杣山城跡(読み)そまやまじようあと

日本歴史地名大系 「杣山城跡」の解説

杣山城跡
そまやまじようあと

[現在地名]南条町阿久和

西側が北流する日野川、北と南は西流して日野川に落合う阿久和あくわ川・田倉たくら川に挟まれ、東方の越前山地から西方に突出した杣山(四九二・一メートル)山頂にある。山頂への登り道は北麓阿久和方面より三条あるのみで、南麓は急崖をなして宅良たくら谷に臨む天険要害で、また日野川の左岸を走る北陸街道を押えうる重要な位置にあった。国指定史跡

鎌倉時代以降、杣山庄の地頭職を有した瓜生氏一族は、南北朝時代、瓜生判官保とその兄弟が当城に拠り、南朝方として脇屋義助の子義治を大将に迎え、本軍の立てこもったかなさき(跡地は現敦賀市)を援護した。「太平記」によれば、延元二年(一三三七)糧食の尽きた金ヶ崎城より脱出して新田義貞・脇屋義助の兄弟は杣山城に移り(巻一八「金崎城落事」)、金ヶ崎落城後は杣山にあって諸方の南朝軍を糾合し、やがて府中(現武生市)を攻略する(巻一九「新田義貞落越前府城事」)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「杣山城跡」の解説

そまやまじょうあと【杣山城跡】


福井県南条郡南越前町阿久和にある山城跡。標高492mの杣山(通称、城山)の山頂に築かれ、山頂に本丸(主郭)、山頂から西に延びた尾根に西御殿、北に伸びた尾根に東御殿が配され、北麓の谷間には領主瓜生(うりゅう)氏の居館跡や城戸の土塁跡などが残っている。自然の要害ともいえる険しい崖を利用しており、堀切りや土段が各所に見られる。杣山城は、鎌倉時代末期の瓜生衡(ひとし)が越後の三島郡瓜生村から移り、築城したのが始まりと伝えられ、瓜生氏代々の居城であった。1336年(延元1・建武3)に敦賀の金ヶ崎城の戦いで劣勢になった新田義貞が、杣山城主瓜生保を頼って入城。越前における南朝方の拠点となり、義貞は態勢を立て直して金ヶ崎城に救援に向かうが敗れ、その後、杣山城で籠城して北朝方の攻撃によって落城した。その後、1573年(天正1)の織田信長の越前平定によって廃城になるまでの約250年間もの間、越前国守護斯波氏、戦国大名朝倉氏の越前の玄関口を守る城としての役割を果たした。1972年(昭和47)から2006年(平成18)にかけて、本丸跡や東御殿跡・居館跡などの発掘調査が実施され、遺跡の詳細が明らかになってきている。1934年(昭和9)に国の史跡に指定され、1978年(昭和53)に追加指定があった。JR北陸本線湯尾駅から車で約8分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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