中国と日本の、仏教の一派。曹洞(そうとう)、黄檗(おうばく)の2宗にあわせて、禅宗と総称される。唐(とう)末の人、臨済義玄(ぎげん)を祖とし、参禅問答による自己究明を宗旨とする。日本では鎌倉時代以後、宋(そう)朝の臨済宗が伝えられ、栄西(えいさい)の建仁寺(けんにんじ)、蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)の建長寺、無学祖元(むがくそげん)の円覚寺(えんがくじ)、円爾弁円(えんにべんえん)の東福寺など、14本山を数え、末寺数は約7000、信徒3万といわれる。江戸初期に始まる本末再編、檀家(だんか)制度の定着で、各派ともに教団としては特色を失うが、妙心寺の関山慧玄(かんざんえげん)の正法を受ける白隠慧鶴(はくいんえかく)の活動と、その門下の師家たちが、厳しく各派の専門道場を守り、一個半個の後継者育成に努め、早くより海外に知られる近代日本仏教として、高く評価されるようになった。
[柳田聖山]
臨済義玄と弟子たちの動きは、唐末五代の戦火でいったん不明となるが、7代目の慈明楚円(じみょうそえん)(986―1039)が湖南に道場をおこし、その弟子黄竜慧南(おうりょうえなん)(1002―69)と楊岐方会(ようぎほうえ)(992―1049)の2人が、広く士大夫の帰依(きえ)を得て、江西の地に宗旨を再編する。慧南の仕事は、唐中期の馬祖道一(ばそどういつ)に始まる洪州(こうしゅう)宗の正系として、臨済の禅を歴史化し、『四家録』を編集して、馬祖の道場のあった江西北部に教線を張ったこと、とくに名公の参禅を得て、文字禅の宣揚に努めたことだが、楊岐方会とその弟子たちは、長江北岸の四祖山や五祖山など、馬祖以前の古道場を再興し、達磨(だるま)以来の古則公案(こうあん)の総合に努め、やがて趙州無字(じょうしゅうむじ)の公案による見性(けんしょう)体験の体系化に成功するに至る。楊岐4代の圜悟克勤(えんごこくごん)は、『碧巌録(へきがんろく)』の提唱で知られ、やや文字禅の傾向があるが、その弟子大慧宗杲(だいえそうこう)は『碧巌録』の版木を焼いたといわれ、文字禅を厳しく退けるとともに、坐禅(ざぜん)と黙照(もくしょう)に傾く曹洞宗の禅を批判し、徹底して見性大悟を主張した。ちょうど北宋(ほくそう)末より南宋遷都のときで、急進的国粋主義の動きが強まって、首都臨安(りんあん)を中心とする五山十刹(ござんじっせつ)制の確立は、大慧の弟子たちの入内(にゅうだい)説法と関係し国祚長久(こくそちょうきゅう)を祈る禅僧の自主規制とみられる。黄竜派が早く法系を失ったのち、宋朝臨済禅の代表となる楊岐派は、そうした公案禅の体系と、五山十刹制度をもたらして、やがて日本に伝来するのであり、一種の海外亡命であった。
[柳田聖山]
鎌倉と京都を中心に、武家や皇室の帰依で、次々に創せられた禅刹(ぜんさつ)は、のちに室町幕府の成立とともに、夢窓疎石(むそうそせき)を開山とする、天竜寺と相国寺(しょうこくじ)を軸に再編され、新しい五山十刹制下に置かれた。日本臨済宗の主流は、大慧とともに圜悟に次ぐ、宋朝臨済宗の少数派であった虎丘紹隆(こきゅうじょうりゅう)(1077―1136)の系統である。江戸時代の初め、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の来朝を期として、従来は五山の外に置かれた大徳寺と妙心寺の新しい動きから、中国・日本の禅の流れを総括し、24流とする説が現れる。栄西の黄竜宗、道元の曹洞宗、その他を除くと、約20流が虎丘下に属する。虎丘の宗旨が日本の好みに応じたのであり、白隠の公案禅はその集大成といえる。
[柳田聖山]
日本における臨済宗の発展は、公案禅を踏まえる、宋朝文明の日本化とされる。たとえば、修行と悟りの過程を、牧童が牛を訓練するのに例え、10枚の絵と歌によって説く、2種類の「十牛図頌(じゅうぎゅうずじゅ)」がある。ともに北宋中期のものだが、一はおもに中国で流行し、一は日本だけに受容された。前者は牛を飼いならし終わって、牧童が牛とともに天に昇り、その姿を消し去るところを理想とし、一個の円相で示す。後者はこれを第八位に引き下げ、第九位に花咲き水流れる自然を、第十位に布袋を担いで町角に立つ人物を描いて、これを悟りの生きざまとする。とりわけ、前者の最後の円相を、後者が10枚の絵の背後に置くのは、頓悟(とんご)的な見性体験と、その日常化の思考を示すもので、これが日本民族の好みとなる。京都の禅寺を中心に五山文学や書跡、水墨美術をはじめ、茶の湯、能楽、建築、庭園など、日本で日常生活に即した禅文化の発生をみるのも、理由のないことではない。
[柳田聖山]
『柴山全慶著『臨済の禅風』(1970・春秋社)』
禅宗五家(ごけ)の一つ。中国唐代の禅宗は,大別して玉泉神秀(ぎよくせんじんしゆう)の北宗禅と曹渓慧能(そうけいえのう)の南宗禅の2流に分けられるが,漸悟を説く北宗禅は早く衰微した。これに対し,頓悟を説く南宗禅では,青原行思(せいげんぎようし),南岳懐譲(なんがくえじよう)らの逸材が輩出し,青原の門流から曹洞(そうとう)・雲門・法眼(ほうげん)の3宗,南岳の系統から臨済・潙仰(いぎよう)の2宗が生まれ,これを五家という。
臨済宗は臨済義玄(臨済)に始まり,会下(えか)の黄竜慧南(おうりようえなん)の黄竜派,楊岐方会(ようぎほうえ)の楊岐派の2流を生じ,五家と併せて七流とも呼ばれている。臨済宗は宋代の士大夫(したいふ)階層の支持を得てしだいに隆盛におもむき,初め黄竜派が発展したが,のち楊岐派がこれに代わった。特に大慧宗杲(だいえそうこう)は公案による参禅工夫の禅風を完成し,虎丘紹隆(くきゆうじようりゆう)の門流密庵咸傑(みつたんかんけつ)は,松源崇岳(しようげんすうがく),破庵祖先(ほあんそせん)など多数の逸材を養成し,松源派,破庵派などの大門派を形成し,楊岐派の基礎を固めた。
日本に初めて本格的な臨済禅をもたらした栄西は,虚庵懐敞(こあんえじよう)に嗣法して黄竜派の臨済禅をもち帰った。しかし,円爾弁円(えんにべんえん)(弁円)などその後の入宋僧の多くは,破庵派の無準師範(ぶしゆんしばん)の法系に連なっている。また,宋からの渡来禅僧も密庵の法系が多かったから,総じて日本に流入した臨済宗は,楊岐派,なかでも密庵系であったということができる。鎌倉の寿福寺を中心とする栄西,京都東福寺を中心に聖一(しよういち)派という大門派を形成した弁円らは,ともに若くして天台教学を修めていたから,彼らの請来した臨済禅は,顕密禅三教融合の習合禅とでもいうべきものであったが,鎌倉中期以降,宋より渡来した蘭渓道隆,無学祖元らの宋僧は,鎌倉の建長寺,円覚寺を本拠に,本場の純粋禅を挙揚(こよう)し,執権北条氏をはじめ,鎌倉上級武将の帰依を受けた。南北朝期以降,五山・十刹の制度が確立していくが(五山・十刹・諸山),和風の習合禅も夢窓疎石(むそうそせき)らによって隆盛におもむき,足利将軍家や守護大名らの保護のもとに,夢窓門派は五山叢林を制覇し,室町時代の臨済宗の主流を占めた。北山文化,東山文化で代表される室町文化は,五山文学と呼ばれる漢詩文や朱子学のほか,水墨画,庭園,能,茶の湯など多彩な要素を含んでいるが,それらはすべて禅味の強い文化であり,五山禅僧の文化創造活動によるところが大きかった。
一方,五山派に対し,権力と迎合せずに自力で教団を維持し,布教に努めようとする林下(りんか)と呼ばれる禅僧集団があった。その一つに宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)の大灯(だいとう)派があり,大徳寺,妙心寺を中心に,厳しい弁道と布教にあたっていた。室町幕府の衰退につれて五山勢力が衰微すると,代わって大灯派が台頭した。特に宗峰の法嗣(はつす)関山慧玄(かんざんえげん)の妙心寺派は,戦国時代から江戸時代にかけてしだいに教勢を強めたが,その法系から白隠慧鶴(はくいんえかく)が出るにおよんで,臨済宗の主流となった。白隠は峻烈な公案禅の挙揚と,卓越した指導力によって鵠林(こうりん)派と呼ばれる大門派を形成し,日本の臨済中興の祖と仰がれ,以後,臨済僧の法系はことごとく白隠の流れをくむことになった。現在では,天竜寺派,相国寺派,建仁寺派,南禅寺派,妙心寺派,建長寺派,東福寺派,大徳寺派,円覚寺派,永源寺派,方広寺派,国泰寺派,仏通寺派,向嶽寺派,興聖寺派がある。なお,江戸時代に来日して黄檗(おうばく)宗を開いた隠元隆琦も,無準師範の法系に属する臨済禅僧であった。
執筆者:藤岡 大拙
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中国禅宗五家七宗の一つ。唐代の臨済義玄(ぎげん)を開祖とする。日本に本格的に伝えたのは鎌倉時代の栄西が最初。この後,1267年(文永4)宋から帰国した南浦紹明(なんぽしょうみょう)(大応国師)が伝え,大灯国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)から関山慧玄(えげん)へと伝法した系統,すなわち応・灯・関の一系が栄え,今日も道元の流れをくむ曹洞宗とともに現代日本の禅を代表する宗派として栄えている。江戸中期には白隠慧鶴(はくいんえかく)がでて,独自の公案体系を確立するなど,臨済宗中興の祖といわれる。また江戸初期に来日した隠元隆琦(いんげんりゅうき)は宇治に万福寺を創建し,日本黄檗(おうばく)宗の開祖となった。日本臨済宗には天竜寺派・相国寺派・建仁寺派・南禅寺派・妙心寺派・建長寺派・東福寺派・大徳寺派・円覚寺派・永源寺派・方広寺派・国泰寺派・仏通寺派・向嶽(こうがく)寺派の各派がある。
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…日本の禅宗は,それらをあわせて受容するのであり,独自の近世禅文化を開くこととなる。 日本の臨済宗は,鎌倉時代の初めに明庵栄西が入宋して,五家七宗のうちの黄竜宗を伝え,《興禅護国論》を著して,旧仏教との調和をはかりつつ,鎌倉幕府の帰依で京都に建仁寺を開くのに始まり,同じく鎌倉幕府が招いた蘭渓道隆や無学祖元などの来朝僧と,藤原氏の帰依で京都に東福寺をひらく弁円や,これにつぐ南浦紹明(なんぽしようみよう)(1235‐1308)などの入宋僧の活動によって,短期間に鎌倉と京都に定着し,やがて室町より江戸時代にその後継者が,各地大名の帰依で全国に広がるものの,先にいう四十八伝二十四流の大半が,栄西と道元その他の少数を除いてすべて臨済宗楊岐派に属する。臨済禅は,唐末の禅僧,臨済義玄(?‐866)を宗祖とし,その言行を集める《臨済録》をよりどころとするが,日本臨済禅はむしろ宋代の楊岐派による再編のあとをうけ,とくに公案とよばれる禅問答の参究を修行方法とするので,おのずから中国の文学や風俗習慣に親しむ傾向にあり,これが日本独自の禅文化を生むことになり,五山文学とよばれるはばひろい中国学や,禅院の建築,庭園の造型をはじめ,水墨,絵画,墨跡,工芸の生産のほか,それらを使用する日常生活の特殊な儀礼を生む。…
…この気骨ある教義と,禅のもつ郁々とした中国文化の香りが,新しい時代の担い手として台頭する武家,それに一部の公家の気風に合致し,当代仏教界に禅宗は新風を吹きこんだ。臨済宗は幕府の保護をうけ鎌倉や京都に唐様建築による大寺院を建立し,蘭渓道隆,無学祖元,一山一寧など宋元の中国禅僧を迎え,次の室町時代に五山禅・五山文学の隆盛を築いた。曹洞宗は道元が中央権勢に接近して名利を得ることを拒んだので,彼が拠点とした越前の永平寺を中心に,鎌倉・室町時代,おもに地方武士層に教線をのばした。…
※「臨済宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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