佐賀県北西部、東松浦(ひがしまつうら)郡にあった旧町名(鎮西町(ちょう))。現在は、唐津市(からつ)鎮西町(ちんぜいまち)地区で、市域の北西部を占める。旧鎮西町は1956年(昭和31)名護屋(なごや)、打上(うちあげ)の2村が合併して町制施行、町名に九州の古称を選ぶ。2005年(平成17)浜玉(はまたま)町、厳木(きゅうらぎ)町、相知(おうち)町、肥前(ひぜん)町、呼子(よぶこ)町、北波多(きたはた)村とともに唐津市に合併。旧町域は、東松浦半島の北部にあり、玄界灘(げんかいなだ)の馬渡島(まだらしま)、加唐島(かからじま)、松島をも含む。玄武岩の俗称上場台地(うわばだいち)が広がり、台地末端は急崖(きゅうがい)をなして溺れ谷(おぼれだに)の入り江などに臨む。深い入り江の名護屋浦には名護屋大橋、外津(ほかわづ)浦には外津橋が架橋され、国道204号が通り抜ける。壱岐(いき)、対馬(つしま)を経て朝鮮半島に至る最短コースの地で、中世松浦党(まつらとう)諸氏など倭寇(わこう)の拠点ともなり、さらに豊臣(とよとみ)秀吉は朝鮮出兵のため名護屋城を築き大軍事基地を敷いた。
台地は水源に乏しく打上ダムなどの建設が進むが、葉タバコ、スイカなどの畑作や柑橘(かんきつ)類の樹園地が目だち、酪農などをみる。海岸には名護屋などの漁港が点在し、「巻網」などの漁船漁業が盛んであったが、玄海水産振興センターもでき、近年ウニ、アワビの養殖などにも取り組む。波戸岬(はどみさき)や名護屋城跡などは玄海国定公園の中心の一つで観光開発が進む。名護屋城跡並陣跡(なごやじょうあとならびにじんあと)は国の特別史跡。広沢寺(こうたくじ)のソテツ、馬渡島や加唐島などで生息するカラスバトは、国指定天然記念物。馬渡島と松島にはキリシタンの伝統があり、カトリック教会がある。名護屋大橋はディビダーク式架橋で知られる。名護屋の「盆綱ねり」など年中行事に富む。
[川崎 茂]
『『鎮西町史』(1962・鎮西町)』
九州本島のほか、壱岐(いき)、対馬(つしま)、五島(ごとう)列島、甑(こしき)島などを含む九州地方の別称。743年(天平15)から2年間、九州地方を総督する大宰府(だざいふ)を「鎮西府」と改称したところから、この名でよばれるようになった。鎮西とは、西を鎮(しず)める(平定する)意である。そののちも、鎌倉幕府が九州地方を統治するために鎮西奉行(ぶぎょう)、鎮西談議所、鎮西探題などの機関を博多(はかた)に設置し、この呼称が定着していった。
[藁科勝之]
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… その間にあって,九州は長期にわたり畿内の勢力に対抗した政治勢力のあった地域であり,《日本書紀》天武天皇5年(676)4月14日条に,東国に対して西国とあるのを,石井良助は西海道=九州と解している。事実,743年(天平15)大宰府に代えて一時的に鎮西府が置かれてから,鎮西とも呼ばれるようになった九州をさす語として,平安末期以降,西国が用いられた例は少なからず見いだされる。鎌倉幕府においても,その初期には貞永1年(1232)閏9月1日の〈畿内近国幷びに西国の堺相論の事〉についての法令のように,畿内近国と区別された九州を西国といった事例がみられるのである。…
※「鎮西」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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