矢野原村(読み)やのはるむら

日本歴史地名大系 「矢野原村」の解説

矢野原村
やのはるむら

[現在地名]野津原町竹矢たけや はる

七瀬ななせ川左岸にあり、北東竹内たけのうち村から肥後街道が通じる。江戸時代を通じて肥後熊本藩領で、野津原手永に属した。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ、高四四六石余。正保郷帳によれば田高二五〇石余・畑高一九六石余、稙田わさだ庄に属し、柴山有、日損所と注記される。「肥後国誌」は高三一三石余とし、徳野屋村・通堂とおしどう村・おか村・高原たかはら村などの小村をあげる。竹内村太田おおた村・今畑いまはた村も当村のうちとする。建久九年(一一九八)鎮座と伝える諏訪大明神社、禅宗大慈庵、もと万福寺と号したが同三年真宗東派に転じた東岸とうがん寺などがある。


矢野原村
やのはらむら

[現在地名]英田町三保原みほばら

香合かごう村の東に位置し、北は井口いぐち村。正保郷帳に村名がみえ、田二六石・畑一〇石。「武家聞伝記」によれば、貞享二年(一六八五)当村の六兵衛ら三人が隠田を香合村・上山うえやま村の百姓三人に売却して発覚し、三人は入牢を命じられている。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高・開高合せて七石余、村位は中。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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