虎居城跡(読み)とらいじようあと

日本歴史地名大系 「虎居城跡」の解説

虎居城跡
とらいじようあと

[現在地名]宮之城町屋地

川内せんだい川左岸沿い南東から北西に延びた標高六一メートルを最高所とするシラス台地に築かれた山城。宮之城・下之したの城・答院けどういん城ともいう。「三国名勝図会」は康治年中(一一四二―四四)答院郡司大前道助により築かれ、鎌倉初期にはその子孫道透が在城したとする。道助は康治元年三月一日に譲状(「大前道助譲状案」答院記)を書いた人物で、大前氏はとう郷、宮里みやざと高城たき(現川内市)などにも勢力をもつ有力郡司家だったが、当城を築いたことは確認できない。ちなみに大前氏は川内川上流に時吉ときよし城を築き上之うえの城とよび、当城を下之城とよんだとも、斧淵おのぶち(現東郷町)などを築いたともいわれる。宝治二年(一二四八)答院の地頭として渋谷五族の一人渋谷重保(重直)が下向したとされる。重保の子孫は渋谷氏系答院氏となり、南北朝初期から大前氏と抗争し始め、後期には大前氏を圧倒した。答院氏は大願だいがん(現鶴田町)菩提寺としており、暦応二年(一三三九)湯田ゆだ城での合戦(延元四年六月日「村田如厳軍忠状」旧記雑録)碇山いかりやま(現川内市)での合戦にも従っており(島津国史)椿つばき(現鶴田町)を築き同城に拠っていたと思われる。南北朝初期に築かれていた当城は、この過程で答院氏の拠城になったと思われるが築城関連史料はない。

応安四年(一三七一)以降答院氏はほぼ一貫して守護島津氏に対抗し、入来院高城東郷各氏と山北四族とよばれる連携行動をとった。まず同五年島津総州家師久方および九州探題今川了俊方となって各地で合戦し(島津国史)、同年六月入来院重門に率いられ師久方の高江峯たかえみね(現川内市)を攻めた(「島津師久譜」「島津氏久譜」旧記雑録)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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