深川町(読み)ふかがわまち

日本歴史地名大系 「深川町」の解説

深川町
ふかがわまち

江戸幕府成立前後に、旧深川区域のなかで最も早い時期に開発された地域の総称。現江東区北西部から一部は現墨田区に及ぶ。「御府内備考」によれば、海浜の場所で一円萱野だった当地に深川八郎右衛門ほか六人の者が摂津国より来住し、周辺を開拓した。慶長元年(一五九六)鷹狩で付近を通りかかった徳川家康が、八郎右衛門の姓をとって地名とし、新田開発するようにと命じ深川村となったという。

範囲は南は小名木おなぎ川、北は本所、西は隅田川、東は猿江さるえ村とされ、「風土記稿」によれば、のちに町並地として深川元ふかがわもと町・森下もりした町・三間さんげん町・御船蔵前おふなぐらまえ町・六間堀ろつけんぼり町・富川とみかわ町・ひがし町・西町・扇橋おうぎばし町・猿江裏町古元ふるもと町・南松代みなみまつしろ町・北松代町、北松代町裏町(現墨田区)などの町々に分れるところである。

深川町
ふかがわちよう

大正七年(一九一八)一月、深川村が改称して成立し、昭和三八年(一九六三)まで存続した雨竜うりゆう郡の町。大正七年の戸数一千七六一戸・人口九千八三七人(新深川市史)妹背牛もせうし村分村の機運は同九年の深川市街地下水道問題などで起こり、深川市街地と農村部落(菊水村)妹背牛村の三つに分れる案まで出されたが、結局同一二年に妹背牛村が分村することとなった。分村後の戸数一千四六三戸・人口七千七五四人(同書)。明治四一年(一九〇八)に創立された誕生会は大正七年に有限責任誕生会信用購買組合となり、昭和八年には保証責任深川信用購買販売利用組合と改称された。

深川町
ふかがわちよう

[現在地名]金沢市中橋町なかばしまち長田ながた一丁目

広岡ひろおか町の南にあり、南東大隅おおすみ町、北西は長田弓ながたゆみノ町に続く。明治二月(一八六九)に成立した町。もとは加賀藩人持組深美氏(知行六千石)の下屋敷地。延宝四年(一六七六)の地子地調書(改作所旧記)に「宮腰口深美右京下屋敷之後近所」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報