川合庄(読み)かわいのしよう

日本歴史地名大系 「川合庄」の解説

川合庄
かわいのしよう

隣接する大国おおくに庄とともに平安期の東寺領荘園。櫛田くしだ川下流域の現多気井の内林いのうちばやし四疋田しひきだ相可おうか兄国えくに付近に比定される。大国庄弟国おうぐに付近に比定されるから、川合庄はその西方に接したことになる。郡としては旧多気・飯野いいのの二郡にまたがる。もと屋部親王家領で、のちに桓武天皇伝領し、「夜燈日供毎年七月十五日施瓮料」として、延暦二二年(八〇三)正月七日、東寺に施入されたと伝えられる(承和一二年九月一〇日付「民部省符案」東寺文書)。この時の荘田面積は六六町。

九―一〇世紀の日付を付した川合庄関係文書は(一)承和二年(八三五)四月一五日付民部省符写(八代恒治氏蔵文書)、(二)同一二年九月一〇日付民部省符案・(三)同年一一月一五日付伊勢国符(東寺文書)、(四)貞観五年(八六三)九月三日付民部省勘文案・(五)延長三年(九二五)八月二五日付伊勢太神宮司牒案(東寺百合文書)、(六)承平二年(九三二)八月五日付太政官符案(高山寺所蔵東寺文書)、(七)同年一〇月二五日付伊勢太神宮司解案・(八)天徳四年(九六〇)八月二五日付東寺符案・(九)安和二年(九六九)二月七日付東寺符案(東寺文書)、(一〇)長保元年(九九九)一一月三日付東寺領大国・川合庄坪付(東寺百合文書)である。これらは、永承年中(一〇四六―五三)から康和元年(一〇九九)に至る東寺と成願寺との相論に際し、双方からその主張を裏付ける証拠文書として提出された。したがって捏造ないし改竄が行われているとも考えられる。以上を前提として、東寺の主張を中心に川合庄の推移を記す。

承和二年、大国庄内に混在する公田二一町二反一四〇歩と同面積の川合庄荘田との相博(荘田の一円化)が行われた。この背景には、両荘の荒廃とそれに対する経営合理化が考えられる。川合庄は例えば「庄外施入勅旨田」(前掲史料五など)とよばれたように、大国庄に従属した田地として一体的にとらえられていたが、ともに早くから荒廃し、太政官符案(同史料六)では、大国庄一八五町九段一八〇歩のうち、川成常荒地八三町余、川成荒地三五町と記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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