一般に,芸能を演じるための場所のうち,演者が観客に演技を見せるために用いる部分をさしていう。しかし,この〈舞台〉と呼ばれる場所は,それだけが独立して存在するわけではなく,つねにそれを包含するある一定の演劇的時空の中に置かれている。したがって,この演技が行われる場所について何かを論じる際には,そのようなものとの関係構造,およびその演劇的時空の性格についての考慮が必要であることにも,留意すべきであろう。ここでは記述の重複を避け,主として舞台そのものの形状・構造という面から見た場合のその分類について記すこととしたので,上記の点に関しては,文末に示したそれぞれの項も参照されたい。
舞台には,その構造において,きわめて単純なものからきわめて複雑なものまで,さまざまの種類がある。まず,例えば大道であれ広場であれ,演技が行われていたらその間はそこが舞台になるわけである。この場合,演技者の場所と観客の場所とは境のない連続した同一の平面であるのが普通であり,両者の間に明瞭な区別はない。これがやや複雑になれば,例えば街頭に必要に応じてやぐらを組むとか車をとめてその上で演技を行うとかいったかたちがありうる。この場合には,舞台と客席とが区別されているが,舞台は仮設のものであるから,それが取り去られると,その場所は再びもとの日常的空間に戻る。そしてさらに複雑なものになれば,演技のための恒常的な場所が設置され,これが同じく恒常的な客席を使うようになるとき,〈劇場〉と呼ばれるような建築物が生まれる。劇場内の舞台と客席との関係は,前者が後者から明瞭に区別されている場合と,前者の全部または一部が後者によってとり囲まれている場合とに大別される。第1がいわゆる〈額縁(がくぶち)舞台〉で,おおむね近代以後の劇場に多く認められ(今日の日本のほとんどの劇場もこのかたちである),第2が近代以前の劇場に多い〈張出(はりだし)舞台〉である(例えば日本の能舞台もこの一種といえる)。
この額縁舞台・張出舞台の両者の区別は,実は単に形状の問題にとどまらず,そこで行われる演劇の成り立ち方の本質に触れる問題と関わっている。例えば,額縁舞台が前面に幕をもつのに対して,張出舞台はそれを欠くが,幕の主な目的は舞台を観客の目から隠すことにあり,それを利用して場面転換なども行われるのである。この場合観客には,できあがった結果としての劇だけが見せられるのであって,全体としての演劇行為の中で,演技者と観客はかなりはっきりとその役割(見せる・見せられる,見る・見られる)を二分しており,俳優の演技の力による舞台への吸収という強いベクトルが存在するにせよ,基本的には両者はそれぞれの側にとどまっている。これに対して張出舞台では,演技者と観客のそれぞれの側の志向性の相互浸透というもう一つのベクトルがしばしばあらわれて,劇を単なる現実の再現とする考え方は通用せず,観客もいわば全体的かつ統合的な〈参加の構造〉にくみして,演劇行為成立のための重要な部分をなす傾向がみられる。
→演劇[劇場の空間と場] →劇場 →舞台美術
執筆者:喜志 哲雄
記紀神話の天鈿女(あめのうずめ)命の岩戸の舞の記述に見られるように,原始,古代においては特定の舞台はなく,自然の地形を利用して野外の空地が使われたものと考えられる。祭りや神事において,芸能が行われる野外の道・空地・庭や,土間・座敷などを〈舞処(まいど)〉というが,これらの場所も舞台と考えていい。一定の様式をもった建物としての舞台の嚆矢(こうし)は,奈良・平安時代の舞楽の舞台であるといわれている。はじめは唐制を模した舞台の構造だったと推測されるが,平安時代に入ると,しだいに日本化され,方4間(約52.85m2),高さ約1mの高舞台で演じられるようになった。高舞台の中央には一辺3間(約5.4m)の緑色の布を張った敷舞台があり(ここが舞人の演技領域である),周囲には朱塗りの高欄をめぐらしてある。屋根はなく,観客席も特設されていないが,このような舞楽舞台は後代につよい影響を与えた。
室町時代に田楽・猿楽から能・狂言が成立すると,方3間の本舞台に橋掛りをつけ,破風(はふ)の屋根を架した能舞台が生まれてくる。演者が登退場するためのこの橋掛りをつけた能舞台は,観客席に張り出すかたちになっており,いわゆる〈張出舞台〉の一種ということができる。
1603年(慶長8)に出雲のお国が京洛に登場し歌舞伎踊を創始すると,それを模倣する遊女歌舞伎や,女歌舞伎がさかんに演じられるようになる。その舞台は,前代の勧進能の興行の施設を踏襲したもので,筵(むしろ)や竹矢来で囲った仮設の単純なものだった。しかし,遊女歌舞伎,若衆歌舞伎の禁止を経て野郎歌舞伎が現出し,この芸能の種々の側面での発展をみると,従来の能舞台をうけついだ舞台では間にあわなくなり,引幕をセットし,橋掛りの幅を広げて付舞台もつくられるなど,多幕物の〈続き狂言〉にも相応した演出効果を発揮するべく,舞台面に新しい変革が行われた。しかしまだ,舞台と桟敷部分に屋根が架されていただけで,平土間の観客席の上は青天井で野天のままだった。1723年(享保8)に幕府は,〈劇場は瓦屋根,塗壁造りとすべし〉という防火規則を発布したので,平土間も屋根で覆うこととなり,全体が一つの建造物の中におさまることとなった。しかし,能舞台を踏襲した影響もまだ残っていて,本舞台に切妻破風の屋根を遺存していた。
享保から元文・延享・宝暦・明和にいたる18世紀前半から中葉にかけて,舞台機構や設備の上で創意にみちた新しい考案が,次々に実施されていく。1753年(宝暦3)12月大坂の大西芝居で〈セリ上げ〉,5年あとの58年2月には狂言作者並木正三によって同じく道頓堀角の芝居で,大劇場では画期的な〈回り舞台〉が創始された。さらに59年4月道頓堀の大西芝居で〈スッポン〉が,61年12月大坂の中の芝居で〈がんどう返し〉が,さらに66年(明和3)に大西芝居で〈引割〉が創案された。また,すでに早く1761年には能舞台の遺存であった本舞台の屋根をはずし,明和・安永・天明期(1764-89)になると目付柱の処理にも改革が試みられた。客席を通って揚幕へ通じる花道の発生は,寛文(1661-73)ごろといわれるが,これが常設の設備となったのは元禄(1688-1704)以降のことである。中村・市村・森田(守田)の江戸三座は,しばしば焼失して改・新築をくりかえしているが,天明・寛政(1781-1801)のころの舞台の大きさは,6~7間の間口が普通で,いわゆる〈本舞台三間〉といわれたころに比べてかなり拡張している。
額縁式の舞台様式が誕生するのは明治初期以来であり,1872年(明治5)に新富町に移転した洋風建築の守田座は間口11間(19.8m),89年開場の東京歌舞伎座は12間と広がっている(ちなみに戦後再建された歌舞伎座は間口15間である)。明治以降の近代劇場は,新劇,大衆演劇等の種類を問わず,そのほぼすべてが額縁舞台の様式をとっており,その事情は第2次大戦後の今日まで基本的には引き継がれているといってよいが,1960年代の後半以降には,さまざまな新しい演劇の試みのなかで,さきの張出舞台のほか,テント劇場,街頭演劇,地下劇場など斬新な舞台形式による演劇が行われたことは特筆に値しよう。
→能舞台
執筆者:藤波 隆之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
舞台は演技者が演技を行う場として設けられる構築物であり、劇場の重要な構成要素の一つである。演劇の起源が神事、祭事に求められるゆえに、舞台の起源もまたそうした行事に際して行われる舞踏、物語劇のための特定の場の設定に求められよう。当初は演技のための場所さえ確定すればよかったものが、祭祀(さいし)性が薄れ、舞踏や演劇の芸能としての自立が促進されるにつれて、観客席が固定化されて劇場形式が成立し、舞台もまた固定されたものとして観客席との関連において営まれるものとなる。初めはただ平地で演じられるものを周囲から取り囲んで見物する形から、見やすくするために舞台を高くしたり、逆に古代ギリシア劇場のように観客席を高くとることが行われ、さらには仮設の構築から常設の空間へ、また屋外から屋内の空間へと発展していった。
劇場における舞台のあり方は、張出し舞台と額縁舞台とに大別できる。前者は舞台が観客席の中に突き出したものであり、原則として幕がなく、場面の転換なども観客の面前で行われる。後者はプロセニアム・アーチとよばれる額縁状の構築で舞台と観客席を分かつもので、必要に応じて幕によって舞台空間を観客の目から遮ることができる構造になっている。また舞台は唯一の平面から構成されるのが一般的だが、中国の宮廷劇場、あるいはイギリスのエリザベス朝の舞台のように、層を重ねた立体的な構成をとる例もある。
世界各地の舞台は一般に張出し舞台から額縁舞台へと展開するが、ヨーロッパで後者の形式が初めて確立したのは、17世紀初めのイタリアにおいてであった。以後この形式が劇場における舞台の主流となるが、20世紀に入ると、舞台と観客の一体化を求める運動から、ふたたび張出し舞台、あるいは舞台の周囲を観客席が取り巻く形式が復活し、前衛的な演劇を中心に多くの試みが行われている。
日本独特の舞台形式としては、張出し舞台に橋懸(はしがか)りがつく能舞台がある。この起源は神事における控えの部屋から舞処(まいど)への通路にあると思われるが、この部分を独自の時間と空間に属する演技空間として開発したのは、世界の舞台の歴史においても際だった発想といえよう。歌舞伎舞台(かぶきぶたい)の花道は、ひいき客がはな(祝儀)を贈るための仮設の構築に始まるというが、結果的にはこれも観客席を貫くもう一つの演技空間となるに至っている。これらのアイデアは、20世紀初頭以来、世界の演劇革新の運動が着目するところとなった。
舞台は、もちろん観客席から見える俳優の演技空間のみでは不十分で、場面転換の装置などを収容するために左右の袖(そで)、また奥に広大な空間を必要とし、さらに照明などの設備のためにフライロフトとよぶ高い吹抜けの空間をその上部に必要とする。また、せり上げや回り舞台といった仕掛けが設置されることも多いが、日本の歌舞伎劇場はこれらを18世紀中葉に開発しており、とくに1758年(宝暦8)並木正三(しょうざ)考案の回り舞台は、ヨーロッパに150年ほど先駆けての開発とされている。
[横山 正]
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…19年第1次大戦後の欧米劇壇を視察,帰国後《戦の後》を発表。30年演劇雑誌《舞台》を創刊して後進を育成し,みずからも晩年まで劇作につとめてうまなかった。初期の史劇から晩年の世話物,喜劇まで,その多彩な196編の戯曲は,質量ともに黙阿弥以後の第一人者といってよい。…
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【歴史】
[歌舞伎の黎明]
近世初頭,打ち続いた戦乱に非業のうちに死んだ人たちの魂をまつる御霊会(ごりようえ)にともなった風流(ふりゆう)踊が全国的に大流行した。歌舞伎踊は,この風流踊を母胎とし,中世的な舞とは違って,仮面を着けず,振りをそろえて〈踊る〉舞台芸能として成立する。その最初は,出雲大社の巫女の出身と称し,出雲のお国と名のった女性芸能者が京都にのぼり,〈ややこ踊〉と呼ぶ芸能を演じたのに起こる。…
…演劇あるいはこれに類する技芸を上演する建物で,大きく分けて演ずる場である舞台と,それを享受する観客席から成る。演劇の場としての劇場の空間構成には,屋外,室内の別を問わず,大別して二つの形態が認められる。…
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[世界の表現としての舞台美術]
かつてW.シェークスピアは〈この世界が舞台である〉(《お気に召すまま》)と書いたが,それと同じように現代の舞台美術は,現代の世界と重なり合っている。現代の演劇が,われわれ現代人にとっての問題を取り扱っているとするならば,その舞台美術は現代の状況を表現していなければならないことになる。…
※「舞台」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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