徳尾村(読み)とくのおむら

日本歴史地名大系 「徳尾村」の解説

徳尾村
とくのおむら

[現在地名]鳥取市徳尾

古海ふるみ村の西、野坂のさか川左岸に位置する。永享二年(一四三〇)七月四日の東福寺領因幡古海郷年貢注文(東福寺文書)に、寺田分五町のうち三反の作人として「徳尾ノ二郎兵衛」とある。慶長一〇年(一六〇五)の気多郡高草郡郷帳に「徳尾・安永・徳吉」の高一千八七四石余が記載されている。拝領高は八八九石余、本免五ツ八分。文政一二年(一八二九)の高草郡中構下札目録帳(奥田家文書)では朱高九七〇石余・生高一千五一石余、物成五六四石余、山札銀二一匁・藪役銀三匁五分・川役銀四五匁が課されていた。

徳尾村
とくおむら

[現在地名]市島町徳尾

前山さきやま川が流れ、南は鴨坂上かもさかかみ村、北は天田あまたむろ(現京都府福知山市)。南より谷上たにがみ大杉おおすぎ・徳尾の集落がある。近世初期は余田よでん村に含まれた。元禄郷帳に余田と肩書して村名がみえ高四六七石余。旗本藤堂領(国立史料館本元禄郷帳)。同領は天和二年(一六八二)から(寛政重修諸家譜)。「丹波志」でも同領で、家数一〇〇。産土神は大杉折杉おりすぎ神社社殿創建は正和五年(一三一六)という。余田三ヵ村の総産土神とされる。毎年一月一四日豊凶および天候を占う粥占いの神事が執り行われる。

徳尾村
とくおむら

[現在地名]福井市徳尾町

橋立はしたて山西麓にあり、北は生野しようの村、南は浅水あそうず川を挟んで下河端しもこうばた(現鯖江市)。「越前国名蹟考」は枝村として小懸こがけを記す。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では山内やまのうち郷に含まれる。正保郷帳から村名がみえ、同帳によれば田方一〇七石余・畠方二〇八石。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば二八石余の御蔵入のほかは松平主馬ほか二名の知行所

徳尾村
とくおむら

[現在地名]大野町小倉木こぐらき 徳尾

東流する大野川と奥岳おくだけ川の合流点西方にあり、南は大野川を隔て岩戸いわど(現清川村)。元禄見稲簿の岡領御絵図ニ出分に佐淵さぶち村の内として徳尾村がみえる。旧高旧領取調帳では高一六四石余。安永七年(一七七八)には矢田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

徳尾村
とくびむら

[現在地名]緒方町平石ひらいし 徳尾

鹿屋しや村の南西にある。「豊後国志」に村名がみえる。旧高旧領取調帳では高七〇石余。安永七年(一七七八)には馬背戸組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報