阿弥陀寺跡(読み)あみだじあと

日本歴史地名大系 「阿弥陀寺跡」の解説

阿弥陀寺跡
あみだじあと

[現在地名]近江八幡市北津田町

奥島おくのしま山の南斜面にあった寺院。現存しない。平安時代の初期に建立され、元亀二年(一五七一)織田信長の兵火により焼失したと伝える。元興がんごう(現奈良市)の賢和が奥島に堂舎を建立し、貞観七年(八六五)鎮護国家のため大島奥津島おおしまおくつしま神社の神宮寺とすることを申請し、勅許を得ているが(「三代実録」同年四月二日条)、これが当寺の草創とされる。その後、当寺は大島奥津島神社文書に散見し、常行堂などの堂舎が東谷・西谷・北谷に分れて置かれ、大島奥津島神社の鳥居梵鐘・神田などの寄進に応じた当寺僧の名などがみられる。

阿弥陀寺跡
あみだじあと

[現在地名]上野市界外 北浦

明徳二年(一三九一)の西大寺諸国末寺帳(奈良西大寺蔵)に「トモノヲ阿弥陀寺」と出る。西大寺文殊菩薩像騎獅子像納入の大般若波羅蜜多経第五〇巻奥書にも「永仁二年甲午七月廿三日伊賀国友生阿ミタ寺浄慶書了」とある。当寺跡西方の西光さいこう(天台真盛宗)には当寺の遺像と思われる木造観世音菩薩坐像・木造勢至菩薩坐像(国指定重要文化財)が安置され、藤原末か鎌倉初期の作と推定される。

阿弥陀寺跡
あみだじあと

[現在地名]富合町木原

山号は梅林山、寺跡は六殿ろくでん神社の表参道沿いの通称馬場小路ばばこうじとよばれる所の一画にある。県下でも数少ない時宗寺院の一つで、「国誌」によれば、寛元元年(一二四三)「相州藤沢其阿弥遊行上人開基之厥后」、弘長年中(一二六一―六四)「大檀那木原太郎盛実興基之」、五町八反を寺領として寄付したとある。六殿神社などと異なり、木原氏が檀那としてみえるのが注目される。廻江手永略手鑑に「相模国清浄光寺末寺時宗」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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