するに自分たちは給料と引換えに自己の活動を売ったからであり,売られた活動はしょせん生産の中では量として扱われるからだと考えている。労働概念の中の矛盾はこの実感と正確に対応している。
労働が,全面的に外なる秩序に従うものであることは,なにも機械システムの時代に始まったことではない。古代の農業はむしろその点に特徴をもつものであったことはすでに強調した。ヘシオドスが,つらい労働に人間が従わねばならぬ〈鉄の時代〉を,人間が自由であった〈黄金時代〉に対比させていることは,現実の労働を自由な労働に対比させ,労働からの解放を求める発想は古代からあったこと,またそれはおそらく人間の根源的な要求であることを示唆している。ただかつては〈従わねばならぬ〉ことの意味は神との関係で与えられており,自己の問題として問う必要はなかった。しかし,近代になって労働が人間の自己活動としてとらえられるようになって,この問題は,自己活動であるべき労働が,外なる秩序に従わねばならないという,人間に自己の分裂をもたらす根本問題として意識されるようになったのである。
自己疎外という概念を用いて,この分裂と賃労働の関連について巧妙な照明を与えたのはマルクスである。人間は労働をとおして対象を加工することによって,自己を労働生産物の中へ対象化する。労働とはこのような性格をもった自己活動であり,労働生産物は対象化され外化された自己である。しかし賃労働のもとでは,労働者はこの自己活動自身を雇主の秩序の下で雇主の利益のために行わねばならない。そして対象化された自己である労働生産物は,労働者の所有物でなく雇主の私有財産であり,やがて資本となって自分自身に対立するよそよそしい力として返ってくる。このように労働者は私有財産と賃労働の下では,分裂した,自己に対立し抑圧する自己をもつというのである。この労働をとおして疎外された自己という考え方は,現代の労働の中にある外的なシステムの力の巨大さに対する,労働する自己の無力感,従属感をうまくとらえるものとして大きな影響力をもった。マルクスの考え方によると,労働の解放,自由な労働の実現のためには,私有財産を廃絶し,生産手段(機械体系)と生産物を社会全体の所有の下におくこと,生産力の無限の発展の下に賃労働が廃絶されることが必要である。そのためにはまず社会革命が必要であるが,生産がますます機械に依存するようになり,機械に体化された科学の応用が生産過程での人間の労働の比重を弱め,また機械体系が自動化されて,その中に人間の労働が組み込まれなくなっていくことが,このような変革に有利な客観的条件を形成すると彼は考えた。
現在までのところ,マルクスの展望が実現される見通しはない。機械体系の自動化はオートメーションとして進展したが,人々はシステムから自立するのではなく,オートメーション化された設備を基礎にした,より複雑で巨大なシステムの中に組み込まれて働くようになった。コンピューターの発達とともに,精神的な活動まで,こうした機械的システムに組み込まれていく傾向が強まっている。生産力はマルクスの時代にくらべると巨大な発展をとげたが,その大部分はより高度で複雑な生産物を作ることにふり向けられて,いったい生産力がどこまで上昇すれば賃労働が無理なく廃止できる水準に達するのか見通しはまったく立たない。そして資本主義の下での国営化や,社会主義国の諸経験は,名目だけの所有の変更は労働の実質をほとんど変えないことが示された。資本家の下の賃労働も,国営企業の賃労働も,社会主義企業の賃労働も,その上にかぶせられるイデオロギーの差を除いては,ほとんど差はないことが知られるようになった。生産手段を社会的に所有する,生産過程を労働者の意志の下におくとはどういうことなのかを具体的に問う試みの一つとして,労働者自主管理の運動が各国で進められた(〈労働者管理〉の項参照)。ユーゴスラビアの系統的取組みから,中国の文化大革命期のかなり極端な試みまで,多様な経験が重ねられたが,現在までの経験をとおして,労働者の自由な意志が貫徹するということと,生産が全体として効率的に進行するということとの間には,かなり大きな矛盾があることがわかってきたといえよう。
労働の中にはらまれている分裂は,自己活動としての労働と,社会的活動として行われる生産との間にはらまれている分裂なのであって,それをなんらかの制度的変革によって克服し,自由な労働を実現しうるという考えは夢であるというべきであろう。しかし,だからといって自由な労働を求める人間の意志自体を否定し,空想として退けることは危険である。なぜならその意志と願望こそが,労働過程の中に含まれる搾取と従属と非人間的要素を告発し,労働をより人間の自己活動に近づける運動の原動力となってきたからである。あくまでその意志と願望に依拠しつつ,自由な人間の自己活動の実現自体は,労働過程だけの問題とするのではなく,労働と余暇,生産と消費の関係を含めた人間の生活全体のあり方を考えなおし組みなおす方向で構想するという傾向に,現代の労働思想は向かいつつあるようにみえる。
執筆者:中岡 哲郎
労働によって生みだされる用役を,労働力という。労働というと,肉体的な労苦のみを考えがちであるが,しかしそれは労働の範囲を狭く限定しすぎている。一つの生産組織が存続し,発展しうるためには,計画を樹立し,諸活動の進捗(しんちよく)状態を管理し,それに付随するさまざまな書記的作業を滞りなく行うことが不可欠である。したがって,これらの精神的活動も労働の中に含めるべきである。創造的な芸術活動に従事している人々や,自己の意思を事業計画に強く反映させうる立場にある経営者にとって,労働することはしばしば喜びでもある。しかし,これらの例外的事例を除くなら,労働は多くの場合苦痛をともなう。それゆえ,自由に意志を決定できる人々についてみると,働くか否か,またどれくらい働くかは,労働の苦痛を埋め合わすに足る成果が得られるかどうかに依存している。たとえば,もう1時間余計に働くかどうか思案中の農夫を想定してみよ。労働することによって追加される生産の成果が,もし農作業の苦痛を十分に補償してくれるなら,彼はより長く働くことを欲するに違いない。これと同様な議論は,賃金労働者の場合にも妥当する。彼は,もう1時間働くことによる苦痛と,それから得られる賃金とを比較考量する。ただし,農夫の場合と違って,賃金労働者は労働時間を自分が欲する水準に自由に決定することができない。そのため,企業側の定める労働時間が,労働者が働きたいと思う時間より長かったり,短かったりすることが起こりうる。前者では時間短縮の要求が労働者の間から生じるし,後者では副業をもつ人があらわれるであろう。
労働力は,土地や資本のような他の生産要素と結合されて,人間の生存にとって直接・間接に必要な財貨・用役を産出する。このように,それは生産力をもっている。18世紀後半のフランスに登場したフィジオクラート(重農主義)たちは,農業にたずさわる労働のみを生産的と考えたが,現在では工業やサービス業に従事する労働も付加価値を生み,したがって生産的であると考えられている。諸生産要素の所有関係は,社会の性格を規定する。資本主義社会では,資本設備は資本家によって所有されており,労働者は労働力を販売し,その対価としての賃金をもって,自己およびその家族の生活を維持する。労働力という商品は,その所有者(労働者)から切り離して存在することができない。この分離不可能性のため,企業家が買い入れた労働力をどう処分するかによって,労働者は不衛生な作業現場での労働を強いられたり,深夜業を余儀なくされたりする。労働問題に人間的な要素が導き入れられるのは,労働力という商品のこの特殊性のためであり,賃金労働者の組織化や各種の労働保護立法の根源もここにあると考えられる。
執筆者:小野 旭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
労働とはさしあたりは人間が自己の内部に存在する肉体的・精神的能力を用いて、目的意識的に外部の自然に働きかけることによってそれらを人間に役だつように変化させる活動のことである。労働を通じて人間は自然界から生存に必要な生活諸手段を獲得することが可能になる。自然についての人間の認識、自然に働きかけるにあたっての目的の確定、自然へ働きかける人間の行為――これら一連の人間の活動が労働である。クモやミツバチはみごとな巣をつくるが、これは本能によるもので、人間の労働のように前もって頭のなかで構想していたものを実現するのではないから労働とはいえない。人間はサルから進化したが、サルを人間に変えたのは労働である。サルはもっぱら自然界に存在するものを受動的に受け取るだけであるが、人間は労働手段(道具や機械)を用いて自然に対し能動的に働きかけ、新しい生産物を次々に生み出してきた。最近の研究ではチンパンジーも道具を使用して動植物を獲得することが明らかになっているが、道具のレベルは原始的である。人間は労働手段を改良することで自然へ働きかける能力を飛躍的に高めた。言語は人間の本源的な「社会性・共同性」を背景にして生まれたものであるが(尾関周二著『言語的コミュニケーションと労働の弁証法』)、言語の発達は人々が共同して労働するうえで不可欠の役割を果たしている。
人間は労働を通じて外的自然に働きかけるのみならず、人間自身をも変化させ、肉体的・精神的能力を発達させてきた。それとともに労働の範囲や種類は広がった。情報の生産やさまざまなサービスの供給、教育・保育・介護のように自分以外の他者とのコミュニケーションをとおして他者の成長、発達を促す活動、また文化、芸術、科学の進歩を担う活動も労働のなかで重要な位置を占めるようになった。
[伍賀一道]
労働は他の動物にはみられないもっとも人間的活動であるが、人類の社会が原始共産制から階級社会へ移行するにつれ、労働はさまざまな非人間的性格をもつようになる。これを労働疎外または疎外された労働entfremdete Arbeit(ドイツ語)とよんでいる。奴隷制社会に典型的にみられるように、階級社会では生産手段(労働対象と労働手段)を支配階級が所有し、労働は被支配階級によって行われ、その成果の多くは支配階級の手中に帰する結果、労働する者は自己の労働の成果(生産物)をごく一部しか所有できない。労働は自己の意志に基づく活動ではなくなり、他人の意志に従属して強制的に行われるため、労働する者にとって労働は苦痛となる。労働疎外は階級社会のなかでも資本主義社会においてもっとも深まる。
[伍賀一道]
資本主義のもとでの労働は賃労働とよばれている。そこでは人間の労働力も商品となり、労働力商品の所有者(労働者)は、賃金と交換に購買者(資本家)に労働力を販売する。資本家は、資本の一部を賃金の支払いにあてて労働力を購買し、いま一つの資本の構成要素である生産手段(原料や機械など)を労働力と合体し労働を行わせることによって新しい生産物を生み出す。この新生産物のもつ価値の大きさと、賃金や生産手段の支払いに支出した資本部分との差が剰余価値とよばれ、利潤の源泉になる。資本家は剰余価値を従来の資本に追加することによって資本を大きくする。大きくなった資本はより多くの労働を支配し、さらに大きな剰余価値を生む。この過程を労働者の側からみれば、自己の労働が生み出した成果が剰余価値として資本家のものになり、それが資本に転化してより多くの労働者とその労働を支配することになる。これは労働疎外の資本主義的形態にほかならない。
[伍賀一道]
産業革命を経て機械制大工業が確立し、個々の資本規模が大きくなるとともに、少数の大資本のもとへ資本が集中するようになると、生産過程の協業的性格は強められる。社会的に分散して用いられていた生産手段は資本のもとに集積され、かつて社会的に孤立して行われていた労働は、資本の指揮・監督下で分業に基づく協業の形態に組織される。労働過程の個々人の労働は分業によって部分労働化され、それ単独では無意味であるが全体の結合労働の構成要素として初めて意味をもつ。生産物は結合労働の成果になる。個々の労働者は細分化された部分労働を担うようになり、労働過程全体を見通すことは困難になる。
階級社会における分業の最大のものは精神労働と肉体労働との分離であるが、生産過程の立案・構想、指揮・命令などの機能(精神労働)は生産手段の所有者たる資本家の機能になり、作業の実行(肉体労働)は労働者が担当する。生産力の進歩により生産過程が大規模化し、作業の構想、指揮など管理労働の範囲が拡大すると、資本家はこの機能をも労働者に譲り渡すようになり、管理・監督労働者が労働者階級内部の上層に形成された。生産力の発展は科学・技術の進歩の成果であり、またその重要性を高めていく。科学・技術労働が生産過程で重要な位置を占め、技術者が労働者階級の一員となる。こうして労働者のなかで管理・監督や科学・技術などの精神労働を担うホワイトカラーの占める割合がしだいに増加する。
このような過程は同時に国内市場、世界市場を媒介として社会的分業を発展させ、新しい産業部門を生み出す。これに伴い運輸・通信、金融・保険、商業、サービス業、公務など労働の分野が拡大し、生産その他諸部門間の相互依存、労働の社会的連関性(社会化)が強められる。
[伍賀一道]
今日のコンピュータ技術の発展は、各種のME(マイクロエレクトロニクス)機器、OA(オフィスオートメーション)機器を生み出し、ソフトウェアの作成やプログラミング作業、機器の保守・点検など新しい科学的知識に基づいた技術労働者を必要とする一方、旧来の熟練労働者を無用化している。さらに、コンピュータと光ファイバーなど情報伝達手段との結合は、インターネットの発達に代表されるように、生産と労働の社会化を地球的規模にまで拡大している。
このようなコンピュータ化、情報化の進展は人々がより少ない労働によって、より多くの生産物を手にすることを可能にし、部分労働へ労働者を縛りつけていた資本主義的分業が廃絶される条件を生み出している。また、今日では情報ネットワークを介して遠く離れた人々の結び付きを瞬時に可能にし、協業は世界的範囲に広がっている。だが、コンピュータ化が、資本による人員削減のための手段として利用されることによって、労働者の一部は過剰労働力となり、失業や雇用不安を増大させている。他方、職場に残った労働者はストレスの強い長時間過密労働を余儀なくされる。このことは、資本主義の経済システムのもとでのコンピュータ化、情報化の限界を意味している。
[伍賀一道]
冒頭の「労働の本質」で述べたように、本来、労働は人間としてのアイデンティティの確立に深くかかわっており、人間の潜在的諸能力を発達させる条件でもある。それゆえ長期間にわたって失業状態に置かれることは、人間としての尊厳が奪われていることを意味している。しかし、労働がある一定水準を超えて、あるいは非人間的な形態で労働者に強制されるならば、それは苦役に転化する。それゆえ、労働時間を一定限度内に制限し、自由時間(生活時間)を確保するとともに、労働者が安全な環境で働けるように労働基準を設定することは労働者にとってきわめて重要な意義をもつ。
ここでいう労働基準とは、原理的には労働者が使用者の指揮・命令のもとで行う労働の支出量と労働の形態を定めた基準であり、労働者に対する使用者の指揮・命令権への制約を意味する。労働基準は、具体的には、労働時間の上限設定、深夜労働・最低賃金・不安定な雇用形態の規制など多岐にわたっている。それゆえ、この労働基準をどのような水準で設定するか、その適用範囲をどのように定めるかによって、就労のあり方が左右される。労働基準には法制度(工場法、労働基準法、労働安全衛生法、職業安定法など)によるものと、労使の自主的交渉(団体交渉)を踏まえて労働協約の形態をとるものに分かれる。労働基準の内容とレベルいかんによって、労働は人間発達の基盤にも、苦役にもなりうる。
[伍賀一道]
『R・ブラウナー著、佐藤慶幸監訳『労働における疎外と自由』(1971・新泉社)』▽『H・ブレイヴァマン著、富沢賢治訳『労働と独占資本』(1978・岩波書店)』▽『G・ルフラン著、小野崎晶裕訳『労働と労働者の歴史』(1981・芸立出版)』▽『尾関周二著『言語的コミュニケーションと労働の弁証法』(1989・大月書店)』▽『F・エンゲルス著、大月書店編集部編『猿が人間になるについての労働の役割』(大月書店・国民文庫)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…これに対してマクロ経済学は,一つの国民経済ないしは市場経済全体に関する集計的な経済変量がどのようなメカニズムによって決まり,その間にどのような関係が存在するかということを考察する。すなわち労働雇用量,国民総生産,国民所得,物価水準,利子率,貨幣供給量,財政支出,輸出入,為替レートなどがどのようにして決まってくるか,これらの諸量がどのように変動するかという問題を分析の対象とするわけである。マクロ経済学は雇用理論,所得理論,景気変動論ないしは景気循環論,恐慌論などに分類されることもある。…
…西欧語では,practice(英語),Praxis(ドイツ語),pratique(フランス語)など。その場合,自然に対する働きかけを,とくに〈労働〉と呼び,社会に対する働きかけを,倫理的・政治的活動として,とくに〈行為〉(英語conduct,ドイツ語Handlung,フランス語conduite)と呼ぶことがある。これに対して,〈行動〉(英語behavior,ドイツ語Verhalten,フランス語comportement)は,主として外部から観察しうる人間や動物の,なんらかの物あるいはできごとに対する反応活動をいう場合が多い。…
…賃金収入を得るために雇用主に労働を提供すること。資本主義社会になって初めてこのような形態の労働が行われるようになった。…
※「労働」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新