出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
栃木県の
県内を流れる那珂川を古代には
中世以前の洪水は不明であるが、近世に入って「水戸紀年」に記された洪水は、慶長五年(一六〇〇)・元禄元年(一六八八)・享保八年(一七二三)・同一三年・同一九年・宝暦七年(一七五七)・安永八年(一七七九)・天明六年(一七八六)・寛政五年(一七九三)・文化九年(一八一二)・文政六年(一八二三)・同七年の一二回を数える。このほかに享保一一年・同一五年・安永九年・天明三年・同八年・天保四年(一八三三)・同九年・弘化三年(一八四六)・安政五年(一八五八)の洪水記録が諸書に散見される。近代に入ってからは昭和一三年(一九三八)・同一六年の洪水の被害が大きかった。これらの洪水のうち、とくに天明六年の洪水は水戸の
那須岳(一九一七メートル)北西部福島県境近くの山間に発し、
古くは常陸国阿波郷にちなみ「粟河」ともよばれ(常陸国風土記)、中川と記されることも多い。川名は常陸国那珂郡内を流れることに由来するともいう(新編常陸国誌)。応永一五年(一四〇八)一月の那須岳の噴火のため、「那珂河硫黄五六年也」となった(神明鏡)。応仁二年(一四六八)一〇月、大田原を経て奥州白河へ向かった宗祇はおそらく現黒磯市
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
関東地方北東部を流れる川。幹川流路延長150km,全流域面積3270km2。栃木県那須岳西方に発し,支流の余笹(よささ)川,箒(ほうき)川などとともに那須山麓部に複合扇状地那須野原をつくりながら南東流する。ついで八溝(やみぞ)山地西麓を南流し,茂木(もてぎ)町域で八溝山地を横谷をなして貫きながら東流し茨城県に流入する。以後は南東流し,ひたちなか市で太平洋に注ぐ。八溝山地からの流出部は川沿いに浸食によって生じた奇岩がみられ,常陸嵐山と称される御前山の景勝地をつくる。下流には河岸段丘,自然堤防が発達する。最上流部の板室温泉の北には川をせき止めた深山(みやま)ダムがあり,このダム湖を下池とし,東の那須岳西麓の沼原(ぬまつぱら)調整池を上池とする揚水式発電所の沼原発電所(最大出力67.5万kW)が設けられている。那須野原は酸性土壌の乏水地域で,那珂川から取水する那須疎水の建設(1880-88)を機会に水田化が促進された。
那珂川の水は栃木県内では農業用水としての利用を主体とするが,茨城県内では水戸市,ひたちなか市など流域各地の上水道用水源となり,一部では工業用水としても用いられる。河川改修が不十分であった第2次大戦前は茨城県内でたびたびはんらんによる水害が起こった。河口部左岸に位置する那珂湊は,江戸時代から明治初年まで東廻海運の中継港であり,那珂川舟運によって下野(しもつけ)地方とも結ばれ,物資集散地としてにぎわった。現在も,沖合漁業を主体とする漁港が開かれているが,人工港建設によって河口港としての性格は弱まった。
内水面漁業では,上流から中流にかけてはアユ漁が盛んで,栃木県黒羽(くろばね)町(現,太田原市)や烏山町(現,那須烏山市)にはやな場が設けられ観光地にもなっている。また下流では産卵期にサケの遡行がみられる。河口近くで合流する涸沼(ひぬま)川下流の涸沼は,満潮時の海水流入により,汽水性の魚類生息地となり,釣客が多い。那珂川下流はかつて水戸藩城下町の外堀的性格をもち,古式泳法水府流の訓練地としても知られた。
執筆者:中川 浩一
栃木県東部,那須郡の町。2005年10月小川(おがわ)町と馬頭(ばとう)町が合体して成立した。人口1万8446(2010)。
那珂川町西部の旧町。那須郡所属。人口7168(2000)。那珂川中流西岸の低地と喜連川丘陵を占める。中心集落の小川は那珂川の河岸段丘上にあり,近世には河港が設けられて繁栄したが,明治以降は鉄道からはずれて衰微した。米作を中心とした農業が主産業で,近年は酪農や施設園芸が行われ,観光ブドウ園もふえている。駒形大塚古墳や那須官衙遺跡(ともに史跡)など古代の遺跡が多い。那珂川ではアユ漁が盛ん。
那珂川町中東部の旧町。那須郡所属。人口1万3831(2000)。那珂川東岸の支流武茂(むも)川流域から八溝山地西斜面を占め,町域の大半が林野である。中心集落の馬頭は武茂川段丘上にあり,古くは武茂郷といわれ,式内社建武山(たけぶやま)神社がある。近世初期,真言宗智山派馬頭院にちなんで名づけられ,水戸藩に属した。江戸初期に葉タバコ栽培が始まったといわれ,かつては大山田郷を中心に盛んであったが,1960年ころから急減した。1960年代から人口減少が続き,過疎地域に指定されている。江戸時代末期,水戸藩の指導で始められた小砂(こいさご)焼がある。玄室を屋根形に造り出した唐御所(からのごしよ)横穴(史)がある。国道293号線が通じる。
執筆者:千葉 立也
福岡県西部,筑紫(ちくし)郡の町。人口4万9780(2010)。北と西は福岡市,南は佐賀県に接する。南部は脊振山地によって占められ,中央部を那珂川が北流し,下流にあたる北部では谷底平野を発達させて博多湾にそそぐ。福岡都市圏の一角をなし,近年ベッドタウンとして急激な人口増加を示している。このため米,果樹の栽培,木材生産などを中心とする農林業は縮小しつつある。那珂川上流に筑紫耶馬渓(釣垂(つたる)峡),南畑ダムがあり,脊振雷山県立自然公園に含まれる。また,町内にある岩門(いわと)城跡は岩門合戦の舞台である。この合戦は霜月騒動の地方的波及の一つで,1285年(弘安8)武藤(少弐)景資が惣領経資に反乱し,この岩門城で敗死した事件である。
執筆者:松橋 公治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
栃木、茨城両県を流れる川。延長150キロメートル、流域面積3270平方キロメートルの一級河川。支流は栃木県側で余笹(よささ)川、箒(ほうき)川、荒(あら)川、茨城県側で緒(お)川、藤井川、涸沼(ひぬま)川など合計176をもつ。那須岳(なすだけ)(1915メートル)に源を発し、那須野原を流れて、八溝(やみぞ)山地の鷲子(とりのこ)山塊と鶏足(とりあし)山塊の間を峡谷状に横断、茨城県に入り沿岸に自然堤防をつくりながらひたちなか市と大洗町の境界で太平洋に注ぐ。中流(黒羽(くろばね)―小川)沿いは下野(しもつけ)国府より奥州白河(しらかわ)に続く古道にあたり、また那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)が残る。中世から水運が開け、近世には上り荷は海産物、下り荷は農産物の運送で活況を呈し、また、奥州南部から江戸へ送る米も運ばれた。明治・大正時代には那珂湊(なかみなと)―水戸間に汽船も運航した。上流は那須火山群と那須温泉や別荘地帯、中流は那珂川、益子(ましこ)、御前(ごぜん)山など自然公園地帯をなし、アユの簗場(やなば)とタバコ生産地帯、下流はゴボウの特産地で、涸沼川と合流する河口は水戸八景の一つ「岩船夕照(いわふねのせきしょう)」の景勝地である。また、サケの遡上(そじょう)がみられる。
[櫻井明俊]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…天然の良港を欠くこの水域では,砂丘を掘りこみ,外洋に突出する大防波堤を建設し,1969年に開港した鹿島港の造成に伴って鹿島臨海工業地域が形成された。古くから水運に利用された那珂川は栃木県境部分で八溝山地を横断し,水戸市街の北縁を流れて鹿島灘に流入するが,河水の汚染が少なく,サケが遡上し,アユ漁も行われる。県南地方には霞ヶ浦(西浦),北浦,外浪逆(そとなさか)浦などの湖沼が分布し,台地と低地が主要部を構成する。…
※「那珂川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...
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