西津荘(読み)にしづのしょう

百科事典マイペディア 「西津荘」の意味・わかりやすい解説

西津荘【にしづのしょう】

若狭国遠敷(おにゅう)郡の荘園。現在の福井県小浜(おばま)市西津を中心に田烏(たがらす)を含んだ。山城神護寺領。平安末期に安倍資良(あべのすけなが)が開発,神護寺に寄進して同寺を領家(りょうけ)とし,自身は預所(あずかりどころ)となり立荘したと推測される。多烏(田烏)浦は神護寺の文覚(もんがく)によって当荘のうちとされたという。承久の乱に際していったん没収され後鳥羽(ごとば)院領になったが,乱後神護寺に返付され,安倍資良の血脈を継ぐ平氏女(たいらのうじのめ)(安倍資良孫子盛員入道嫡女)が預所職に補任された。1265年の若狭国惣田数帳写では17町9反余。荘内の多烏浦と汲部(つるべ)浦の間では狩倉(かりくら)山の古木伐採などをめぐる相論が起こった。元徳年間(1329年−1332年)の年貢目録によれば田20町4反半,塩浜は3町2反余,畠11町7反余であった。南北朝期,守護所が西津に置かれていた。
→関連項目多烏浦

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改訂新版 世界大百科事典 「西津荘」の意味・わかりやすい解説

西津荘 (にしづのしょう)

若狭国遠敷(おにゆう)郡の荘園。現在の福井県小浜市西津を主とし田烏を含む。山城神護寺領。平安末期,開発領主安倍資長が同寺(文覚上人)に寄進してこれを領家と仰ぎ,自身は預所となることにより立荘したと考えられる。多烏浦(たがらすのうら)(現,田烏)は文覚により〈西津ノかた(片)庄〉とされたという。1196年(建久7)将軍源頼朝の勘気をうけて守護職を奪われた稲庭権守時貞が〈西津庄ばかりかつみやう(渇命)ところに給〉わり,6年後ここで没したことが《若狭国税所今富名領主代々次第》に見える。文覚の配流(1199)に際し,荘は没収されて後鳥羽院領とされたが,承久の乱後返付され,資長の曾孫平氏女が〈重代相伝之道理〉により預所職に補任されている。1265年(文永2)の若狭国惣田数帳(写し)には〈西津庄十七町九反二百卅歩〉,1330年(元徳2),32年(元弘2)に公文平知基が注進した年貢目録(写し)には田20町4反半,塩浜3町2反小10歩,畠11町7反12歩と見える。当時,公文,散仕らの荘官が存在した。室町時代には守護一色氏が西津におり,1416年(応永23)守護代三方常忻が知行権(地頭職であろう)を与えられ,代官を入部させている。荘名は戦国初期まで見えるが,当時の実態は不詳である。
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