無学祖元(読み)むがくそげん

精選版 日本国語大辞典 「無学祖元」の意味・読み・例文・類語

むがく‐そげん【無学祖元】

鎌倉時代に来日した中国南宋代の臨済宗の僧。明州浙江省)の人。仏光派の祖。別号は子元。勅諡は仏光禅師円満常照国師無準師範に学び、弘安三年(一二八〇北条時宗の招きで来日して建長寺に住し、同五年、円覚寺開山となった。著書に「仏光録」がある。嘉祿二~弘安九年(一二二六‐八六

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デジタル大辞泉 「無学祖元」の意味・読み・例文・類語

むがく‐そげん【無学祖元】

[1226~1286]鎌倉時代、南宋から渡来した臨済宗の僧。弘安2年(1279)北条時宗の招きで来日。建長寺に住し、円覚寺を開山。無学派・仏光派とよばれ、日本禅宗に大きな影響を与えた。諡号は、仏光国師・円満常照国師。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「無学祖元」の意味・わかりやすい解説

無学祖元
むがくそげん
(1226―1286)

鎌倉時代の臨済(りんざい)宗の渡来僧。仏光(ぶっこう)派の祖。別号を子元といい、中国明(みん)州(浙江(せっこう)省)の人。物初大観(もっしょたいかん)(1201―1268)の従弟で、物初に誘われ北礀居簡(ほっかんきょかん)(1164―1246)に参じたが、径山(きんざん)の無準師範(ぶじゅんしはん)の門に転じて法を嗣(つ)ぐ。同門に環渓惟一(かんけいいいつ)(1202―1281)、兀庵普寧(ごったんふねい)、了然法明(りょうねんほうみょう)(?―1308?)、円爾(えんに)らがいる。台州(だいしゅう)真如寺、雁山(がんざん)能仁寺に歴住、元(げん)軍が能仁寺に侵入したおり、「珍重(ちんちょう)す大元三尺の剣、電光影裏に春風を斬(き)る」と吟じて事なきを得たという逸話が残っている。北条時宗(ほうじょうときむね)が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)亡きあとに、無準下の高弟環渓惟一を招聘(しょうへい)したが、環渓は高齢のため無学を代行として日本に派遣した。1279年(弘安2)来朝した無学は、建長寺に招かれて住した。1282年、時宗は円覚(えんがく)寺を開創して無学を開山に迎え、ここで彼は北条氏一門や鎌倉武士の教化にあたり、日本臨済宗の基礎を確立した。弘安(こうあん)9年9月3日示寂。仏光(ぶっこう)国師、円満常照(えんまんじょうしょう)国師の号を賜る。法嗣(はっす)に高峰顕日(こうほうけんにち)、規庵祖円(きあんそえん)(1261―1313)らがおり、高峰の下からは夢窓疎石(むそうそせき)が出ている。『仏光録』10巻がある。

[石川力山 2017年4月18日]

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改訂新版 世界大百科事典 「無学祖元」の意味・わかりやすい解説

無学祖元 (むがくそげん)
生没年:1226-86

鎌倉中期,宋から渡来した臨済宗の僧。鎌倉円覚寺の開山。明州慶元府(浙江省)に生まれた。浄慈(じんず)寺の北礀居簡(ほつかんきよかん)について出家,ついで径山(きんざん)の無準師範(ぶしゆんしばん)に参じ,その法を継いだ。温州(浙江省)の能仁寺に住していたとき,モンゴル兵が寺に侵入し白刃をかざして迫ったが,無学は泰然として,〈乾坤孤笻(こきよう)を卓するに地無し,喜び得たり人空法亦空,珍重す大元三尺の剣,電光影裏に春風を斬る〉と偈を呈し,難を免れたという逸話は有名である。のち,天童山の環渓惟一(かんけいいいち)のもとで首座(しゆそ)を務めていたが,たまたま北条時宗が蘭渓道隆なきあと,中国から名禅僧を招聘しようと使者を派遣したのに応じ,環渓は無学を推挙した。無学は1279年(弘安2)来日し,鎌倉の建長寺に住した。時宗は82年円覚寺を創建し,無学を開山に請じた。時まさに日本と元との間に緊迫した情況がみなぎっていたが,無学は時宗はじめ鎌倉武士たちを積極的に教化し,〈老婆禅〉といわれる懇切な教育によって,禅による精神的鍛練を指導した。滞在は数年の予定であったが,中国の政情不安もあって終生日本にとどまった。寂後,仏光禅師と諡(おくりな)され,のち光厳天皇から円満常照国師と追号された。彼の門派は仏光派といわれ,高峰顕日,規庵祖円など禅傑が輩出したが,とくに高峰会下(えか)から出た夢窓疎石は大勢力を成し五山禅林の主流を占めた。《仏光国師語録》10巻がある。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「無学祖元」の意味・わかりやすい解説

無学祖元
むがくそげん

[生]宝慶2(1226).明州,慶元府
[没]弘安9(1286).9.3. 鎌倉
鎌倉時代後期の臨済宗の帰化僧。諱は祖元。字は子元。無学は号。中国,宋の官僚貴族の家に生れたが,14歳のとき径山 (きんざん) に登って無準師範に参じ,さらに石渓心月,虚堂智愚 (きどうちぐ) らを訪れ,諸寺に歴住した。天童山景徳寺に入って環渓惟一のもとで首座をつとめていたとき,北条時宗の招きを受けて弘安2 (1279) 年6月日本に渡った。同年8月,時宗の招きで建長寺に住し,ついで同5年円覚寺開山となった。初め短期間のつもりであったと思われるが,時宗のすすめもあって終生日本にとどまる決心をし,北条氏一門をはじめ多くの鎌倉武士の教化に専念した。没後,仏光国師の号を受け,さらに後年後光厳天皇から重ねて円満常照国師の号を贈られた。その門下を仏光派といい,弟子に高峯顕日,規庵祖円らの逸材が出た。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「無学祖元」の解説

無学祖元 むがく-そげん

1226-1286 南宋(なんそう)(中国)の僧。
宝慶2年生まれ。臨済(りんざい)宗。無準師範の法をつぐ。弘安(こうあん)2年(1279)北条時宗にまねかれて来日。鎌倉建長寺にはいり,のち円覚寺の開山(かいさん)となる。日本における臨済宗発展の基礎をつくった。弘安9年9月3日死去。61歳。字(あざな)は子元。諡号(しごう)は仏光国師,円満常照国師。語録に「仏光国師語録」。
【格言など】珍重大元三尺剣,電光影裏斬春風(「私は春風です。斬れるものなら斬りなさい」中国で寺に乱入した元の兵に首をはねられそうになったときのことば)

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百科事典マイペディア 「無学祖元」の意味・わかりやすい解説

無学祖元【むがくそげん】

鎌倉時代の禅僧。円覚(えんがく)寺の開山。臨済宗円覚寺派の初祖。北条時宗(ときむね)の招きに応じ,1279年宋より渡来,建長(けんちょう)寺に住した。元寇(げんこう)に際して時宗の参禅の指導をし,その決断に大きな影響を与えた。1282年時宗は円覚寺を建立。無学は終生ここに住した。その門派は仏光派とよばれた。勅諡(ちょくし)は仏光禅師。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「無学祖元」の解説

無学祖元
むがくそげん

1226~86.9.3

鎌倉中期に中国の南宋から来朝した臨済宗僧。道号は無学,法諱は祖元。はじめ子元と号す。追号は仏光円満常照国師。会稽(かいけい)生れ。7歳で家塾に入り習学,父の死により13歳で浄慈寺に赴き,剃髪受戒し祖元と名のる。1239年径山の無準(ぶじゅん)師範に参禅。その後,霊隠寺・育王山・大慈寺で参禅。69年台州真如寺に在住の折,元軍の侵入に遭遇し「臨剣頌」を作る。79年(弘安2)北条時宗の招請により来朝。建長寺・円覚寺の住持・開山となる。弟子に高峰顕日(こうほうけんにち)・規庵祖円(きあんそえん)など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「無学祖元」の解説

無学祖元
むがくそげん

1226〜86
鎌倉中期に来日した宋の禅僧で,鎌倉円覚寺の開山
臨済宗の僧。勅諡は仏光禅師・円満常照国師。1279年北条時宗の招きで来朝。建長寺の住持,ついで円覚寺開山となり,建長・円覚両寺を兼管した。在住8年,日本臨済宗の基礎を固め,禅と武士との密接な結びつきを確立した。

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世界大百科事典(旧版)内の無学祖元の言及

【北条時宗】より

…81年(弘安4)には再度の元軍の来寇を退け,幕府の権威も大いに強化された。時宗は若くして蘭渓道隆,大休正念に深く師事し,79年にはその招きで無学祖元が来朝し建長寺の住持となった。82年には円覚寺を建て祖元を開山とした。…

※「無学祖元」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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