正法寺(読み)ショウボウジ

デジタル大辞泉 「正法寺」の意味・読み・例文・類語

しょうぼう‐じ〔シヤウボフ‐〕【正法寺】

京都市東山区にある時宗国阿派の寺。山号は霊鷲山りょうじゅせん、開創は延暦年間(782~806)、開基は最澄さいちょうで霊山寺と称した。弘和3年=永徳3年(1383)国阿が入寺して時宗国阿派の本山とし、正法寺と改めた。
岩間寺いわまでらの正称。
岩手県奥州市にある曹洞宗の寺。山号は大梅拈華山。開創は正平3年=貞和4年(1348)、開山は無底良韶むていりょうしょう。江戸時代に至るまで、永平寺総持寺とともに曹洞宗第3の本寺。奥の正法寺。

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精選版 日本国語大辞典 「正法寺」の意味・読み・例文・類語

しょうぼう‐じ シャウボフ‥【正法寺】

[一] 滋賀県大津市石山内畑町にある真言宗醍醐派の寺。山号は岩間山。養老六年(七二二)の創建。開山は泰澄(たいちょう)。紀伊熊野、大和金峰山(きんぶせん)とともに日本三霊験所の一つ。岩間寺(いわまでら)の名で知られ、本尊の千手観音は俗に「汗かき観音」「雷除観音」とよばれる。西国三十三所の第一二番札所。
[二] 京都府八幡市八幡清水井にある浄土宗の寺。山号は徳迎山。建久二年(一一九一)源頼朝の幣礼使忠国が創建。開山は円誓。天文一五年(一五四六)後奈良天皇の勅願所となる。
[三] 京都市東山区清閑寺霊山(りょうさん)町にある時宗の寺。もと霊山派(国阿派)の総本山。山号は霊鷲(りょうじゅ)山または霊山。延暦年間(七八二‐八〇六)に最澄が創建。元久年間(一二〇四‐〇六)法然が住して念仏の道場となった。永徳三年(一三八三)国阿が再興、時宗に改めた。無量寿院

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日本歴史地名大系 「正法寺」の解説

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]水沢市黒石町

黒石こくせき寺の南東、山内やまうち川上流の老杉に囲まれた幽な山間にある曹洞宗寺院。蛇紋岩の石段を登ると杉皮葺の惣門(県指定文化財)があり、山内には茅葺の本堂(法堂、県指定文化財)を中心に、向かってその左手に坐禅堂、右手斜め後ろに開山堂、斜め前に庫裏・鐘楼などが並ぶ。大梅拈華山円通正法寺と号し、本尊如意輪観音(木造坐像、県指定文化財)。通称奥の正法寺。

〔開創〕

開山は能登総持寺峨山韶碩二五哲の筆頭無底良韶で、開創は貞和四年(一三四八)。無底は能登国鹿島かしま酒井さかい(現石川県羽咋市)地頭藤原氏の出で、一族は永光ようこう(現同上)の開基家という曹洞宗門における名門の家柄である。二二歳で出家し、大乗だいじよう(現金沢市)・永光寺において明峯素哲・峨山に師事、三一歳のとき新寺造営を決意した。その三年後紀州熊野権現の託宣に従って奥州に下り、黒石くろいし郷に至って仏法僧の鳴くのを聴き、守林神が鹿となって現れるという瑞兆霊夢を得て正法寺を開いたという(康永四年五月二一日「新寺造営起願文」、貞和四年「正法寺開闢奇瑞霊夢記」、「無底良韶禅師自伝」「正法年譜住山記」。以上いずれも正法寺文書で起願文・自伝・霊夢記は無底自筆。以下正法寺文書は省略)。造営起願文と同じ年に書かれた無底自筆の別の起願条文には、新寺造営に当たっての三ヵ条の誓いが記されている。すなわち不信心の者を救うこと、一年に三度放生を行い、古仏三〇体を修復することなどを誓っており、曹洞禅をこの地に広めたいという宗教的使命感がうかがえる。当初の山号寺号は拈華山正法寺であったが、すぐに山号に大梅、寺号に観音菩薩の異名円通を加え、その経緯を貞和五年正月一日の山号寺号由来霊夢記(自筆)に記している。なお開山にあたって正法寺には道元・瑩山の霊骨や、道元が中国で授かったという「六祖伝衣」(桐竹文綾九条袈裟、県指定文化財)などの重宝が与えられた。住山記にはこれらが与えられたことについて、東北地方は「夷狄遠国」で仏法の純熟しがたい地であるので、峨山門派の開創の証拠として付与されたと記されている。なお寺地は黒石寺の奥院のあった場所という伝えがある(黒石村安永風土記)

〔寺領寄進〕

開創にあたって寺地を寄進したのは黒石越後守正端と長部おさべ(現西磐井郡平泉町)の館主長部近江守清長と伝える。寺地寄進の証文は正法寺文書にみえないが、開創の年に「柳原ヲキノ在家」七千刈(寄進者不明だが黒石正端か)が寄進されたのを最初とし、文和元年(一三五二)長部殿が五千刈、延文四年(一三五九)正端が「殖田ノ郷」で一千五〇〇刈、貞治二年(一三六三)正端が「ヲキノ在家」で一千刈、同三年正端が「田中」の四〇〇刈と「三夏田」の三〇〇刈を寄進したと住山記に記されている。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]東山区清閑寺霊山町

桝屋ますや町より坂道を東へ入った所に位置。山号は霊山もしくは霊鷲山、無量寿むりようじゆ院ともいう。本尊釈迦如来。時宗でかつては国阿派の総本山。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔国阿の再興〕

弘和三年(一三八三)国阿が当時の天台宗霊山りようぜん寺住持光英より譲受け、時宗の寺院として再興、正法寺とした。「山州名跡志」に「此人福祐ニシテ、当山并ニ双林寺安養寺等、往古ヨリ山門ノ別院タリシヲ、伝受シテ吾宗ヲ開ケリ」とみえ、東山山麓の寺院のいくつかがこの時期、国阿の手で再興をみている。後小松天皇は国阿に帰依し、当寺に国家安寧の祈請をゆだねている。また足利義満は旧領安堵の御教書を下し、寺運は興隆に赴いたが、応仁の乱・天文の乱などで被災し、再び荒廃した。

〔近世の寺観と塔頭〕

復興は天正年間(一五七三―九二)に着手され、諸堂・塔頭が整備され、同一八年豊臣秀吉寄進の寺領二三石五斗は江戸時代も継承された(坊目誌)。「京都御役所向大概覚書」は「御朱印寺領弐拾三石五斗、寺家拾四軒」と記すが、塔頭の名は「坊目誌」に清林せいりん庵・西光さいこう院・常楽じようらく院・極楽院・西念さいねん寺・檀那だんな院・香泉こうせん院・東光とうこう寺・永寿えいじゆ院・正智しようち院・功徳くどく院・往生おうじよう院・方広ほうこう院・霊山寺とある。「京羽二重」はまたの名を徳禅寺と記し、「寺中」として長厳・宣阿弥・恩阿弥・重阿弥・権阿弥・珠阿弥・与阿弥・丹阿弥・連阿弥・宿阿弥の名を掲げる。各塔頭が住持の阿弥号でよばれていたもので、「都名所図会」にも権阿弥・珠阿弥・従阿弥・厳阿弥・文阿弥などの所在が描かれるが、こうした呼称は時宗寺院にままみられる。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]八幡市八幡清水井

おとこ山の南方にある。山号は徳迎山、浄土宗。本尊は阿弥陀三尊。「新撰宮寺縁事抄」(石清水文書)・「正法寺寺記」(男山考古録)によれば、駿河国清水しみず(現静岡県清水市)の住人高田蔵人忠国(姓は菅原)は、右大将源頼朝の幣礼使として当地に居住したが、「正法寺寺記」は建久二年(一一九一)のこととして「頼朝感其志、賜旗幟、源定康封功田、居八人之僧徒、唱不断之念仏」と記す。建保元年(一二一三)の正法寺本願阿仏の置文(男山考古録)によれば、当地南新清水三昧地を所望し、京極殿御局より譲り受けて正法寺造営を企図し、その後阿仏の子息円誓・国元によって正法寺が造営された。「正法寺寺記」には、「菅原阿仏子息円誓文永年中草創」とみえる。現本尊阿弥陀如来像は平安末―鎌倉初期の作と思われるから本尊造立は草創時期(建久年間)と考えてよいだろう。

阿仏三代の孫宗久の時、石清水いわしみずの「清」を避けて志水と改称したという(正法寺寺記)。嘉暦元年(一三二六)堂舎仏閣を営み、玄公を招いて住持とした。のち住持伝誉は後奈良天皇の帰依を受け、天文一五年(一五四六)一一月一六日正法寺を勅願寺とし、祈祷のことを伝誉に命じた綸旨がある(正法寺文書)。また同天皇より徳迎山正法寺の勅額を賜った(現存)

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]山陽町大字山川

厚狭盆地の北西、標高三二三・七メートルの松岳まつたけ山中腹にある。真言宗御室派で松岳山大乗院と称し、本尊は十一面観音。

寺の位置が旧末益すえます村と旧山野井やまのい村の境界近くにあるため、「寺社由来」では末益村から報告、「地下上申」では山野井村の分に「右三ケ所之(儀)ハ末益村の内ニて御座候へとも、私より兼役にて仕配仕候故、如是書記差出候」とあり、この三ヵ所とは正法寺・観音堂・権現堂である。

「寺社由来」によれば、開闢は熊野くまの権現を勧請したのに始まるというが、寿永四年(一一八五)の源平壇之浦だんのうら合戦のとき兵火にかかり寺が焼失したため来歴は不明とする。中興は花山法皇で、本堂の十一面観音は法皇一刀三礼の作といい、開帳仏という。往古は別当坊(院主)・普門坊・東持坊・玉蔵坊・利蔵坊・宝蔵坊・ミね坊・谷の坊など山内や山麓に六二坊あったが、多くは廃絶し畠の名になったとされる。現在も正法寺の寺坊だったと伝える寺院は存在するが、宗派が変わり直接の関係はなくなった所が多い。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]三原市本町

ほん町中央部にある。亀甲山延命尊院と号し、真言宗御室派。本尊千手観音。もと沼田鶴ぬたつる(現長谷町荻路)にあったが、天正年中(一五七三―九二)三原城内山之手やまのての北側に移されて公所の会談所となり、慶長五年(一六〇〇)から同二〇年頃、福島氏が侍屋敷を増設したとき、城の鬼門にあたる山中やまなか村に移され、城の祈祷所となった(三原志稿)。寺蔵の大般若経(国指定重要文化財)の奥書によると、この経は柳井やない(現山口県柳井市)上品じようほん寺で弘安七年(一二八四)から同一〇年に宋人謝復生が書写したもので、元和七年(一六二一)八幡原元延らにより当寺に寄進された。明治二三年(一八九〇)末寺の吉祥きつしよう寺・平坂ひらさか寺・神宮じんぐう寺を合併して、同じく末寺の大徳だいとく院の地に移り現在に至る。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]東松山市岩殿

岩殿いわどの丘陵の北方中腹に位置し、真言宗智山派。岩殿山修善院と号し、岩殿寺ともよんだ。また坂東三十三所の一〇番札所で、岩殿観音と通称される。本尊は千手観音。巌殿山千手観世音菩薩来由略記(寺蔵、以下断りのない限り寺蔵文書)によると、当寺は養老二年(七一八)僧鑁海が正法庵を創始したことに始まると伝え、坂上田村麻呂は東征の途中当寺に寄り、観音の霊験で比企山の悪竜を退治できたので、のちに伽藍を整えたという。もちろん、この縁起は伝承の域を出ず、また同略記によると、その後、源頼朝・北条政子・比企能員らの帰依を得たというが、これらについても確証はない。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]御坂町成田

成田なりた集落のほぼ中央に位置する。山号は金剛山、臨済宗建長寺派。本尊は釈迦如来。開山は明叟斉哲で暦応三年(一三四〇)の創建。開基は嘉応元年(一一六九)に没した法用院殿清山嶽泉大禅定門と、正治二年(一二〇〇)に没した活林院殿心屋妙貞大禅正尼とするが、法号を伝えるのみで俗名は不詳(寺記)。明叟は文保二年(一三一八)元に渡り、天目山の中峰明本に学び帰朝した。恵林えりん(現塩山市)の八世として甲州に入り、次いで当寺を開いた(甲斐国志)

正法寺
しようほうじ

[現在地名]金井町泉 和泉

黒木くろき御所跡の近く小字まちにある。曹洞宗、瑞泉山と号し、本尊釈迦如来。脇立は文殊菩薩・普賢菩薩。寺伝によると正中元年(一三二四)いずみ城主本間兵衛太郎相共の開基という。当寺過去帳には応永八年(一四〇一)三月一八日に瑞泉院殿忠山宗徳とあり、宗徳を開基とする説もある。本間兵衛太郎は、元亨三年(一三二三)一〇月二一日の本間九郎入道(資貞)宛北条貞直遵行状写(木村正辞氏所蔵文書)に「佐渡国十社神事間事、本間兵衛太郎相共、任先例可被催沙汰之由候、仍執達如件」「沙弥行恵奉」とある。兵衛太郎は本間信濃守系図(「佐渡故実略記」所収)では本間泰宣となっている。寺伝によると、世阿弥が新保の万福しんぼのまんぷく寺から和泉に移った時の配所が当寺であったとする。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]佐賀市高木瀬町大字東高木

高木たかき城跡近くにある。臨済宗東福寺派。山号は高木山、本尊は阿弥陀如来。建武元年(一三三四)肥前国目代源処英の書下(正法寺文書)に「肥前国高城山正法護国禅寺」とあり、北の春日山高城こうじよう(現佐賀郡大和やまと春日かすがとの結付きが考えられる。高城寺と勢力を二分するほどの寺院であった。正安元年(一二九九)高木氏の一族西郷三郎兵衛の妻妙明尼の開基と伝えられる。三二通の古文書を蔵し、正和三年(一三一四)北条政顕の鎮西御教書が最も古い。この文書には「肥前国佐嘉郡高木郷内正法寺」とあり、元弘三年(一三三三)の後醍醐天皇綸旨も含まれる。高木氏の保護を受け、足利尊氏の御教書、正平四年(一三四九)の懐良親王の令旨、貞和六年(一三五〇)の足利直冬の禁制、明徳二年(一三九一)の今川了俊の安堵状まで、激動する九州における正法寺の動きが読みとれる。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]新居浜市大生院 川口

石鎚いしづち山脈の麓、渦井うずい川に沿う地点に位置する。石山往生院正法寺と称し、真言宗御室派。奈良時代から存在した寺で村名大生院おおじよういんの起源をなし、寺の旧地と伝える字銀杏木いちようのきからは古瓦・泥塔などが出土した。現正法寺は旧位置に近く、旧来の本尊と称する薬師如来を祀る薬師堂がある。現在の石鎚信仰の中心は石鎚神社(口之宮・成就社・頂上社)であるが、古くはさらに四国山地東方のかめもりないしささみねが信仰の中心であったらしい。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]小樽市緑二丁目

曹洞宗。象嶽山と号する。本尊は如意輪観音。もと龍徳りゆうとく寺に属した荻野禅海が一八六一年(文久元年)に創建した色内いろないいし(手宮富士)山麓にあった観音堂を前身とするという(小樽市史)。出羽国光禅こうぜん(現山形市)の出願が寺社奉行に許され、寺号を公称したのは六六年(慶応二年)四月で(「同役衆進達留」国会図書館蔵)、同年中に仮堂が落成したという。一世住職は禅海。明治一一年(一八七八)に本堂、同一五年に庫裏が完成したが、境内狭隘のため同二八年一〇月現富岡とみおか町の地に移転(小樽市史)

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]大村市杭出津

辻田つじたにある。専念山と号し、真宗大谷派。本尊は阿弥陀如来。開基の道閑(俗名は林小七右衛門)は加藤清正の家臣で、浪人して大村城下水主かこ町に住み、俗名のまま浄土真宗の布教を行っていたが、初代大村藩主大村喜前がキリスト教禁令を受けて日蓮宗と浄土真宗を領内での仏教復活の柱としていたことから、道閑に弘通を頼み、浄土真宗の法頭を約した。元和二年(一六一六)喜前が没したのを契機に出家して道閑を号するが、二代藩主大村純頼が道場を設けて道閑を止住させ、領内布教の拠点とした。寛永二年(一六二五)三代藩主純信が大村城下の町に堂宇を建立し、同九年京都西本願寺の末寺となり、正法寺の寺号が許された。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]下北山村大字寺垣内

西にしノ川の右岸、てらたいらとよばれるところに位置する。華清山と号し、曹洞宗。本尊十一面観音。建武二年(一三三五)戸野兵衛の開基で、鉄丸能鈍のとき盛んになったという。延享二年(一七四五)焼失し、翌三年快尊が再建したという(寺院明細帳)。幕末、天誅組が十津川とつかわ(現奈良県十津川村)を退去、笠捨かさすて山から北山きたやまに入り当寺で一夜を明かした。西尾家年代記(下北山村史)には文久三年(一八六三)九月二〇日「御大将中山中将様外上下八十人正法寺にて御泊り、此外浦向兵助、善五郎両家にて宿致す。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]藍住町矢上

吉野川の支流正法寺川左岸にある。青竜山と号し、法華宗(本門流)。本尊は十界曼荼羅。中世の寺歴は不詳であるが、正岡寺と称する禅宗寺院であったとされ、「阿波志」は旧称を法観寺とする。寺伝によると、当寺の寺地がある矢上やかみ村は天正一三年(一五八五)以来置塩領の一部であったが、慶長八年(一六〇三)に徳島藩領に編入され、置塩領は初代藩主蜂須賀至鎮夫人於虎(徳川氏、敬台院)の化粧領とされた。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]四條畷市中野本町

小野山と号し、西山浄土宗。本尊阿弥陀如来。聖武天皇の勅願建立とされる古代寺院正法寺の跡を受けるもので、当初は清滝きよたきの字正法寺にあったが、元和年間(一六一五―二四)に当地へ移転、再興したと伝える。清滝の正法寺跡は昭和四四―四五年(一九六九―七〇)に発掘調査が実施され、東塔跡などが検出されるとともに出土した瓦から奈良時代前期に創建されたことが明らかにされた。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]宗像市陵厳寺

じよう(蘿ヶ岳)の南西麓にある浄土宗寺院。蘿嶽山龍泉りゆうせん院と号し、本尊は阿弥陀如来。建久年中(一一九〇―九九)三郎丸さぶろうまるふじたにに釈俊という僧が創立、当時は真言宗であった。天正年中(一五七三―九二)接与が現在地に移して再興、浄土宗に改めたという(「続風土記拾遺」など)。宗像大宮司天正十三年分限帳(宗像郡誌)に正法寺二町とある。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]岐阜市小野

五光山と号し、高野山真言宗。本尊大日如来。蓮華れんげ院とも称したという(新撰美濃志)。かつて当地には寛正六年(一四六五)七月、土岐成頼により建立された医王山正法寺が存在した。「新撰美濃志」は創建の由来について、土岐美濃守成頼は先祖より革手かわての正法寺の檀那であったが、関山派帰依のあまり、別に寺院を建立し、京都妙心寺衡梅こうばい院の雪江を迎えて開山としたと伝える。しかし天文一一年(一五四二)頃斎藤道三の兵乱によって焼亡し、その後再建したが、永禄五年(一五六二)の兵火にかかり、再び灰燼に帰した。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]岐阜市大仏町

金華きんか山の西山際にある。金鳳山と号し、黄檗宗に属する。もと萬福まんぷく(現京都府宇治市)末。天和三年(一六八三)広音が開き、千呆を開山とする。「鐘銘寺伝」には、元禄五年(一六九二)九月に堂宇成るとある。本尊の通称籠大仏は、一一世の惟中が大釈迦牟尼仏の造顕を思い立ち、大変な努力を重ねたが完成半ばで死去、それを継承した一二世肯宗が天保三年(一八三二)に完成。二代三八年の歳月を費やしたという。この大仏は周囲一・八メートルの大銀杏材を真柱とし、骨格は木材を組み、外部は竹材で編み、粘土で塗固め、その上に経文を張り、漆を施し、金箔で仕上げたものである。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]美山町大字知見

知見山と号し、日蓮宗、本尊は十界大曼荼羅。

寺伝によれば貞観一六年(八七四)智証大師の弟円乗の開基と伝え、真言宗長栄山知美ちみ寺と称したという。永仁元年(一二九三)日蓮の高弟日像が当地巡錫の際、一九代の住職多宝阿闍梨大観は日像と法論を戦わせて敗れ、日像の弟子になり日蓮宗に改宗して寺号も本像ほんぞう寺と改めたという。以後本山妙顕みようけん(現京都市上京区)貫主歴代の隠棲地となった。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]大田原市中央一丁目

旧奥州街道(県道大田原―矢板線)北側、旧大田原宿かみ町にある。本長山と称し、日蓮宗。本尊は三宝諸尊のうち釈迦多宝の二仏。寺伝では開基は慶長九年(一六〇四)大田原藩主大田原晴清の側室(菊亭大納言公実の姉)。開山は正行院日春という。寛延二年(一七四九)甲斐身延みのぶ久遠くおん寺末となる。宝永四年(一七〇七)身延山から四国へ布教を命ぜられた七代日栄など布教活動中に没した住職が多いという。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]十和田市切田 下切田

鎮護山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。天正五年(一五七七)大湯おおゆ(現秋田県鹿角市)大円だいえん寺二世宗祝の草創と伝える。藩政期末と思われる寺社修験本末支配之記(内史略)に「鎮護山正法寺 鹿角大湯村大円寺末 切田村」とあり、南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)にも同様にみえる。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]鶴岡市大山三丁目

大山の北端、正法寺山の東麓にあり、南は大浦おおら城跡(現太平山)。近世には寺地の周囲は馬町うままち村となっていた。伝灯山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。元中七年(一三九〇)源翁玄妙が開山、戦国期の大浦城主武藤義氏を開基とする。武藤氏の菩提所。初め現在地の北側元寺屋敷もとてらやしきにあったが、室町時代に現在地に移ったものといわれ、総門はこのとき建立されたものとされる。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]堺市中之町東四丁

妙法みようほう寺の南に位置し、浄土宗西山禅林寺派、山号霊亀山、本尊阿弥陀如来。良空の開基。良空は後花園天皇の信仰を得、当寺は勅願所として足利義政によって創建されたという。また後土御門天皇よりも寺領を寄せられたと伝える。一三世安楽庵策伝は当寺の中興となった。策伝は京都誓願せいがん寺五五世でもあったが笑話作者として著名で、京都所司代板倉重宗の求めに応じ「醒睡笑」を著した。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]甚目寺町上萱津 車屋

日東山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。縁起によれば、天平勝宝八年(七五六)唐僧東巌の開基。元和元年(一六一五)熱田(現名古屋市)法持ほうじ寺慶呑の中興。境内に禅堂・観音堂・鐘楼があり、香物領として寺領五石八斗余を与えられ、田畑四反三畝余は備前検除。毎年二月初午の日に米三斗三升三合と香物三二籠を、また一二月二五日に米七升と香の物一二籠を熱田神宮に納めた。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]太田市脇屋

脇屋わきやの北部にあり、脇屋山と号し高野山真言宗。本尊は聖観音(県指定重要文化財)。寺伝によると延喜年間(九〇一―九二三)山城醍醐寺の開山聖宝の開山といい、古くは聖宝寺と記し、新田氏の帰依厚く、当地に拠った義貞の弟脇屋義助の死後、義助の法名にちなんで現寺名に改めたと伝え、境内には暦応三年(一三四〇)銘の義助の遺髪塚がある。

正法寺
しようぼうじ

[現在地名]佐久市根々井字亀田

真言宗智山派真楽寺(現北佐久郡御代田町塩野)末、天神山妙住院正法寺、本尊地蔵菩薩。「正法寺開山問答記」(正法寺蔵)によれば当初は妙法院法泉寺といい、後に小弥太山生宝寺となり、更に現在名に変わったと伝える。現在は根々井館跡の中にあるが、北背段丘の上り口、現来迎らいごう寺の位置が創建時の位置であろうと考証されている。

正法寺
しようほうじ

[現在地名]安城市山崎町 大手

東海道本線の北一〇〇メートル、道路に沿っている。雲松山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと東本願寺末寺。寺伝によれば、鎌倉時代の創建。

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百科事典マイペディア 「正法寺」の意味・わかりやすい解説

正法寺【しょうぼうじ】

岩手県奥州市水沢区にある曹洞宗の寺。1348年開創,開山は無底良韶(むていりょうしょう)。1350年崇光(すこう)天皇から〈奥羽二州僧録扶桑曹洞第三ノ本寺〉〈両国寺院出世道場〉とする綸旨(りんじ)を得て,永平(えいへい)寺総持(そうじ)寺と並ぶ東北地方における第三の本寺となった。盛時には末寺508ヵ寺〜1200ヵ寺とも。江戸期には本寺の格式を失い能登総持寺の末寺になった。
→関連項目水沢[市]

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デジタル大辞泉プラス 「正法寺」の解説

正法寺〔滋賀県〕

滋賀県大津市にある寺院。真言宗醍醐派。山号は岩間山。通称「岩間寺」。養老年間(717~724)の創建と伝わる。本尊は千手観音。雷除け、ぼけ封じの寺として信仰を集める。西国三十三所第12番札所。

正法寺〔埼玉県〕

埼玉県東松山市にある真言宗智山派の寺院。山号は巌殿山。本尊は千手観音菩薩、阿弥陀如来。養老年間の開山と伝わる。坂東三十三観音第10番札所。巌殿(岩殿)観音とも呼ばれる。

正法寺〔岩手県〕

岩手県奥州市にある曹洞宗の寺院。1348年創建。本堂、庫裏、惣門は国の重要文化財に指定されている。

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