都田御厨(読み)みやこだのみくりや

日本歴史地名大系 「都田御厨」の解説

都田御厨
みやこだのみくりや

現浜松市北部、都田町を中心とする地域に比定される伊勢神宮内宮領の御厨。「和名抄」所載の引佐郡京田みやこた郷を継承すると考えられる。戦国期には御厨の機能は失われ、史料には単に都田などとみえる。

仁安二年(一一六七)八月二五日の大中臣公宣申状(兵範記嘉応元年八月巻紙背文書)は「爰件都田御厨者、神領四十七箇先祖三代之領地也」とあり、成立は白河天皇の永保年間(一〇八一―八四)以前にさかのぼる。仁安二年当時、当御厨は在庁官人の訴えを認めた当任国司のために停廃の危機に瀕した。そこで伊勢神宮神官の大中臣公宣は、伊勢斎宮寮の中院造営の成功に応ずる代りに御厨の復活を願っている。その後の相論の様子は「玉葉」承安二年(一一七二)条などにみえ、同年閏一二月一三日条には「都田御厨事、件事、雖奏事由、無分明之仰云々」とあり、裁下は保留されている。この相論は元暦元年(一一八四)に決着した。同年三月一四日、源頼朝によって伊勢神宮領として安堵されている(吾妻鏡)。建久三年(一一九二)八月に作成された伊勢大神宮神領注文(神宮雑書)によれば、給主は神祇少副故公宣等子息であった。「神鳳鈔」によれば、上分の見作田が八九町あり、反別一斗の上分米が課せられていた。なお「神宮雑例集」では代米(上分米)一六三石五斗、運賃三七石七斗。また同書には遠江国の封戸五〇戸(本神戸・新神戸)について、都田御厨を便補所(便補保)としたとある。便補保とされる前から御厨として成立していたのか、「和名抄」にみえる京田郷が便補保に設定されたことを契機として御厨として成立したのかは不詳であるが、便補保都田御厨の成立は承暦年間(一〇七七―八一)を少しさかのぼる時期と推定されている(静岡県史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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