自然(読み)シゼン

デジタル大辞泉 「自然」の意味・読み・例文・類語

し‐ぜん【自然】

[名]
山や川、草、木など、人間と人間の手の加わったものを除いた、この世のあらゆるもの。「自然に親しむ」「郊外には自然がまだ残っている」
人間を含めての天地間の万物。宇宙。「自然の営み」
人間の手の加わらない、そのもの本来のありのままの状態。天然。「野菜には自然の甘みがある」
そのものに本来備わっている性質。天性。本性。「人間の自然の欲求」
哲学で、
㋐他の力に依存せず、自らの内に生成・変化・消滅の原理を有するもの。
㋑精神とは区別された物質的世界。もしくは自由を原理とする本体の世界に対し、因果的必然的法則の下にある現象的世界。経験の対象となる一切の現象。
[形動][文][ナリ]
言動にわざとらしさや無理のないさま。「気どらない自然な態度」「自然に振る舞う」
物事が本来あるとおりであるさま。当然。「こうなるのも自然な成り行きだ」
ひとりでにそうなるさま。「自然にドアが閉まる」
[派生]しぜんさ[名]
[副]
ことさら意識したり、手を加えたりせずに事態が進むさま。また、当然の結果としてそうなるさま。おのずから。ひとりでに。「無口だから自然(と)友だちも少ない」「大人になれば自然(と)わかる」
《「自然の事」の略》もしかして。万一。
「都へ上らばやと思ひしが、―舟なくてはいかがあるべきとて」〈伽・一寸法師
たまたま。偶然。
つぶて打ちかけしに、―と当り所悪しくそのままむなしくなりぬ」〈浮・諸国ばなし・一〉
[類語](1天然てんねん森羅万象しんらばんしょう天工造化ぞうか天造原始大自然天地人/(2万物/(3天地てんちあめつち山河さんが山水さんすい山川草木さんせんそうもく生態系ネーチャー/(1無為素朴有るがままナチュラルもっとも/(2無論勿論もちろん当然当たり前もっとも至当元よりご無理ごもっと自明歴然歴歴一目瞭然瞭然灼然しゃくぜん明らか明白明明白白定か明快はっきり明瞭画然顕然まさしくまさに必至疑いなく然るべきすべからく言うまでもない言うに及ばず言えば更なり言わずもがな言うもおろか言をたない論をたない論無し推して知るべし隠れもない紛れもない無理もない無理からぬもありなん理の当然必然妥当自明の理それもそのはずもっともっとも至極もっとも千万うべなるかなむべなるかな合点唯唯諾諾首肯うべなう賛成賛同果たして果たせるかな更にも言わず至極のみならず言わずと知れた紛れもない違いないくっきり諸手もろてを挙げる/(3)(連用修飾語として)おのずからおのずとひとりでに

じ‐ねん【自然】

(「に」や「と」を伴って副詞的に用いる)おのずからそうであること。ひとりでにそうなること。
「―と浸み込んで来る光線の暖味あたたかみ」〈漱石
仏語。人為を離れて、法の本性としてそうなること。
少しも人為の加わらないこと。天然のままであること。
「本尊は―湧出の地蔵尊とかや」〈地蔵菩薩霊験記・九〉

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精選版 日本国語大辞典 「自然」の意味・読み・例文・類語

し‐ぜん【自然】

  1. 〘 名詞 〙
  2. [ 一 ]
    1. ( 形動 ) 山、川、海、草木、動物、雨、風など、人の作為によらずに存在するものや現象。また、すこしも人為の加わらないこと。また、そのさま。それらを超越的存在としてとらえることもある。
      1. [初出の実例]「自然 シセン シネン」(出典:色葉字類抄(1177‐81))
      2. 「寺号又任御心願之所一レ催。兼被撰定之処。重今依一字之依違、有自然之嘉瑞」(出典:吾妻鏡‐文治五年(1189)一二月九日)
      3. 「照付くる日の光自然を肥す」(出典:珊瑚集(1913)〈永井荷風訳〉腐肉)
      4. [その他の文献]〔淮南子‐原道訓〕
    2. ( 形動 ) あることがらが、誰にも抵抗なく受け入れられるさま。また、行為・態度がわざとらしくないさま。
      1. [初出の実例]「任亭毒於自然、従運命兮挙動」(出典:経国集(827)一・和和少輔鶺鴒賦〈菅原清人〉)
      2. 「其方が私に取って自然(シゼン)だからである」(出典:こゝろ(1914)〈夏目漱石〉上)
    3. 天からうけた性。物の本来の性。天性。本性。
      1. [初出の実例]「六義数奇の道に携らねども、物類相感ずる事、皆自然(シセン)なれば、此歌一首の感に依て、嗷問の責を止めける」(出典:太平記(14C後)二)
    4. しぜん(自然)の事」の略。
      1. [初出の実例]「仍院主若又有自然之儀者、聖深前難治之間及此儀云云」(出典:実隆公記‐延徳三年(1491)六月一四日)
  3. [ 二 ] 多く「しぜんと」「しぜんに」の形、または単独で副詞的に用いる。物事がおのずから起こるさまを表わす。
    1. ひとりでになるさま。おのずから。また、生まれながらに。
      1. [初出の実例]「若其存意督察。自然合礼」(出典:続日本紀‐養老七年(723)八月甲午)
      2. 「されど、しぜんに宮仕所にも〈略〉思はるる思はれぬがあるぞいとわびしきや」(出典:枕草子(10C終)二六七)
      3. 「自然(シゼン)と才覚に生れつき」(出典:浮世草子・好色五人女(1686)二)
      4. 「自然(シゼン)友人の交際も疎濶なるの理なれども」(出典:花柳春話(1878‐79)〈織田純一郎訳〉五〇)
    2. そのうち何かの折に。いずれ。
      1. [初出の実例]「其後分別して七色を札(ふだ)七枚にいたし置ければ、自然(シゼン)また請出す事も有」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)五)
      2. 「一度御主人様にお目にかかりたいと存じてお伺ひ致しましたのですが、どうぞ自然(シゼン)お序(つひで)もございましたら、何分よろしく」(出典:金(1926)〈宮嶋資夫〉二五)
    3. 物事がうまくはかどるさま。
      1. [初出の実例]「娌(よめ)をよび入る思案にて、先居宅(ゐたく)見せかけにして、自然(シゼン)とよい事をしすましたる者も有」(出典:浮世草子・西鶴織留(1694)二)
    4. 物事が偶然に起こるさま。ぐうぜん。
      1. [初出の実例]「法皇不使者告、自然臨幸云々」(出典:台記‐天養二年(1145)八月二二日)
      2. 「らくちうをさがしけるに、自然(シゼン)と聞出し、彼子を取かへし」(出典:浮世草子・西鶴諸国はなし(1685)二)
    5. 異常の事態、万一の事態の起こるさま。もし。もしかして。万一。ひょっとして。
      1. [初出の実例]「しぜんに僻事し出候て、上より御たづねあらば」(出典:曾我物語(南北朝頃)八)
      2. 「先づけふまでの浮世、あすは親しらずの、荒磯を行ば、自然(シゼン)水屑と成なむも定難し」(出典:浮世草子・好色一代男(1682)二)

自然の語誌

( 1 )古代、漢籍ではシゼン、仏典ではジネンと発音されていたものと思われるが、中世においては、「日葡辞書」の記述から、シゼンは「もしも」、ジネンは「ひとりでに」の意味というように、発音の違いが意味上の違いを反映すると理解されていたことがうかがわれる。なお、中世以降、類義語である「天然」に「もしも」の意味用法を生じさせるなどの影響も与えたと考えられる。
( 2 )近代に入って、nature の訳語として用いられたが、当初は、「本性」という意味であったと言われており、後には、文芸思潮である「自然主義」などにも使われるようになる。
( 3 )「自然」と「天然」は、明治三〇年代頃までは、「自然淘汰」「天然淘汰」などの例があり、現代などとは違って、二語は意味用法において近い関係にあった。


じ‐ねん【自然】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「じ」「ねん」は、それぞれ「自」「然」の呉音 )
  2. 仏語。
    1. (イ) すこしも人為の加わらないこと。天然のままであること。仏教的立場からは否定される無因論をとく自然外道に見られるもの。
    2. (ロ) おのずからそうであること。本来そうであること。仏教そのものの真理を表わすものとして用いられるもの。無為自然、業道自然、自然法爾などと表現される。
      1. [初出の実例]「無三途、苦難之名、但有自然、快楽之音」(出典:往生要集(984‐985)大文二)
      2. 「力は樊噲張良が如くつよく、心は将門純友が如くに猛けれ共、乗たる馬弱ければ、自然(ジネン)の犬死をもし、永き恥をも見(みる)事に侍り」(出典:源平盛衰記(14C前)三四)
  3. ( 副詞的に用いる。「に」や「と」を伴って用いることが多い ) おのずから、そうであるさま。ひとりでに、そうなるさま。
    1. [初出の実例]「且欲外道我自然知之過」(出典:勝鬘経義疏(611)歎仏真実功徳章)
    2. 「人の品高く生まれぬれば、人にもてかしづかれて、隠るる事多く、じねんに、そのけはひ、こよなかるべし」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)

自然の補助注記

仏教関係では「じねん」とよむことが多い。また、中世以前では、「ひとりでに、おのずから」の意のときは「じねん」とよむことがふつうで、「万一、ひょっとしたら」の意のときは「しぜん」と読みわけていたといわれる。

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改訂新版 世界大百科事典 「自然」の意味・わかりやすい解説

自然 (しぜん)
nature

自然という言葉は,もと中国に由来するものである。中国で自然という語が最初に現れてくるのは《老子》においてである。たとえば〈悠として其れ言を貴(わす)れ,功成り事遂げて,百姓(ひやくせい)皆我を自然と謂う〉(第17章),〈人は地に法(のつと)り,地は天に法り,天は道に法り,道は自然に法る〉(第25章)などである。自然とは元来,猛然とか欣然のようにある状態を表す言葉であり,存在を示す名詞ではない。それは自分を意味する〈自〉と状態を表す接尾辞〈然〉からなり,〈自分である状態〉を示すものであった。ところで老子は〈自分であること〉とは人為を加えず,本来のままであることにほかならないとしたから,この自然は無為と結びつき,〈無為自然〉という熟語もできてくる。自分が無為であることは,また物のあるがままを尊ぶことであるゆえ〈万物の自然を輔(たす)けて而も敢て為さず〉(第64章)ということにもなり,万物の〈自(おの)ずから然(しか)る〉ことを重んずることになる。いずれにせよ,自然とは自分に関しても万物に対しても,〈人為の加わらない,おのずからある状態〉を意味し,今日の自然が意味するように森羅万象の対象的世界一般を指すものではなかった。そうしたものとしてはむしろ〈天地〉や〈万物〉という言葉が用いられた。こうした事情は〈天地の自然〉を説いた道家においても,また《論衡》で自然を論じた王充においても一貫して変わらない。

 この言葉が日本に入ってきたときも,もとはこうした中国的な意味においてであった。空海の《十住心論》には〈経に自然(じねん)というは,いわく,一類の外道を計すらく,一切の法はみな自然にして有なり,これを造作するものなし〉(巻第一)とあるが,これはサンスクリットのsvabhāva(〈自ずからあるもの〉の意)の訳で,これを老荘の〈自然〉の意味にとったことは〈大唐にあるところの老荘の教えは天の自然の道に立つ。またこの計に同じ〉と言っていることからもわかる。《源氏物語》の〈わざと,ならいまねばねども,少し才(かど)あらん人の,耳にも目にも,とまること自然(じねん)に多かるべし〉(帚木(ははきぎ))なども同じであり,自然とはこのように人為的でなく,おのずからそうあることを意味する形容詞また副詞であった。こうした用法は後の親鸞の〈自然法爾(じねんほうに)〉や日本の朱子学において用いられる〈自然(しぜん)〉についても言える。安藤昌益の《自然真営道》においても,自然(しぜん)は〈自(ひと)り然(な)す〉活真(生ける真実在)というように,実在の自発自主の運動を意味する形容詞として用いられ,まだ天地万物を指す名詞になりきってはいない。

 他方,日本に蘭学が受容されると,英語のネイチャーnatureなどの訳語として〈自然〉という言葉があてられた。その嚆矢(こうし)をなすのは1796年(寛政8)に出版された稲村三伯の最初の蘭日辞典《波留麻和解(ハルマわげ)》で,そこではオランダ語のナトゥールnatuurに〈自然〉という訳がはじめて用いられた。さらに1810年(文化7)の藤林普山の《訳鍵》にはnatuurに対する訳語の筆頭に〈自然〉があてられ,natuurkundeに対しては,〈自然学〉の訳が与えられている。その後〈天地〉や〈万物〉に対して,この〈自然〉という言葉が直ちにとって代わるということはなかったが,しかし徐々に,今日の自然科学がとり扱うような外界の対象一般に対して〈自然〉という言葉が用いられるようになった。

 ところでそもそも英語のnatureやオランダ語のnatuurのもとはといえば,それはラテン語のナトゥラnaturaで,このナトゥラはギリシア語のフュシスphysisの訳である。フュシスは〈生まれる,生じるphyomai〉という動詞から派生した,おのずと生じたもの一般を意味し,人工の規則や慣習であるノモスnomosに対する。それは人為が加わらずに生じてきた森羅万象をひっくるめて統一的にさし示す言葉で,ソクラテス以前の自然学者たちが,水や空気などの宇宙の構成要素を一般的に論じて《自然についてPeri physeōs》という論説をものしたときの〈自然〉がそれである。ナトゥラも〈生まれるnascor〉という言葉から出たもので,フュシスと同じく,おのずから生じた自然一般を指した。ルクレティウスの《自然についてDe rerum natura》はギリシアの上述の〈自然について〉という表題をラテン訳したもので,同じこの種の自然論であった(それゆえこれを《物の本性について》と訳すことは必ずしも適切でない)。したがって,こうした背景をもつnatureやnatuurという言葉を〈自然〉と訳したことは,両者がともに〈人為が加えられていない〉というただ一つの共通項をもつものの,もともとまったく異なった概念だったわけである。〈自然〉は本来生き方や在り方のある価値的状態を表明するものであって,〈ネイチャー〉のように〈生じたもの〉という意味もなければ,宇宙の森羅万象の全体をさし示すものでもなく,いわんや近代西欧のそれのように,精神や歴史に対立する外的対象一般を指すものではなかった。この二つの意味が重複してしまったところに,近代の日本人のもった自然概念にある種の混乱が生じた原因があるが,逆にそれがまた今日的意義をもつとも考えられるのである。

ともあれわれわれは現在用いている〈自然〉という言葉は,ギリシアのphysisにまでさかのぼるnatureなどの訳語であるとして,この自然概念,自然観の変遷を見てみよう。まずギリシアにおいては,そのフュシスの語源が示すように,おのずと生まれ,成長し,衰え,死ぬもの一般が自然であり,アリストテレスが定義したように〈みずからのうちに運動変化の原理をもつもの〉がそれであった。すなわち古代ギリシアでは死せる無機的自然ではなく,生命ある有機的自然が自然の原型であった。そこでは自然はなんら人間に対立するものではなく,そのような生命的自然の一部としてそれに包み込まれている。神ですら自然を超越するものでなく,それに内在的である。結局ギリシアにおいては,自然は人間や神をそのうちに包み込む生ける統一体であり,こうしたことは,中国(山水)やインドの伝統的な自然観についてもほぼ同じようなことが言えよう。

 ところが中世キリスト教世界に入ると,上述したような統一体は破れ,神-人間-自然という截然(せつぜん)たる階層的秩序が現れてくる。そこでは自然も人間も神により創造されたものであり,神はこれらのものからまったく超越している。人間もまた自然と同格のものではなく,むしろ自然の上にあってこれを支配し利用する権利を神からさずかったものとなる。こうした中世の自然観は,J.S.エリウゲナからシャルトル学派を通じ,R.ベーコンにいたる系譜において,しだいにはっきりした形をとる。近代西欧の自然観も本質的にはこの中世キリスト教世界に含まれていた自然観を継承し,いっそう方法的に自覚発展させたと言える。すなわち自然を人間とは独立無縁な対立者としてこれを客観化し,この純粋な他者を,外からさまざまな操作を加えて量的に分析し,そこに〈法則〉を確立して,これを把握し利用しようとするのである。そこには自然から人間的要素としての色やにおいなどの〈第二性質〉や〈目的意識〉などが追放され,もっぱらこれを〈大きさ〉〈形〉〈運動〉などの自然自身の要素に分解して因果的,数学的に解析していく近代の機械論的自然観(機械論)が成立することになる。これを徹底的に遂行したのがデカルトである。彼はこのシナリオを貫徹するために,物体から〈実体形相〉という生命原理を除去し,これを一様な幾何学的〈延長〉に還元し,逆に心や霊魂とよばれてきたものは〈純粋思惟〉として純化する。この徹底した二元論のもとで自然は単なる延長として,いっさいの心的,生命的なものを欠いた数学的対象となる。ここに古代ギリシアの有機的自然観は,近代の無機的自然観にとって代わられ,physisの訳語であったnaturaはnascor(生まれる)との連関をたち切り自然は生命のない一様な延長を細かく切り刻んだ数学的粒子のダンスとしてとらえられることになった。近代西欧の自然観のもう一つの特徴は,F.ベーコンによって唱導された〈自然支配〉の理念である。そこでは自然は未知なる第三者として〈実験〉によって解剖され,それによって得た知識にもとづいて支配され,現実に利用さるべきものであった。これが〈知は力なり〉と言ったときの彼の新しい実践的知識観であり,〈自然を支配する権利を神から与えられている〉とする征服的自然観であった。

 このようにして17世紀に成立したデカルト=ベーコン的な近代の自然観は,18世紀の啓蒙思想を通じて,その背後にある神学的前提をとり去ることによって世俗化され,ますます無自覚的に強められてきている。それは一面ではたしかに自然認識の点で多くの成功を収め,人類の物質的条件を大いに改善し,今日の科学技術文明を出現させた。しかし他方においてほかならぬこの近代の自然観が,公害や自然破壊のようなマイナス面を生み出していることも否定できないであろう。今や自然観においてもわれわれは一つの転換期に立っていると言うべきであり,生態学への関心やエコロジー運動の高まりはこのような動向の一つの現れと考えられる。新しい自然観は近代の機械論的要素主義を超えて,自然を一つの〈生けるシステム〉としてとらえ直すと同時に,人間による〈自然の支配〉ではなく,人間の〈自然との共生〉を可能にするようなものでなくてはならない。そうした〈生けるシステム〉としての自然は,まず要素の単なる機械的寄せ集めではなく,要素間の緊密な相互作用をもつ全体としてとらえられねばならない。ついでそれは環境の変化のなかで自律的に自己を保存するものであり,第3には自己保存のみならず適当な条件のもとでは新たな自己形成を行いうるものである。第4に人間はこうした自然システムの外にあるものではなく,まさにその一員として,周囲の自然システムと調和していかねばならない。こうした全体的,自律的かつ自己形成的な新しいシステム的自然観は,明らかに近代の機械論的自然観に対立するものであるが,しかしそれは奇しくも〈自ずから然る〉東洋の自然観とある点で連繫するものと言えよう。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「自然」の意味・わかりやすい解説

自然
しぜん
nature 英語
Natur ドイツ語
nature フランス語

元来、自然とは、自(みずか)らの本性に従って(自(おの)ずから然(しか)るべく)あるもの、あるいは生成するもののことである。したがって、多くのヨーロッパ語において、「自然」と「本性」とは同じことばで言い表される。そして、「自然」とよばれるもののなかに何が含まれるかは、おのおののものの「本性」として何を考えるか、また、その本性に対立するものとして何を考えるかによって、さまざまに考えられてきた。

 近代以降、もっとも典型的な「自然」の用法は、人間と自然とを対置し、人間による介入・干渉、人工品との対比において「自然」を語る用法であろう。この意味では、人手の加わらないものが「自然」なのである。しかしまた、人間についても「自然」が語られる。「人間本性」human natureとは、まさに人間における自然である。ここで人間の自然と対比されているのは、一方では全自然の創造者(神)であるが、他方では個々の人間が属する特定の社会、その社会がもつ制度や文化といったものであろう。社会、制度、文化(これらをかりに「文化的存在」とよぼう)は、もちろん人間がつくったものであり、人工品と自然の場合と同様に、ここでも、このような文化的存在をつくる人間の知的創造性、自由が、「人間の自然」と対置されているのである。

 このように、自然(人間の自然も含めて)と人間(の創造性)とを対置することの基盤には、人間は、自然の一部でありながら、同時に(単なる)自然を超えた存在である、という信念がある。だが、人間にこのような特異な位置づけを与えようとする場合、はたして何が「人間の自然(本性)」に属し、何が属さないのか、という問題が生ずる。自然と対置された人間の知的創造性、自由も、人間の自然(本性)に属するのではないのか、社会を形成し、さまざまの制度のもとで生活し、文化を創造することも、人間の本性的なあり方ではないのか、という問題である。もしこのような問いに、すべて肯定的に答えるならば、(文化の一部としての)科学・技術を駆使してさまざまの事物に手を加え、いわゆる「自然」を破壊することも、また逆に、そのような「自然破壊」を予測し、それを未然に防ぐ手だてを講ずることも、「人間の自然」に含まれ、ひいては「自然」に含まれることになるであろう。かくして、自然と人間との対比は、きわめて不確かなものとなる。

 また、近代以降の機械論的発想に基づく「自然科学」における「自然」も、確かに対象領域のうえで、前記の「文化的存在」に対して「自然的」存在に限定されているが、その適用範囲は非常に広く、人間自身にも人工品にも適用される。そこでは、「自然法則」をその本性とするような諸部分から構成されたものは、すべて「自然」なのであり、その本性(自然法則)は、(「超‐自然的」な力、奇跡を別とすれば)いかなるものの干渉・介入をも許さぬものであって、その意味では、すべてのものがつねに、みずからの本性に従った「自然」なあり方をしていることになる。さらにまた、対象領域のうえでの対立者である「文化的存在」も、けっして(人間も含めた)自然的存在から独立したものではなく、むしろ自然的存在のあり方の一側面である、といえるならば、自然と人間との対比は、ますます薄弱になるであろう。

 現在、人間に関する自然科学的探究が進展し、また、機械による人間の模倣(人工知能)が進むなかで、世界のなかでの人間の位置が改めて問われており、それは同時に、「自然」という概念の再考を求める問いである、といえよう。

[丹治信春]

『三宅剛一著『学の形成と自然的世界』(1973・みすず書房)』『A・O・ラヴジョイ著、内藤健二訳『存在の大いなる連鎖』(1975・晶文社)』『P・M・チャーチランド著、信原幸弘・宮島昭二訳『認知哲学――脳科学から心の哲学へ』(1997・産業図書)』『下條信輔著『サブリミナル・マインド――潜在的人間観のゆくえ』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「自然」の意味・わかりやすい解説

自然【しぜん】

自然ということばは中国に由来することばで,最初に現れるのは《老子》である。自然とは,猛然とか欣然のようにある状態を表すことばであり,存在を示す名詞ではない。自然とは自分に関しても万物についても人為の加わらない状態,おのずからある状態を意味している。自然という漢語が日本に入っても,長い間この意味は変わらなかった。これに対して,江戸時代に蘭学・英学が受容されると,英語のネイチャーnature,蘭語のナトゥールnatuurの訳語として〈自然〉があてられるようになり,その意味が日本語のそれまでの自然の意味に重層し,混乱を生じるようになる。ネイチャーの古代ギリシア語はフュシスphysisで,フュシスはおのずと生じたもの一般を意味し,それは,人が作り出した規範は慣習を表すノモスnomosに対することばである。つまり人為が加わらずに生まれてきた森羅万象をすべて統一的にさすことばである。精神や知覚の対象としての〈自然〉,という西欧哲学・科学のとらえかたと,おのずからある状態をさす〈自然〉という東洋的・日本的なとらえかたの双方が混在しているところに,日本人の独特の自然観があるともいえる。

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普及版 字通 「自然」の読み・字形・画数・意味

【自然】しぜん

本来のまま。〔荘子、応帝王〕汝(なんぢ)、心を淡にばせ、氣をに合し、物の自然に順(したが)ひて私を容るること無くんば、天下治まらん。

字通「自」の項目を見る

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「自然」の意味・わかりやすい解説

自然
じねん

仏教用語。 (1) おのずから,ひとりでに,(2) 事物の本性,仏教の真理,(3) 自然発生的な存在,(4) 特別な原因がなく万物は自然に生成変化する (無因論) ,といったいろいろな意味に用いられる。

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世界大百科事典(旧版)内の自然の言及

【エマソン】より

…全存在として生きたいという悲願が,ここに初めて宇宙の多様さを目撃し,宇宙との一体性を感じて満たされる思いがしたのである。 帰国後34年にボストン近郊のコンコードに移り住んだエマソンは,36年に思想家として初めての著作《自然》を世に問い,巻頭でまず世界とのあいだに〈独自な関係〉を持とうと情熱的に呼びかけた。先人たちの足跡に盲従せず,いわばさら地としての世界の中に,自分の〈理性〉に見えるとおりの意味を正直に読みとろうというのだ。…

【科学雑誌】より


[日本の科学雑誌]
 日本最初の科学雑誌は1931年刊行の《科学》であるが,これは先の《ネイチャー》をモデルにしたもので(初代編集主任石原純),学術雑誌的色彩の強いものであった。その後,より啓蒙色の強い《科学朝日》(1941),《自然》(1946)などが創刊され,第2次大戦後の科学論壇の舞台となった。80年代に入ると,コンピューター,生物工学などの技術革新の波にのって《ニュートン》をはじめ数多くの科学雑誌が刊行され,一種の科学雑誌ブームを巻き起こしたが,90年代に入ると,その多くが休刊ないし廃刊に追い込まれた。…

【自然】より

…自然という言葉は,もと中国に由来するものである。中国で自然という語が最初に現れてくるのは《老子》においてである。…

【自然保護】より

…自然を人の社会活動による破壊から守るという考えは,欧米ではかなり古くから生じているが,日本では欧米文化が急速に浸透してきた明治以降と考えてよい。また〈自然(じねん)〉という語はそれ以前から人工に対立するものとして用いられ,ヤマノイモを自然薯(生)と呼ぶような用い方もされていたが,現代のように人間社会を取りまきそれに対立するすべての環境を意味する場合は,〈花鳥風月〉や〈山川草木〉のような語が一般に用いられていたようである。…

【自然主義】より

…一般には文芸用語として,19世紀後半,フランスにあらわれて各国にひろまった文学思想,およびその思想に立脚した流派の文学運動を指す。ナチュラリスムという原語は,古くは哲学用語として,いっさいをナチュールnature(自然)に帰し,これを超えるものの存在を認めない一種の唯物論的ないし汎神論的な立場を意味していたが,博物学者を意味するナチュラリストnaturalisteという表現や,自然の忠実な模写を重んずる態度をナチュラリスムと呼ぶ美術用語など,いくつかの言葉の意味が重なり合って影響し,文学における一主義を指す新しい意味を獲得するにいたった。文学は科学と実証主義の方法と成果を活用し,自然的・物質的条件下にある現実を客観的に描かなければならないとする理論,これを〈ナチュラリスム〉の名のもとに組みあげていったのは,名実ともに自然主義派の総帥ともいうべきフランスの作家ゾラである。…

【自然主義】より

…一般には文芸用語として,19世紀後半,フランスにあらわれて各国にひろまった文学思想,およびその思想に立脚した流派の文学運動を指す。ナチュラリスムという原語は,古くは哲学用語として,いっさいをナチュールnature(自然)に帰し,これを超えるものの存在を認めない一種の唯物論的ないし汎神論的な立場を意味していたが,博物学者を意味するナチュラリストnaturalisteという表現や,自然の忠実な模写を重んずる態度をナチュラリスムと呼ぶ美術用語など,いくつかの言葉の意味が重なり合って影響し,文学における一主義を指す新しい意味を獲得するにいたった。文学は科学と実証主義の方法と成果を活用し,自然的・物質的条件下にある現実を客観的に描かなければならないとする理論,これを〈ナチュラリスム〉の名のもとに組みあげていったのは,名実ともに自然主義派の総帥ともいうべきフランスの作家ゾラである。…

【社会科学】より

…社会科学とは,自然に対比された意味での社会についての科学的な認識活動,およびその産物としての知識の体系をいう。この定義で中枢的位置を占めているものは〈社会〉という語および〈科学〉という語の二つであるから,以下これらについて注釈を加えよう。…

【風景】より

…風光というのと同じ観念に出る語。風と光とで眼前に広がる自然をとらえるのは,風景の語の最も早い用例の一つが中国の3~4世紀ころの《世説新語》に見え,風光の語も六朝・隋・唐から使用が盛んになるように,六朝期における自然観照の態度の確立と関連している。それ以前の自然が比喩的な意味をもって人間にひきつけて見られていた(《詩経》の興(きよう)の技法がその典型例)のに対し,自然を独立した対象物として眺めることが可能となったとき,風景の観念とその語とが成立したのである。…

【フュシス】より

…ギリシア哲学におけるこの語の最古の用例はヘラクレイトスの断片に見ることができるが,それによれば,〈もの〉の〈本来あるがままの姿〉〈真実あるがまま〉を意味する。したがって本性,本質などと訳されたりもするが,ギリシア哲学全体において示されるこの語の意味の複雑さを考えると,〈自然〉が最も適切な訳語である。たとえば,森鷗外も歴史の真実に迫る手法を歴史の〈ありのままを書く〉とか歴史の〈自然〉を尊重するといっており,〈ものの自然〉といういい方は日本語として不自然ではない。…

【労働】より

…《仕事と日々》の農作業の記述の部分も農事暦の一例とみなせる。その部分のいちじるしい特徴は,季節の進行の特定の時点を明確に告知する自然の特徴的現象の美しい描写であり,それと特定の農作業の開始の組合せである。それらの自然は神話上の人物や神々とつねに結びつけて描写される。…

※「自然」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」