一般に日本文化を担っている人々をさす。日本国籍をもつ「日本国民」をさすこともある。日本列島には日本人のみが居住していると広く考えられているが、この日本列島にはアイヌをはじめとする北方少数民族やその他の少数民族も居住し、それぞれ独自の歴史と伝統文化を維持してきている。
文化人類学的観点からいえば、伝統的な日本文化は水稲耕作とそれに関連する一連の文化要素に特徴づけられると考えられてきた。歴史的にこのような日本文化を担う日本人の集団が成立したのは、日本列島に水稲耕作とそれに伴う諸文化要素が導入され、人々により受容されたときであると理論的にはいえる。この日本人の形成過程は古人類学、考古学的資料に基づき復原できる。
この観点から日本列島の住民とその文化について、(1)更新世(洪積世)、(2)縄文時代、(3)弥生(やよい)時代への移行期とそれ以降の日本人、に分けて説明したい。
[小谷凱宣]
人類が亜寒帯・寒帯地域に本格的に居住するようになったのは、人類進化の段階でいえば旧人・新人の段階、地質年代からいえば上部更新世中期のことであった。旧人(ネアンデルタール人)は最後の氷河期前期に北西ヨーロッパ各地に居住し、寒冷地に生息する動物を狩猟対象とする生業に基礎を置いていたが、その居住範囲はユーラシア大陸北部のごく一部に限られていた。
人類が本格的に寒冷地に進出し始めたのは、次の新人(現生人類)の段階になってからで、その時期は約3万5000年前以降の上部更新世中期末のことであった。文化的には石刃(せきじん)技法による効率のよい石器製作技法を身につけ、樹木の乏しい寒冷ステップ地帯で絶滅種のマンモスやトナカイなどの寒冷地特有の動物を狩猟対象とし、獣骨、動物の毛皮などの材料を加工して衣類、住居を製作した。
日本列島に日本人の祖先が最初に渡来してきたのは、このような大きな人類史の動きを背景にしていたと考えられる。現代の知見によると、確実に更新世の人骨と認められているのは沖縄の港川(みなとがわ)人、浜名湖周辺の牛川(うしかわ)人・浜北(はまきた)人などである。このうち港川人骨は完全な骨格3体からなり、放射性炭素による年代測定で約1万8000年前に位置づけられている。そのほかの人骨標本は細片からなるにすぎない。
この時期の北半球における大規模な氷河・氷床の発達に伴い世界的に海水面が低下し、日本列島は一時的に樺太(からふと)(サハリン)や朝鮮半島を通してユーラシア大陸の一部となっていた。この古環境条件を反映して、日本各地で発見されている後期旧石器文化と細石器文化にはシベリア、中国北部の旧石器文化に共通する特徴が認められ、狩猟対象の動物にも共通の絶滅動物が含まれている。このように、更新世時代の日本人はユーラシア大陸から渡来してきたと考えられ、その文化にも著しい北方的要素が含まれている。なお、1970~1980年代には、東北地方の馬場壇(ばばだん)A、座散乱木(ざざらぎ)、中峯Cなどの諸遺跡から、いわゆる「前期旧石器文化」の存在が報告され、理化学的方法で10万年以上の古さといわれていたが、その存否については発掘当時から賛否両論があった。2000年(平成12)これらの石器発掘にかかわった東北旧石器文化研究所元副理事長藤村新一が当該石器を自ら埋めたとの疑惑が発生。2002年日本考古学協会が検証した結果、馬場壇A、中峯Cの各遺跡の発掘はねつ造と判断された。また、座散乱木遺跡についても同じく2002年には再発掘調査が行われ、1981年(昭和56)に出土し前期旧石器時代のものとされていた石器についてはすべて「意識的に埋め込まれたと判断される」と発表、遺跡自体は後期旧石器時代もしくは縄文から古墳時代のものとされた。
[小谷凱宣]
いまから約1万年前以降を完新世(沖積世)とよぶ。気候は更新世末の寒冷期から温暖化し、5000~6000年前に現在よりもやや温暖な時期を経て、現在の気候になった。それに伴い海水面も上昇し、日本列島はユーラシア大陸から分離し、5000~6000年前の温暖期の海水面上昇期(縄文海進期)を経て、現在の形になった。植生も北方系のツンドラ、針葉樹林の北上と、混合林と常緑広葉樹林の進出がみられ、気候温暖期以降、現在のそれに近づいてきた。
このような完新世の環境条件を背景に日本列島各地には堅果類・クルミなどの植物性食料の採集、貝類や海藻類の採集、シカ・イノシシなどの陸獣と鳥類の狩猟、海獣の狩猟、海や淡水の漁労などに生業の基盤を置き、竪穴(たてあな)式住居からなる定着集落、打製石器、磨製石器、土器などに特徴づけられる縄文文化が発展した。縄文文化は主として土器の形態的特徴に基づいて草創・早・前・中・後・晩期に分けられる。そして、各地の植生、地形、気候などの自然条件の変異に応じて、きわめて強い地域的特徴を発展させている。
この文化の担い手である縄文人の骨格標本はおもに貝塚遺跡から発掘されてきた。その人骨は、現在では、北海道から九州まで広く分布する多数の遺跡から報告され、各地の大学や博物館、資料館などに保存されている。
縄文人の系譜については、E・S・モースによる大森貝塚の発掘調査(1877=明治10)以来、多数の人類学者により研究されてきた。学説史的には、縄文人は「石器時代人」「貝塚人」など種々の名称でよばれ、縄文人が北海道や樺太に現存する少数民族アイヌと現在の日本人とにどのように関連するかが、明治以来の人類学界の大きな関心であった。初期の考え方は、幕末から明治にかけて日本で活躍した外国人学者の考えに大きな影響を受けているが、縄文人の系譜に関する諸仮説は次のようにまとめられる。
(1)異民族説 大森貝塚の調査者モースの「プレ・アイヌ説」や坪井正五郎の「コロポックル説」に代表され、縄文人をアイヌとまったく無関係の民族とみるもの。その根拠として、貝塚出土人骨から推測される食人風習の有無やアイヌの伝説上の人物などがあげられた。
(2)アイヌ説 ハインリヒ・フォン・シーボルトHeinrich Philipp von Siebold(1852―1908、小シーボルト)や小金井良精(こがねいよしきよ)に代表される考えで、縄文文化の担い手はアイヌで、水稲耕作を持ち込んだ弥生時代人(日本人の祖先)に北方に追いやられたとする仮説。
(3)原日本人説 これに対し清野謙次(きよのけんじ)らは、縄文人骨の形態的特徴を現存のアイヌや現代日本人と関連させて比較研究し、縄文人骨の特徴は現在のアイヌよりも現代日本人に近いと解釈するのが合理的との結論に達した。また、北海道においても縄文人骨の研究が進められ、現存するアイヌの特徴と共通する特徴が縄文人骨に認められ、アイヌの祖先も縄文時代以来長く北海道に居住していたとする仮説を山口敏(びん)(1931― )らは発表している。
[小谷凱宣]
現在の考古学的知見によると、水稲耕作の技術は中国大陸から朝鮮半島南部を経由して北九州に伝えられた。水田跡とそれに伴う土器などの遺物によると、その時期は縄文時代晩期であったと考えられる。水稲耕作は急速に日本列島に広がり、弥生時代の中ごろまでに本州北部まで伝播(でんぱ)し、北海道と琉球(りゅうきゅう)列島を除く日本列島各地に普及した。
急速に水稲耕作を受け入れた縄文社会は、季節に応じて狭い複雑な生態条件のなかで多様な生業活動を実施し、安定した居住形態を示し、さらに、縄文時代後晩期の遺跡から出土する栽培植物の遺存体が示唆するように、水稲耕作以外の植物栽培活動をすでに実施していた蓋然(がいぜん)性がある。換言すれば、水稲耕作は定着的な縄文社会に受容されたのであり、伝統的な日本文化の成立という意味で、縄文時代晩期から弥生時代にかけてはその形成期といえる。
かくして水稲耕作を主とする食料生産に基盤を置き、鉄器・青銅器の金属器や紡織技術、階級制の成立などに特徴づけられる日本の伝統的な社会の原型が成立し、古代国家の成立に向かうことになった。そして、次の古墳時代を経て、歴史時代へと展開することになる。
弥生人骨の研究は第二次世界大戦後になって活発に行われ、弥生時代の遺跡、なかでも甕棺(かめかん)からなる墓地が広く調査された。弥生人の系譜については、二つの有力な仮説が提出された。第一は、おもに西日本の弥生人骨を分析した金関丈夫(かなせきたけお)(1897―1983)らの提唱したもので、復原した推定身長に縄文後晩期人と弥生前期人との間に差異のあることに注目し、弥生時代の初めに朝鮮半島から集団の移住があったが、時代の推移とともに土着の日本人に吸収されたと推定する。第二は、おもに関東地方の弥生人骨を調査した鈴木尚(ひさし)(1912―2004)らによるもので、その差異は栄養状態の向上を含む生活環境の変化に起因するとみなし、集団の移動を伴わない小進化現象と説明できるとする。
いずれにしても、日本人も、その日本人の担う日本文化も、歴史的な所産であり、古くから固定した不変のものではなく、時間の経過とともにつねに変化している。
[小谷凱宣]
日本語はどんな外国語と親類なのか、どんな外国語と共通の親言語をもつのか、日本語単語と似た外国語を集めてそこから音対応の規則(音則)をたてても問題の解決にならない。古記録、方言資料を調べて日本語の歴史を明らかにし、さらに諸資料の比較によって記録前の語形を復原・再構し(内部再構)、他方、比較すべき外国語も内部再構を行い、両方の再構形から共通の親言語の語形を推定し、さらに文法形態の細部が一致することを証明できたとき、日本語の系統は究明されたことになる。これまで日本語と朝鮮語、ウラル・アルタイ諸語、アルタイ諸語、南洋語(マライ・ポリネシア語=オーストロネシア語)、チベット・ビルマ語、タミル語(南インド)などとの同系説が提出されたが、前述の方法によるものは少ない。日本語系統問題はようやく究明に向かって第一歩を力強く踏み出した状況なのである。
類型論上、日本語はアルタイ系言語(トルコ語、モンゴル語、ツングース・満州語。朝鮮語を加える説もある)と共通する次のような特徴をもっている。
〔1〕音韻の面で (1)語頭に子音連続(英語のstrike, plantのような)がない。ただし、中期朝鮮語には語頭にpc, ps, psk, pst, pt, sk, sp, ss, stがあるが、それは第一音節母音脱落の結果生じたと考えられる。(2)語頭にrがこない(ウラル系言語では語頭のrがある)。(3)アルタイ型母音調和の名残(なごり)が古代日本語にみられ、同一語根では乙類オ列音は甲類オ列音と共存せず、またア列音、ウ列音と共存することが少ない。
〔2〕形態論の面で (1)名詞に接尾辞をつけて格を表す(山ノ木、山ニ行ク、山ヲ見ル、山ヨリ下ルのノ、ニ、ヲ、ヨリなど)。(2)動詞幹に接尾辞をつけて時制(行カム、行キツなど)、使役(行カス)、受身(打タル)などを表す。(3)ドラビダ系言語と異なって動詞の活用に性の区別(男性形、女性形、中性形)がない。
〔3〕シンタックスの面で (1)修飾語は被修飾語の前にくる(美シキ・花)。(2)主語(subjectS)・目的語(objectO)・動詞(verbV)=SOVの語順。たとえば「二柱(ふたはしら)の神(S)小豆(しょうど)島を(O)生(う)みき(V)」(古事記)。(3)前置詞(たとえば英語on the mountain山の上に)のかわりに後置詞を用いる(山の上に。モンゴル語agula山yinのdegere上に)。形態論細部でもアルタイ系言語、とくにツングース・満州語と共通する点がある。たとえば、花ヲ見ル、天ツ神、雲ノ上ユ鳴キユク鶴(たず)、雲間ヨリ渡ラフ月、高キ山、曲(まが)ラ(未然形)、曲リ(連用形)のヲ、ツ、ユ、ヨリ、キ、ラ、リがそれである。
日本語のアルタイ系語彙(ごい)には次のものがある。空(そら) 山(やま) 森(もり) 波(なみ) 雪(ゆき) 霜(しも) 夏(なつ) 涅(くり)(水中の黒い土)、犬(いぬ) 鶴(つる) 熊(くま) 雁(かり)、母(おも)、面(おも) 頬(つら) 尻(しり) 腸(わた) 肩(かた)、吾(われ) 汝(なれ)、四(よ) 七(なな) 八(や)、黒(くろ) 古(ふる) 茂(しげ) 弱(よわ) 安(やす) 異(け)、入(いる) 居(をり) 輝(かかやく) 織(おる) 晒(さらす) 脱(ぬく) 装(よそふ) 喜(よろこぶ)、矢(や) 沓(くつ)などである。
日本語の基礎語彙には南洋語(台湾、フィリピン、インドネシア、オセアニアの言語)系のものが少なくない。次のようなものがそれである。天(あめ)(雨(あめ))海(わた) 火(ひ) 川(かは) 木(き) 葉(は) 花(はな) 実(み)、人男(ひとを) 女(め) 夫(せ) 妻(つま)(夫(つま))伴(とも) 仇(あた) 名(な)、身(み) 目(め) 歯(は) 牙(き) 舌(した) 爪(つめ) 指(および) 糞(くそ)、食魚(けいを) 烏(い) 賊(か)、吾(あ) 何(なに)、一(ひと) 二(ふた) 三(み) 五(い) 六(む)、大(おほ) 太(ふと) 高(たか) 新(にひ) 短(みじか) 浅(あさ) 重暗(おもくら) 臭(くさ)、飲(のむ) 吸(すふ) 成(なる) 当(あたる) 与(あたふ) 穿(うく) 拾(ひりふ) 萎(なゆ) 果(はつ)、布(ぬの) 箱(はこ) 栲(たへ)などである。これらは日本語の南洋語系下層言語(サブストレータム、縄文時代の言語か)を反映する。これに対してアルタイ系言語は上層言語(スーパーストレータム)を形成したとみられる。日本語は南洋語系下層とアルタイ語系上層よりなる重層言語であることがしだいに証明されてきた。
[村山七郎]
ここでいう日本人とは、日本列島に定住し、文化、言語、社会組織などを共有するばかりでなく、身体的にも基本的に類似した特徴をもつ人類集団をいう。しかし、形質からみると、日本人は中国人や朝鮮人などの東アジア人との共通点が多く、とくに他と区別しうるような特異点はほとんどみられない。したがって人種的に独立した集団とみることはできないので、「日本人種」という概念は成立しがたく、文化的に他の集団とはかなり明瞭(めいりょう)に区別できるという点から、「日本民族」として一集団を形成していると考えるべきである。しかし日本人の身体形質を詳しく分析すると、やはり東アジアの周辺集団とは異なる点もあり、さらに日本人のなかにもかなり明瞭な地域性(地方差)が存在する。
[埴原和郎]
日本人の起源については前半部でも触れているが、身体形質の観点から簡単に述べる。現在、日本で発見されている最古の人骨は牛川(うしかわ)人で、更新世(洪積世)のものと考えられている。しかし、これは左上腕骨骨幹の一部と、左大腿(だいたい)骨の骨頭部しか発見されていないため、詳細な点は不明であるが、上腕骨の大きさからみて、この個体はおそらく女性で、身長はわずかに135センチメートルほどであったと考えられている。いずれにしても、日本列島に中期洪積世から人類が住んでいたことは、考古学的事実のみならず、この人骨からも証明される。また、いわゆる日本原人として有名な明石(あかし)原人(兵庫県明石市)の寛骨(骨盤の一部)は、遠藤萬里(ばんり)(1934―2017)および馬場悠男(ひさお)(1945― )の研究によれば、形態学的にはきわめて現代人に類似し、その出土地層がかならずしも明確でない点とあわせて、洪積世のものとするには重大な疑問がある。このほか、浜北(はまきた)人などが発見されているが、とくに港川(みなとがわ)人のなかには、ほぼ全身骨格が保存されている個体があり、その特徴はやはり低身長(男性で約155センチメートル)であること、四肢骨が比較的細いこと、および頭骨形態などの分析の結果、中国南部の柳江人に似ているといえる。したがって日本の洪積世人類は華南に起源をもつ可能性が高いが、華北の上洞人(山頂洞人)系統の集団との関係も否定できない。また、これらの人骨は早期縄文人に共通する特徴をもっているので、鈴木尚らは縄文人との連続性を強調している。なお、洪積世の人骨と推定されていた三ヶ日(みっかび)人は、その後の調べで9500~7500年前の縄文時代のものと判明した。
新石器時代の縄文人は現代日本人とはかなり異なる形質を示すが、これは人種的な差よりは時代による差と考えられ、時代的連続性が認められる。しかし縄文人がそのまま現代日本人に変化したとする長谷部言人(はせべことんど)、鈴木尚らの説は、かならずしも日本全体についていえるとは限らず、とくに西日本では弥生(やよい)・古墳時代に、朝鮮半島を経由して渡来した大陸系の人たちとの混血を考えざるをえない。これらの渡来者は、おそらくアジア大陸の北方民族と関係あるものと思われる。
日本人のなかで特殊な位置を占めるアイヌについては、古くからその起源や類縁性に関してさまざまな説が提出された。しかし山口敏、尾本恵市(おもとけいいち)(1933― )、埴原和郎(はにはらかずろう)(1927―2004)らの研究を総合すると、アイヌはモンゴロイド起源で、しかも一般の日本人(和人)と同様に縄文人を祖先とするという可能性が強い。また琉球(りゅうきゅう)人についても同様のことがいえる。したがって、アイヌ、琉球人を含めて日本人は、縄文人を基盤とし、大陸からの渡来者との混血と、時代的変化(小進化)の影響によって現在に至ったと考えられる。このような考え方は、かつて日本人の起源を研究した小金井良精、清野謙次、長谷部言人、鈴木尚、小浜基次(こはまもとつぐ)(1904―1970)らの説を一部修正したうえで総合したものといえるであろう。
[埴原和郎]
現代日本人の一般的特徴は、身長が世界の中位の上(男子平均約170センチメートル)、頭示数(頭長に対する頭幅の百分率)は約84で短頭群に属し、皮膚は黄色、頭髪は黒く直毛で体毛やひげは少ない。眼瞼(がんけん)に蒙古(もうこ)ヒダがあり、耳垢(じこう)は乾型が多い。血液型はA型がもっとも多く、O、B、AB型の順に少なくなる。しかし前述のようにかなり大きい地方差があり、ある特定の地域の集団をもって日本人全体の代表とすることはできない。とくに目だつことは、近畿、山陽地方を中心とする西日本型あるいは中心型と、関東、東北、北陸、山陰、および九州、四国の一部に及ぶ東日本型あるいは周辺型との差である。前者は一般に身長が高く、より短頭、高頭であり、後者はこれと対照的な傾向を示す。昭和20年代に行われた上田常吉(つねきち)(1887―1966)、小浜基次を中心とする全国的な生体計測の結果によれば、頭示数は前者が83~86、後者が75~77で、この差は相当に大きいといえる。また血液型については、A型遺伝子の頻度が西日本で高く(約29%)、東北で低く(約24%)、明瞭な勾配(こうばい)を示す。さらに指紋においても、西日本では渦状紋が多く、東日本では少なくなる傾向がある。このような地方差からみると、現代日本人は完全に同質集団であるとはいいがたい。そして全体としてみると、西日本人(中心型)は朝鮮人あるいは北方アジア人に近いが、東日本人(周辺型)は多少とも縄文人的で、いわば古代型モンゴロイドの特徴をより多く残しているように考えられる。このことは、大陸からの渡来人との混血の影響が、主として西日本から近畿地方に強く現れていることを示唆する。青木健一らはA型遺伝子頻度の勾配に基づいてシミュレーションを行ったところ、弥生時代以後の渡来者の影響は、岐阜県あたりまでかなり明瞭に認められるという結果を得た。これは理論計算に基づくものであるが、他の諸形質の分布傾向とよく一致していることは興味深い。また河内(こうち)まき子(1952― )が生体計測値を分析した結果によると、基本的には小浜と同様の傾向を認めたが、1910年代と1940年代のデータを比較すると、中心型の特徴が徐々に東日本にも及んできていることがわかった。これは、日本国内における住民の移動、通婚圏の拡大、および都市化現象などが複合したためと思われるが、日本人の身体形質を考える場合には、地域性とともに時代的変化を考慮に入れる必要があることを示している。さらに埴原和郎は多くの研究者の協力を得て、現代日本人の頭骨に関する総合調査を行い、種々の分析を行った。その結果によれば、頭骨でも生体調査と同様な地域性が認められるが、これらのデータに古代人および周辺民族のデータを加えて分析すると、日本人の成立に関してかなり明瞭な示唆が得られた。
そのおもな点は次のように要約できる。(1)現代日本人は縄文人を基盤とし、時代的変化ならびに大陸よりの渡来者との混血によって成立した。(2)この混血の影響は主として西日本に強く、東日本には弱い。(3)弥生時代以後に渡来した集団は北方民族の要素を強くもち、これは寒冷気候に適応した、いわゆる新モンゴロイドであろうと思われる。(4)アイヌも和人と同様に縄文人を祖先とするが、おそらく続縄文期(本州の弥生時代から奈良時代に相当)以後、気候や文化の相違によって和人とはやや異なる小進化を遂げ、現在に至ったと考えられる。(5)琉球人もおそらくアイヌと同様な理由で、本州などの日本人とは多少形質を異にしてきたものであるが、日本人の一地方型と考えられる。(6)日本人の起源は洪積世の旧石器時代人に求められ、その多くは中国南部と関係があると思われるが、北方アジア人との関係も否定しえない。
日本人の起源と成立については、まだ不明の点が多く、結論を出す段階ではないが、以上の仮説に基づいて、今後、文化的側面を含めた総合的研究が必要である。
[埴原和郎]
日本人が社会・文化的単位としての民族を形成するに至ったのは、水稲栽培(定住農業)を営みだした弥生期だと考えられる。その民族的性格は、基本的には農耕民のそれである。ここでいう農耕民的性格とは、定住型の地域社会を構築し、他地域と競合しつつも、内部では互いに依存しあって、一定の生産水準を維持しようとする傾向をさしている。その場合、家族ごとに勤勉に働くとともに、灌漑(かんがい)水利、農作業の協同を通じて、各人が生活共同体(集団)と深くかかわることはいうまでもない。
このような農耕民的性格を宿しつつ、日本人は自らの社会を形成し、それ独自の展開を図ってきた。日本社会の歴史的発展のなかには、二つの流れ(サイクル)があるとされている。村上泰亮(やすすけ)(1931―1993)、公文俊平(くもんしゅんぺい)(1935― )、佐藤誠三郎(せいざぶろう)(1932―1999)の見解に従えば、その一つはウジ社会の流れ、もう一つはイエ社会の流れである。前者は氏族(クラン)型の社会であって、弥生期に始まり、7世紀の律令(りつりょう)国家でピークに達し、16世紀の荘園(しょうえん)・公領体制の解消とともに終わるサイクルである。後者は、日本独自の家族的集団であるイエを母体とする社会の生成発展の過程をいう。イエはウジ型集団からの変異体として生まれたとされ、その萌芽(ほうが)形態は11世紀の開発(かいほつ)領主とよばれる東国武士のイエや同族団にみいだされる。イエ社会は、鎌倉幕府体制、室町・戦国時代の大名のイエ、徳川幕藩体制を経て、近代国家としての体裁を整えた明治期に頂点に達し、現在に及んでいる。この社会の派生体であるイエ型の企業・行政機構が、日本の近代化過程で果たした役割は大きかった。
日本の歴史のなかで部分的には重なりながら(11~16世紀)連続的に継起したこれら二つの波動サイクルは、社会の組織化に関して相異なる原則にたっていた。ウジ社会のそれは、明らかに「血縁原則」であるが、イエ社会では、中国などの古代高度文明の影響を受けて、もはやそれは効力をもたなかった。しかしその集団形成の母型となったのは、成層クラン(同質的でありながら階統的な自立的集団)であって、そこでは、「血縁なき血縁原則」による「氏族なき氏族社会」が形成されたのである。今日、日本的組織といわれているものは、この疑似血縁的な組織化原理にのっとっている。この点は、村上らが指摘する以前に、すでに中国生まれの心理人類学者であるシューFrancis Lang Kwang Hsu(1909―1999)によって、「縁約(えんやく)の原理kin-tract principle」として抽出された。
[濱口恵俊]
「縁約の原理」というのは、中国の原組織(社会的組織の原型)「族(ツウ)」を成り立たせる「親族の原理kinship principle」と、欧米の原組織としてのクラブ(自発結社)をつくりだす「契約の原理contract principle」との折衷形態であり、選択的な意思に基づき契約を交わして加入した人為的な組織において、親族組織でのように、身分が長く自動的に保証されることをいう。成員自身の立場からいえば、「親族の原理」が、親族形態のまま構成されたクラン組織に、自発的に、どこまでも同調してゆくことであり、他方、「契約の原理」は、事前のアレンジメント、約定、および開始・終了の日時の指定に基づいて、組織に対して、限られた範囲で、しかも義務づけられた形で貢献することをさしている。したがって「縁約の原理」というのは、「事前のアレンジメント、約定、期間の指定などが、自己の属する組織体の側で遵守されるか否かにかかわらず、あるいは、組織体に対する自己の期待が十分に実現されるかどうかを問わず、疑似親族の形態をとって形成された組織に、無限定的に、しかも自発的に忠誠を尽くすこと」だということになる。疑似血縁的組織では、成員性が失われることが少ないために、その成員は、加入時の契約(形式的な場合が多い)にこだわらず、組織に対してつねに親近感を抱き、自発的に組織活動に従事することになる。
シューは、このような「縁約の原理」が働く日本の原組織を「イエモト」と名づけている。それは、芸道の家元制度に典型的にみいだされるような組織形態であって、日本のあらゆる集団組織――官公庁・企業体・労働組合およびその連合組織・政党・大学・大病院・宗教団体・スポーツ組織などは、すべて家元に類した形につくられ、そして家元ふうに運営されている、とする。京都の本願寺のような宗派、茶道・華道などの流派を考えればすぐわかるように、「イエモト」では、中心に血縁に基づく人脈が連綿と続き、その血統を象徴的にいただきながら、自由に加入する非血縁者によって組織が構築されている。日本の天皇制国家も一種の「イエモト」とみなしうる。そうした巨大なピラミッド形をした「イエモト」は、人為的集団でありながら、あたかも血縁によるかのように運営される。たとえば芸道の家元は、師匠と入門した弟子との上下関係の一大連鎖としてヒエラルヒーをなしている。この意味で「イエモト」は、中根千枝(1926―2021)のいう「タテ社会」の基体だとみなせないこともない。だが、その師匠―門弟の関係は、弟子が師の芸名の1字をもらうことによって親子に擬せられ、組織の統括象徴としての宗家(そうけ)から末端弟子に至るまでが、疑似血縁的な協同団体を構築し、あたかも1軒の家のように運営されるところに大きな特色がある。シューの見解どおり、この「イエモト」は、日本にのみ発達した、制度化された家族団体である「家」と、その主従的結合としての「同族」(本家―分家からなる家連合)に模して、おもに都市で形成された二次的な構成集団として理解するのが妥当であろう。
日本の社会が家父長に統率された「家」をモデルにして構築されていることについては、法社会学者の川島武宜(たけよし)が、シューに先んじて「日本社会の家族的構成」として論じている。武士・民衆にみられる家族制度の生活原理が、家族外に反射され、親子に擬制化された間柄(親方―子方、親分―子分、大家―店子(たなこ)など)が世間一般に広がっている、とする。川島は、こうした家族的に構成された社会が民主化に抗する封建遺制の現れだとみなしたが、シューは逆に、「家」的な存在が団体としての機能を発揮し、日本の近代化を促進する要因になったとする。すなわち、日本人は、明治以降における社会の近代化過程で、柔軟性・機能性に富む自らの伝統的な親族体系を放棄することなく、むしろそれを西洋から導入された近代的組織(官僚制機構)のなかに転写し、「イエモト」という日本的原組織を生み出して、「縁約の原理」でもって巧みに運営してきたのだと主張する。「イエモト」といった日本独自の組織を特徴づけるのは、集団主義だとよくいわれる。確かにその成員の行動は、自分自身ではなく、自らの属する集団組織を志向している。だが注意すべきことは、だからといって、当人が集団のためにすべてを犠牲にして粉骨砕身し、自己の主体性を失って集団のなかに埋没してしまっている、と解してはならないことである。日本人が欧米人やアラブ人のような個人主義者ではないからといって、その対立項たる集団主義者に、論理的に仕立て上げられてはならないのである。日本人の心情としては、わが身がかわいいからこそまず皆と協力しようとするだけであって、観察された行動面では集団志向性が顕著だとしても、動機面で集団優先主義が作用しているとは限らない。日本人の集団主義は、各人が互いに職分を超えて協力しあい、組織目標の協同達成を図るとともに、集団レベルで自己の福祉を確保しようとする生活の姿勢である。それは「協同団体主義corporativism」といいかえたほうがよい。
[濱口恵俊]
文化人類学者のベネディクトは、その著『菊と刀』で、日本文化のパターンを、欧米の「罪の文化guilt culture」との対比において「恥の文化shame culture」だと規定した。日本人は、人前で嘲笑(ちょうしょう)されたり、世間の噂(うわさ)の種になることを恐れて行動する。つまり、恥をかくことを避けるのであり、したがってまた、他人の判断を基準にして自己の行動の方針を定める傾向をもつ、と指摘した。それは、自己の内面に植え付けられた良心や宗教上の掟(おきて)(罪の意識)を基準にする行動とは対照的であり、「恥の文化」というのは、外側からの強制に従う行動形態をさしている。しかし、こうした行為基準の内在性・外在性は、文化の型の決め手とはならない。なぜなら、罪も外罰によって心に定着するものであるし、また作田啓一(さくたけいいち)(1922―2016)が批判したように、日本人は、ベネディクトのいう恥辱感とは別に、自己制御機能をもつ羞恥(しゅうち)心を強く抱くからである。
日本人が世評を重んずるのは、非自律的な態度を示すものではなく、つねに他者の側に自らの行為基準を自主的に設定しようとすることの現れだと解すべきであろう。土居健郎(どいたけお)(1920―2009)もまた、他者への依存ないし他者との一体化を求める欲求としての「甘え」が日本人に特徴的だとしたが、日本人が一方的に相手に頼って自立性を失っているわけではなかろう。自他間の相互的な依存においてこそ「甘え」は有効なのであり、その場合、それぞれに節度をもって対処することが必要である。「甘え」は、日本人が対人的連関のなかで自律的にふるまうための戦略の一つとして理解される。日本人は、元来、対人的連関のなかでしか自分を意識しえない。個体的自律性の強い「個人」であるよりも、人と人との間、すなわち身近な人や既知の人との間柄そのものを自分自身だと考える、いわば「間人(かんじん)」存在だといえよう。日本の組織で「人の和」が尊重されるのもこの「間人」性のゆえである。
[濱口恵俊]
『川島武宜著『日本社会の家族的構成』(1950・日本評論新社)』▽『服部四郎著『日本語の系統』(1959・岩波書店)』▽『F・L・K・シュー著、作田啓一・濱口恵俊訳『比較文明社会論』(1971・培風館)』▽『濱口恵俊著『「日本らしさ」の再発見』(1977・日本経済新聞社)』▽『池田次郎編『人類学講座6 日本人Ⅱ』(1978・雄山閣出版)』▽『村山七郎著『日本語の誕生』(1979・筑摩書房)』▽『村上泰亮・公文俊平・佐藤誠三郎著『文明としてのイエ社会』(1979・中央公論社)』▽『小片保編『人類学講座5 日本人Ⅰ』(1981・雄山閣出版)』▽『R・A・ミラー著、村山七郎他訳『日本語の起源』(1982・筑摩書房)』▽『梅原猛・埴原和郎著『アイヌは原日本人か』(1982・小学館)』▽『濱口恵俊・公文俊平編『日本的集団主義』(1982・有斐閣)』▽『埴原和郎編『日本人の起源』(1984・朝日新聞社)』▽『R・ベネディクト著、長谷川松治訳『菊と刀』(社会思想社・現代教養文庫)』
日本国籍をもつ人の呼称であるが,通常は,日本列島に住んで日本語を話し,共通性のある文化と身体的特性をもち,さらにある程度歴史的な認識なども共有して互いに同胞意識をもつ人々(つまり一民族としての〈日本人〉)を指す。
現代日本人は世界の諸集団の中で見た場合,概ね中背(2008年度の文部科学省調査では,19歳の男性171.6cm,女性158.1cm)で,手足の遠位部(上肢では前腕,下肢では下腿)が相対的にやや短く,肌色は少し褐色を帯び,体毛は概して薄く,頭髪は黒色で直毛の比率が高い。また,鼻梁がやや低い扁平性の強い顔面をもち,眼は一重瞼が比較的多く,内眼角には蒙古ヒダが見られ,分離型耳垂(いわゆる福耳)がかなり多く,幼少期には蒙古斑が現れる,といった諸特徴をもつ。
ただ,こうした形質にはかなりの地域差が見られ,例えば日本列島の両端部にあたる北海道のアイヌや琉球人では本州域の人々に比べて比較的体毛が濃く,波状毛や二重瞼,分離型耳垂,湿型耳垢(腋臭)の頻度も高い。また,例えば指紋では日本列島の東から西へと比較的シンプルな弓状紋が増える地理的な勾配を示し,血液型のA型因子でも西から東へと頻度が高まる傾向を示す。こうした地域差が生まれた背景には,各地の自然,社会環境による影響のほか,現代日本人に至るまでに周辺域から受けたかなり複雑な形成過程が反映された結果であろう。
→アイヌ →琉球人
大陸に近接した洋上に島を連ねた日本列島の地理的環境も影響して,その形成過程には,かなり複雑な様相が見られる。
日本列島の地に,いつ頃から人が住み始めたのか,まだ不明な点が多いが,今のところ後期旧石器の存在から,遅くとも3,4万年前の更新世末期には人が居住していたことが確認できる。しかし,本土域ではわずかに静岡県浜北市(現,浜松市浜北区)の遺跡から人骨片が出土しているのみで,どこを起源とする,どのような特徴の人々だったかは良くわかっていない。唯一,沖縄では,港川人,山下町第1洞穴人,下地原(じもじばる)洞穴人,ピンザアブ人,白保竿根田原洞穴人が発見され,とくに沖縄本島南端の港川からは複数個体の全身骨格が回収されて(約1万8000年前のもの),鈴木尚や馬場悠男によって詳しい特徴が明らかにされた。それによると,非常な低身長(男性でも153cm程度)で,下肢に比較して上肢が華奢(きやしや)であること,また脳頭蓋の骨が厚く,低・広顔性が顕著で,眉間の突出,鼻稜の隆起が明瞭であることなどが報告されている。鈴木尚は,こうした港川人の特徴が中国南部の後期更新世人類化石である柳江人,および日本の縄文人にも類似することから,日本人の源流を大陸南部に求める考え(〈日本人河南起源説〉)を提唱したが,その後の馬場悠男らの詳細な分析により,港川人は柳江人よりもジャワ島のワジャク人やオーストラリア先住民などに近いとの指摘がなされている。一方,旧石器文化における大陸との関係を考慮すると,日本列島の旧石器人の源流は南方だけではなく,朝鮮半島や北の沿海州,樺太経由の人の流入も想定される。とくに最終氷期に大陸と繋がった北海道ではシベリア起源のマンモスも発見され,更新世人類が細石刃文化と共にこのルートで流入した可能性が高い。しかし,大陸東北部では特徴のわかる化石人類が未発見であるため,北方ルートの人の流入がその後の日本列島人の形成にどのような影響を与えたのか,具体的な様相は不明のままである。
→日本更新世人
氷河期の終焉と共に日本列島は大陸から離断され,ほぼ時を同じくして土器の製作も始まって縄文時代へと移行するが(約1万5000年前),この時代に列島で狩猟・採集生活を送っていた縄文人は,後世の日本人とは大きく異なった特徴をもっていたことが明らかになっている。資料の多い縄文時代後半期の人骨所見によると,かなり大頭ながらやや頭高が低く,顔面は低・広顔,低眼窩,広鼻傾向が顕著で,鼻骨の彎曲が強いために鼻筋の通った彫りの深い顔立ちをもつ。また眼窩上縁が直線的で,頬骨や下顎角が横に張り出し,全体的に四角く厳つい顔貌を見せる個体が多い。噛み合わせは鉗子状咬合で,一般的に整然とした歯並びをもつが,咬耗(こうもう)の程度が強く,咀嚼(そしやく)以外にも歯を酷使したことを窺わせる鞍状の不整な摩耗などが多く報告されている。歯のサイズが現代人に比べてもなお小さいことも意外な事実として知られ,弥生時代以降の人々とは異なって,比較的シンプルな形態を特徴とするスンダ型歯列(最終氷期に東南アジアに広がった大陸の名前を用いた呼称で,東南アジアの人々に多い)をもつ。また,とくに西日本の後晩期人骨では,上顎犬歯や下顎切歯を意図的に抜く抜歯風習の痕跡が頻繁にみられる。身長は概して低いものの(男性157~158cm,女性147~148cm),四肢末端部が比較的長いプロポーションをもつ。筋付着部の発達が強く,そのため例えば大腿骨では柱状大腿骨,脛骨では扁平脛骨といわれる独特の断面形状をみせることが多い。
こうした縄文時代後半の人骨で明らかにされた特徴は,時代をさかのぼるにつれてその程度を強める傾向があるとされ,早期~前期縄文人は,概してより低顔,低身長で華奢になり,歯の酷使例が多くなることなどが報告されている。ただ,かなりの変異もあるようで,全国的に資料が少ないために,地域性や時代変化の様相にはまだ不明な点が多い。大陸から離断されて間もない縄文初期の人々は,更新世に日本列島に流入した人々の特徴をより強く保持している可能性があり,今後資料が追加されていけば,ほとんど空白となっている旧石器人についても,有用な情報が得られることが期待される。
いずれにしろ,同時代の大陸や島嶼部など周辺にはこの縄文人に類似した人々がみあたらず,当時の東アジアでかなり特異な存在となっている。なぜこのような特徴の人々が当時の日本列島に分布していたのか,その疑問の解決には縄文人の先祖となる旧石器人まで探索の手を広げる必要があろう。今のところ,沖縄の港川人やアジア南部との繋がりが指摘されているが,その一方で,遺伝子分析では大陸北部集団の関与も示唆されており,結局,縄文人の起源問題は日本列島人の最古層を形成した旧石器人に関する疑問と直結した課題となっている。
→縄文人
紀元前600~800年頃,大陸から北部九州沿岸部へと水田稲作が伝播して弥生時代の幕開けを迎えるが,この日本の文化史上の激変期は,当時の列島の人々の形質にも大きな変化をもたらした。とくに北部九州・山口県地方から大量の弥生人骨が出土し,その研究を通して,現代日本人がもつ特徴の多くがこの時代を契機として日本列島に現れ,急速に各地に広がっていく様相が明らかにされている。この〈渡来系弥生人〉とも呼ばれる北部九州・山口県地方の弥生人は,縄文人に比べて非常な面長で,眼窩も上縁が丸みを帯びて高く,鼻骨の彎曲が弱いために鼻筋の通らない扁平な顔立ちを特徴とする。また歯のサイズが大きく,上顎中切歯の舌側面がシャベル状に凹んだ中国型歯列をもっている。身長は縄文人よりかなり高いが(男性163cm,女性151cm),前腕や下腿が相対的に短く,いわゆる胴長短足傾向の強い体躯で,大腿骨の柱状性,脛骨の扁平性も縄文人よりは弱い。
こうした縄文人にはみられなかった特徴をもつ人々が新たに出現する一方で,例えば同じ九州でも西北部や南部には,縄文人の特徴を色濃く残した弥生人も確認されており,地域差が顕著になった時代でもある。その要因としては,縄文末期に大陸から水田稲作など先進文化とともに渡来した人々の遺伝的影響が想定されている。前述のように北部九州・山口県地方の弥生人は人骨形質で縄文人とは大きな,不連続ともいえる隔たりを示し,しかも当時の大陸各地には弥生人に似た人骨が多数見つかっている。また,この北部九州は弥生文化発祥の地であり,地理的にも大陸に最も近接し,水田や金属器など大陸由来の文化要素が日本で最初に,しかも高密度で検出されているので,その地域の弥生人が大陸からの遺伝的,文化的な影響を受けたと考えても不合理ではないだろう。さらに現代人を対象とした各種の遺伝学的な分析でも,日本列島の住人には地域によってかなりの違いがあり,西日本の人々は大陸集団との強い近縁性を示す一方,北海道のアイヌや南西諸島の人々は本土域の人々とはやや隔たりを見せ,しかもこれら両端の地域間には,ある程度類似する傾向のあることが明らかにされてきた。そしてこうした地域性を説明するモデルとして,現代日本人は遺伝的に見ていわば二重構造になっているという解釈,つまり,先住集団(縄文人)の住んでいた日本列島に,大陸から異なった遺伝傾向をもつ人々(弥生時代の渡来人)が流入し,西日本一帯ではその影響で変化したが,渡来人の影響が及ばなかった列島の両端域では,従来の形質が残されたのではないか,というモデル(二重構造モデル)が,有効な解釈として大方の支持を受けるに至っている。
したがって,弥生時代の地域差はかなりの程度,この渡来人の遺伝的影響の大小によるものと考えられよう。北部九州に最初に入植した渡来人たちは,稲作農耕を基盤として急速に人口を増やし,次第に各地へ広がっていった様相が見られ,例えば山陰では島根県古浦遺跡や鳥取県青谷上寺地遺跡で,山口県の土井ヶ浜弥生人に近い特徴の人骨が出土している。また,山陽や四国ではまだ不明確だが,近畿地方でも奈良県の唐古鍵遺跡(弥生前期末)など数遺跡で北部九州弥生人に近い特徴をもつ人骨が出土している。東海・中部地方では,資料不足で不明確ながら一部の歯の特徴などに渡来形質の広がりが指摘されているし,関東では群馬県岩坪遺跡のように縄文人的特徴の人骨が見つかる一方で,沿岸部の神奈川県大浦山弥生人などでは,扁平な鼻根部など変化の兆しが指摘されている。おそらく沿岸部には西からの遺伝的影響が及び始めていた可能性が考えられよう。北部九州からさらに遠隔地にある東北では,岩手県アバクチ洞窟出土の幼児骨のように,一部に渡来系弥生人的な特徴も指摘されているが,これまでのところ明確な変化はみられず,かなり後世まで縄文人的形質が残存した地域とみなされる。稲作農耕が近世期まで伝わらなかった北海道では,さらにその傾向が強まり,縄文時代から色濃く引き継がれた特徴が,後のアイヌの形成に繋がっていったものと考えられる。
→弥生人
弥生時代に列島各地に広がった変化の波は,古墳時代には一層,その広がりと程度を強め,例えば政治文化の中心となった畿内では,高・扁平顔に加えて短頭性など,現代畿内人に繋がる特徴が早くも現れ始めることが指摘されている。その後の奈良,平安時代の様相は資料がとくに不足しているため不明な点が多いが,中世の鎌倉~室町時代になると,長頭,低顔で扁平な鼻根部,強い歯槽性突顎(そっ歯)といった顕著な時代特性が見られるようになる。この変化は,鎌倉市の材木座遺跡から出土した人骨で鈴木尚により最初に報告されたものだが,その後,山口県や九州など各地で類似の時代特性が確認され,かなり汎日本的な現象であったことが知られるようになった。弥生時代の状況とは異なり,これらの変化は外来要素によるものではないだろうが,なぜ中世期にこのような変化が広範な地域で起きたのか,その理由はよくわかっていない。
こうした身体形質は,江戸時代になってもある程度農村部や都市の庶民階層の人々に引き継がれるが,その一方で徳川将軍家に代表されるような一部の上層階級では,貴族形質とも呼ばれる著しい高狭顔化が起きており,全体的に見て次第に現代人に近づくような変化傾向を見せる。日本人の身長はこの時期に最も低くなった模様で(男155~156cm,女147~148cm),一般的に華奢な四肢骨をもつ人が多く,歯と顎骨のサイズの不整合による乱杭歯の人も目立つ。また,とくに都市部では各種のストレスマーカーの頻度が高まり,結核や梅毒の痕跡も珍しくなく,少なくも庶民階級の人々はかなり厳しい生活環境下にあったことが窺える。
明治時代に入り,文明開化による生活環境の激変に伴って,日本人の身体形質にも急激な変化が引き起こされた。身長が10cm以上も伸び,著しい短頭化,高・狭顔化も起きて,わずかな期間に日本人はその外観を大きく変えてきたが,近年ようやくその変化傾向にも鎮静化が見られるようになった。この間,地域間の人の移動が増えて通婚圏が拡大し,都市部への人口集中なども起きたが,それでもなお日本各地の住人は多少の地域性を保持しつつ現在に至っている。
→近世人 →古墳人 →中世人
執筆者:中橋 孝博
現代日本人の様々な遺伝マーカーは,朝鮮半島や中国東北部の集団との類似性を示しており,大筋ではこれらの地域集団と,成立の歴史を共有していることが示唆される。ただしY染色体DNAの構成は,これらの地域とはかなり異なっている。東アジア全域を見渡しても日本と類似の構成をもつ集団はなく,少なくとも男性に関しては周辺の地域集団とは異なる成立史をもっていると考えられる。
現代日本人のもつミトコンドリアDNAの系統(ハプログループ)は,東南アジアから沿海州まで分布するものを含んでおり,日本人の源郷は,東アジアの広範な地域に広がっていることを示唆している。また核DNAを用いた研究でも,日本列島集団は少なくとも本州と琉球の二つの地域集団から構成されていることが明らかとなっており,日本人の遺伝的な多層性が示されている。このような日本人のもつDNAの多様性は,過去数万年間にわたって列島外の各地から到達した人たちがもっていた遺伝的な要素が積み重なって構成されたもので,過去の列島へのヒトの流入が相当に複雑であったことを反映したものだと考えられる。
縄文人や弥生人のミトコンドリアDNA分析からは,双方が遺伝的な性格を異にする集団であることが判明しており,日本人の成立に関する定説である〈二重構造モデル〉を基本的には支持している。しかしながら北海道の縄文人のもつミトコンドリアDNAの系統は沿海州やカムチャッカ半島の先住民のもつDNAと共通しており,DNA分析からは二重構造モデルのいう縄文人の南方起源説は否定される。また,アイヌ集団には,オホーツク文化人のDNAがかなり流入していることもわかっており,彼らがこれまでは考えられていたような縄文人の直系の子孫ではないことも示唆されるようになっている。
執筆者:篠田 謙一
政教社発行の雑誌。東京大学出身の三宅雪嶺,井上円了らと札幌農学校出身の志賀重昂,今外三郎らの若手知識人によって1888年4月創刊された。その主張は,藩閥政府の推進する欧化政策に反対し,〈国粋〉を〈保存〉しようとするナショナリズムにあった。陸羯南の新聞《日本》とは思想的にも人脈的にも密接な関係をもち,ともに明治中期の言論界を指導した。政治的には対外硬の立場をとり,その激しい反政府論のためにたびたび弾圧を受けた。このため1891年から93年には身替り雑誌《亜細亜》を発行した。日清戦争後は,志賀重昂が政教社を離れ,実質的に三宅雪嶺が雑誌を主宰するようになった。1906年,新聞《日本》が伊藤欽亮の手に渡るや,旧日本社員と政教社は合併し,雑誌を《日本及日本人》と改題,みずからの思想的立場を守った。なお刊行は創刊以来3次にわたって断続して行われた。第1次は1888年4月~91年6月,第2次は93年10月~95年2月,第3次は95年7月~1906年12月である。
執筆者:有山 輝雄
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明治期~現代の総合雑誌。1888年(明治21)4月学術の応用を目的として政教社から創刊されたが,志賀重昂(しげたか)の国粋保存主義がしだいに社論となり,政治評論誌の性格を強めた。保守派の政府批判の一つの中心となり,しばしば発行停止処分をうけたため,91年6月代替誌「亜細亜(アジア)」を創刊。両誌並行して発行された。95年には志賀が去り,三宅雪嶺(せつれい)が中心となった。1907年1月新聞「日本」の社員を政教社に吸収し,「日本及日本人」と改題。しだいに経営難となり,中野正剛(せいごう)主宰の東方時論社との合併を進めようとした三宅が退社し,24年(大正13)1月「月刊日本及日本人」として再出発。昭和期にはロンドン海軍軍縮条約反対運動で目立った活動をしたが,45年(昭和20)2月廃刊。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…個別的要因とは性別,世代,階層,学歴,職業,宗教,人種などを指し,これらを超越し,共通して存在する特性として国民性がとらえられる。ベネディクトは〈日本文化の型〉を考えるにあたって,分に応じて処する階層制に注目し,日本人の行動・思考を分析した。そして日本人の社会結合の原理としての人情と義理を認め,西欧的な絶対的道徳規準と罪悪感を基調とした文化に対して,道徳的絶対規準をもたずに恥辱をなによりも恐れるという日本文化の特性をみた。…
…渦状紋は東洋系や南洋系に多く,蹄状紋はヨーロッパ系に多い。古畑指数(渦状紋対蹄状紋)は日本人は88前後であるが,朝鮮人,中国人は100以上,ヨーロッパ系は40~50前後である。さらに日本人の指紋型の内訳をみると,男性で弓状紋2%・蹄状紋53%・渦状紋45%,女性で弓状紋3%・蹄状紋57%・渦状紋40%程度である(これから前述の古畑指数と若干異なる数値が導き出されるが,これは資料出所の違いによる)。…
…創立時の同人は,志賀重昂,棚橋一郎,井上円了,杉江輔人,菊池熊太郎,三宅雪嶺,辰巳小次郎,松下丈吉,島地黙雷,今外三郎,加賀秀一,杉浦重剛,宮崎道正の13名で,おもに東京大学,札幌農学校出身の新進知識青年であった。機関誌《日本人》(一時,後継誌《亜細亜》)を発行し,幅広い国粋主義を主張し,徳富蘇峰主宰の《国民之友》とともに明治中期の思想界を二分した。一方,高島炭坑坑夫虐待事件(1888)で坑夫救済のキャンペーンを展開し,また大隈重信外相による条約改正交渉に強く反対し,日清戦争に際して対外硬派の主力となって開戦の世論喚起に努めるなど,終始対外的には国権主義の姿勢を示しつづけた。…
※「日本人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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