堀田村(読み)ほつたむら

日本歴史地名大系 「堀田村」の解説

堀田村
ほつたむら

[現在地名]常葉町堀田

山根やまね村の南、小檜山こびやま村・早稲川わせがわ村の東。鳴子なるこ(七六四・九メートル)(九九二・五メートル)尖盛とがりもり(九二二・二メートル)などの阿武隈高地分水嶺を東境とする高原の小村。檜山に源を発する檜山川が北流し、檜山の西斜面に檜山牧場がある。縄文時代後期から晩期の土器片などを出土する板平いただいら真平またいら和尚おしようわき・鳴子・五月平さつきだいら八升栗はつしようぐり根子田ねこだなどの遺跡がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の常盤六千九二四石余のうちで、新田作につたさく村と合せて六八五石余は細野九郎右衛門知行地と推定される。

堀田村
ほりたむら

[現在地名]氷見市堀田

北は耳浦みみうら村、北西はほう村、西は神代こうじろ村。集落は二上ふたがみ山系の半島状に張出した丘陵の基部西側の裾野に位置し、本村と垣内である石崎いしさきとに分れる。十二町じゆうにちよう潟へ注ぐ堀田川が谷間から本村集落の西を通り、平野に流れでる。天正二〇年(一五九二)九月二〇日の検地打渡状(「御印物類旧記」菊池家文書)によると、高一千八三四俵、このうち上は三〇町で、米一千五四八俵、下は三一町一反小で、米九四六俵余、合せて二千四九四俵余とある。

堀田村
ほりたむら

[現在地名]日田市淡窓たんそう二丁目・三本松さんぼんまつ一丁目

豆田まめだ町とくま町の中間に位置する。北東は中城なかじよう村。濠田ともみえる。慶長七年(一六〇二)の玖珠郡・日田郡御蔵入目録(佐伯藩政史料)に「堀田」とあり、高二〇三石余、荒・免引きで物成九六石余、うち米四八石余・豆三七石余・蕎五石余・粟三石余・大唐一石余となっている。正保郷帳に村名がみえ、田高七八石余・畑高九五石余で、曰理わたり郷に属した。

堀田村
ほつたむら

[現在地名]稲沢市堀田町

北は中之庄なかのしよう村に接し、東と南の村境を清洲きよす・津島街道が通り、村の中央に七軒の人家があった(天保村絵図)。天正一一年(一五八三)織田信雄は堀田弥三郎正重を当村の地頭に補任した(志略)。天正末は朝夕の知行地であった(織田信雄分限帳)

概高一三九石余。藩士四人の給知。

堀田村
ほりだむら

[現在地名]豊栄市上堀田かみほりだ

東は里飯野さといいの村、西は山飯野やまいいの新田・平林ひらばやし村。正保国絵図に高二一石余とあり、新発田藩領。寛文七年(一六六七)と推定される御領内見分之書付(貴船家文書)に家数一三・人数七一とある。享保一九年(一七三四)には新発田領岡方五三ヵ村のうちの一村。

堀田村
ほつたむら

[現在地名]美浦村堀田

山内やまうち村の北東に位置し、霞ヶ浦に面する。中世は信太しだ庄に属し、江戸時代は天領で(各村旧高簿)元禄郷帳の村高は二七石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報