須賀川城跡(読み)すかがわじようあと

日本歴史地名大系 「須賀川城跡」の解説

須賀川城跡
すかがわじようあと

[現在地名]須賀川市本町・中町・宮先町・北町・諏訪町・加治町・弘法坦など

釈迦堂しやかどう川の氾濫原を見下ろす比高約二〇メートルの台地にある平山城。「要津院記録」に、元中年間(一三八四―九二)二階堂顕信の代に須賀川の城郭を改め町割を整えたとみえる。野川本「藤葉栄衰記」には応永六年(一三九九)関東公方足利満兼が奥羽支配のため遣わした弟満貞・満直の篠川ささがわ稲村いなむら両御所に従った二階堂治部大輔が築城、文安年間(一四四四―四九)二階堂為氏が下向し、治部大輔を攻め破り城主となり、以降直接当地一帯を支配したとする。「中古日本治乱記」には、応永二〇年四月伊達持宗・懸田定勝らが挙兵したことを関東公方に伝えた二階堂信濃守は須賀川の城主であったとある。「鎌倉管領所領役考応仁武鑑」では、治部少輔行続の遺子盛重を当城主とする。元亀三年(一五七二)七月二七日那須資胤の軍勢が攻撃し敗退しているが、このときの城主は高瀬伊勢守であったという(東州雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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