銀山城跡(読み)かなやまじようあと

日本歴史地名大系 「銀山城跡」の解説

銀山城跡
かなやまじようあと

[現在地名]安佐南区祇園町東山本・安古市町相田

太田おおた川下流西方武田たけだ(金山ともいう、四一〇・九メートル)にあった山城で、安芸国守護武田氏の居城中世文献には「金山城」と記されるが、近世には銀山城の表記が多い。県指定史跡。

甲斐国守護武田信光は承久の乱後、安芸国守護を兼ねたが、築城の時期は信光の時とする説もあり、「吾妻鏡」によれば信光は鎌倉に居住し、安芸には守護代を送っている。孫信時宛の文永一一年(一二七四)一一月一日付の関東御教書案(東寺百合文書)によれば蒙古襲来に備えて「早来廿日以前下向安芸、彼凶徒寄来者、相催国中地頭御家人并本所領家一円地之住人等、可令禦戦」とあり、これ以前は安芸にいなかったことが知れる。

銀山城跡
ぎんざんじようあと

[現在地名]福山市山手町 杢原

福山湾北側に連なる丘陵上に築かれた山城。応永年間(一三九四―一四二八)木梨杉原氏の一族が築城したのに始まるといわれ、以後山手杉原氏を名乗り、代々の居城であった。のちには木梨杉原氏の後裔にあたる匡信が当城に拠り、その子の理興は天文七年(一五三八)大内義隆の命により神辺かんなべ(跡地は現深安郡神辺町)を攻撃(三備史略)神辺城主となって山名氏を名乗った。その後理興が尼子方についたため大内・毛利両氏の攻撃を受け敗北、次いで弘治三年(一五五七)一族の銀山城主杉原盛重が毛利氏から神辺城主に任ぜられた(深安郡神辺町の→神辺城跡

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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