多久原村(読み)たくばるむら

日本歴史地名大系 「多久原村」の解説

多久原村
たくばるむら

[現在地名]多久市北多久町きたたくまち多久原

唐津往還(唐津―佐賀)に沿った多久原宿を中心にほぼ南北に広がる平坦部の散村。北にてん山山系を控え、東は今出いまで川を中心に扇状地が開けている。

正保絵図に村名がみえ、「丹邱邑誌」の承応二年(一六五三)の「小城郡多久庄」の中に「多久原」がある。また残存する田畑帳にみる初見は寛保二年(一七四二)の多久原村田帳で、「丹邱邑誌」の「郷村」には「宿・楢原・了ノ原・大工田・猿河内・四下・相浦・野入・松ケ浦・松原・仏坊・原口」の集落をあげている。

このうち、相浦あいのうら(慶長絵図に「上多久ノ内」とある)の周辺には古墳が散在し、またこの集落の山際には古墳時代の須恵器窯跡がある。相浦の地名は、相神浦あいこのうら(のち相浦氏)から起こったといわれる。伝承によると、源頼光の家人渡辺源次郎の後裔、渡辺篤が肥前下松浦に下向し、相神浦城(現長崎県佐世保市)に入り姓を相神浦と改め勢力を増大させたが、その子監物の時、一族に不和があり、治承三年(一一七九)相神浦城を捨て、多久に来て多久原・松箇浦まつがうら岸川きしがわ宝蔵寺ほうぞうじなどを領有し領地を相神浦と名付け、左近さこん城・右近うこん(現相浦集落の左と右にある山地で左近城山・妙見城山とよぶ)を築いて居館とした。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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