人間が習慣的に1日のほぼ決まった時刻に、生存のために主たる食物をとること。食事の時刻、回数、内容、食べ方などは時代や社会によって異なる。動物の採餌(さいじ)と異なり、むしろ文化的要素が色濃く反映する。祝事、祭事などの行事の際には、日常と異なる食物が異なった仕方でとられることが普通で、多くの民族で発達している。
現在、国際的には1日に朝、昼、夕の3食をとるのが普通で、これは、1日の昼の大部分を活動にあて、夜の大部分を休息にあてる、という社会の仕組みに対応したものである。したがって、同一の社会でも、地位、職業によって食事の時刻や回数が異なることが多い。
日本では古代には朝夕の2食であり、鎌倉時代の初めごろ、朝廷、貴族の間で3食となり、江戸時代に3食が一般化した。その移行の途中では朝夕の間に間食をとることが行われ、中食(ちゅうじき)、点心(てんしん)、勤随(ごんずい)、非食(ひじき)などと階層によって異なってよばれた。中国の農家では2食が普通とされる。インドでは正午以前と日没後の2食が主で、早朝と夕方、乳の入った茶を飲む。アラビアでもほぼ2食が普通である。ヨーロッパでは、古代ギリシアで1日3食、ローマ人も3食だった。中世に2食の時代を経て、食事時刻や回数はめまぐるしく変わり、現在のようにほぼ定着した。一般的にいって食事の回数は、時代、地域を通じて、貴族の回数は少なく、農民では多いといえる。
また、1日の食事には軽重がある。一般に夕食は多く、ゆっくりとだんらんを伴って食べられる。しかし、たとえばスペインなどのように、昼食を多く、時間をかけて食べる国もある。
食事は家族あるいはグループで、同時にともに食べる(共食)のが普通であった。食卓あるいはそれにかわるものに置かれた食物を囲むのが普通である。日本の銘々膳(めいめいぜん)のように個人的なものもあるが、これもともに食べるという意味では同様である。食事の体系としては、日本のように各自の料理の皿にすべての料理が初めから盛り付けられて食事が始まるタイプと、欧米のように主たる料理がそのまま食卓に置かれ、各自が取り分けるやり方とがある。前者は初めにすべての料理が配膳されるが、後者では料理が次々に卓上にもたらされることが多い。しかし、日本の場合も、もともとは食卓上で取り分ける形であったと考えられ、このほうが一般的といえよう。
行事の際には日常とは異なった料理がつくられ、異なった様式によって食べられる。たとえば日本で正月にほぼ全国的に食べられる糯米(もちごめ)は、おそらく古代に常食だったと考えられ、神祭りの際に神(祖神)への供物として用いられたものが定着したものである。それを人も頂くわけで、行事食には神(あるいはそれにかわる絶対者)との共食(神人共食)の意識が濃い。日常の食事にも神が意識されていることが多い。食事の前に料理や飯を神棚あるいは仏壇に供える風習はそのことを物語っている。
[大塚 滋]
日本人の食事の系統や変遷については、自然環境、生活様式、生産活動、社会などとの関連でとらえる必要があり、多くの問題点をもっている。資料的にある程度判明しているのは縄文時代以後である。縄文時代の貝塚や遺跡などから出土する食料のうち動物質のものは550種余りもあり、貝類(350種余)、魚類(70種余)、獣類(70種余)が比較的よく残されている。これらは地方色をもって出土している。獣ではイノシシ、シカが多いが、地方によってはクマ、カモシカ、サル、タヌキ、ウサギ、キツネ、アナグマなどもみられ、魚類では北海道でニシン、スズキ、三陸から関東にかけてマダイ、マグロ、カツオ、瀬戸内ではマダイ、サワラ、フグ、ハモ、九州ではサメも多くみられ、内陸部ではフナ、コイ、ナマズ、スッポンなども検出されている。貝類はアサリ、カキ、ハマグリなどを主体にして各地の自然環境を反映したものが残されている。
植物質のものは多くが消滅しているが、トチ、どんぐり、クルミが遺跡に比較的残っており、さらにウリ、イネ、ソバ、オオムギ、コムギ、ヒエ、アズキ、リョクトウ、エゴマなどが縄文時代末期までの遺跡から発見され、日本の主要な栽培植物はすでにこの時代には食料となっていたと考えられる。調理などの方法は、動物質のものは煮たり焼いたり、薫製にされたと考えられ、植物質食料は、石皿や磨石(すりいし)の存在から粉食も考えられる。さらに縄文時代の後・晩期には西日本でどんぐりを主体にする貯蔵穴がつくられ、デンプン質の食料が計画的に用いられたようである。
弥生(やよい)時代になって注目されるのは水稲作の定着・普及で、西日本では弥生中期から塩の生産も始まっている。塩の生産は、食生活の基本が植物質のものに変わり、食物の味つけが行われたことを意味している。これは農耕による食料獲得が中心となったことも示している。一方、この時代の食具では箸(はし)はみられず、木製のスプーンや杓子(しゃくし)が主体で、弥生末期になると画一的な高坏(たかつき)や碗(わん)形のものが増える傾向にあり、盛る食物の普及がうかがえる。米の調理法は、弥生前期から甕(かめ)形の土器の底に一つの穴をあけたものがあり、これで蒸して食べる強飯(こわいい)が行われたものとの説もあるが、この時代には雑炊(ぞうすい)的な食べ方をしたというのが有力である。強飯は甑(こしき)がなければできず、これが出現するのは古墳時代の後半である。
古墳時代前半までは住居址(し)内に炉がみられるだけで、後半つまり6世紀になると各地で竈(かまど)が出現し、同時に本格的な甑がみられるようになる。食具では弥生時代の遺跡からスプーン、杓子が出土しているが、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』では「食飲用籩豆(へんとう)手食」(食飲(しょくいん)には籩豆(へんとう)〈高坏のこと〉を用い手食す)とあり、手食いである。箸については『古事記』に、須佐之男命(すさのおのみこと)が川を箸が流れ下るのを見て、上流に人家があるのを知る条(上巻)があり、8世紀の初めには使われていたことがわかる。
古墳時代から中央集権化が進む奈良時代になると、各種記録や公共建造物址から出土する木簡(もっかん)によって食事の内容を知ることができる。『古事記』では稲・粟(あわ)・小豆(あずき)・麦・大豆、『日本書紀』では稲・粟・稗(ひえ)・麦・豆を五穀とし、穀類が主食・常食であった。稲(米)は、強飯(こわいい)、饘(かたかゆ)(今日一般的な炊いた飯)、粥(しるかゆ)(今日の粥(かゆ))、(こみず)(重湯のようなもの)、糒(ほしいい)(保存食)、焼き米にされ、副食物としては野菜類、魚、貝、海藻類、鳥獣の肉、各種木の実などがあった。酒の記録もあり、清酒(すみざけ)、濁酒(にごりざけ)、醴(こさけ)(甘酒)、白酒(しろき)、黒酒(くろき)、難酒(かたざけ)、糟(かす)などの種類がみえる。酢もつくられており、調味料類として醤(ひしお)、未醤(みそ)、豉(くき)(納豆(なっとう)のようなもの)など、加工品として鮓(すし)(馴(な)れ鮓のこと)、醢(ししびしお)(肉類の醤)、腊(きたい)(魚貝肉の干物)、楚割(すわやり)(魚干物)、堅魚(かつお)(今日の節類)や塩・醤・糟につけた漬物、蘇(そ)(乳製品)など多種のものができている。
食事の回数は日に2回(朝夕)が基本で、官人は政府から身分や労働内容に応じた食料(米など)が朝夕料などと称して支給された。この時代には食品の種類が多く、食事は豊かなようだが、記録類は官人・貴族のものであり、庶民の食事は『万葉集』などから考えると貧しかったようである。
平安時代も基本的には前代に変わらないが、記録上にみえる飯や粥の種類はさらに豊富になっている。強飯は「古八伊比(こはいひ)」(『倭名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)』)と訓じられ、これが正規のものとして天皇の供御(くご)や節会(せちえ)の宴にも出された。固粥(かたがゆ)は姫飯(ひめいい)ともいわれ、平安末期には正規の食事でも使われ始めている。宮中・貴族の饗宴(きょうえん)では坐礼(ざれい)、共卓式の場合があり、豊富多様なものが出され、菓子として中国から伝わった唐菓物(からくだもの)なども添えられている。饗宴では右手に箸、左手にスプーンというようにスプーンが同時に使われ、主客が皿を箸でたたいてから客が一斉に箸をとり、また食事を中断するときには飯に箸を立てるのが習わしとなっていた。
その後、食事のあり方に大きな影響を与えたのは武士の台頭と仏教(とくに禅宗)の普及である。武士の台頭により、貴族への貢納物が乏しくなり、貴族の食事は生鮮な食物が減った。鎌倉時代の末期には禅宗の普及とともに姫飯と粥がさらに一般的なものとなった。米の飯は室町時代にも強飯・姫飯が並行してあったが、前代からの姫飯の一般化に伴い、江戸時代になると現在とほぼ同様に姫飯が標準となり、強飯は儀礼用となっていくのである。鎌倉・室町時代にはこれとともに僧侶(そうりょ)による点心(てんしん)という精進(しょうじん)料理が発達・普及し、茶の飲用も広まった。うどん、そうめん、羊かん、豆腐が食べられるようになり、かつお節、かまぼこ、納豆、こんにゃくの製造も広まっている。鎌倉時代にはすり鉢やおろし皿も普及し、調理法がしだいに複雑となり、一方では料理の形式化が進んで、室町時代には今日のいわゆる日本料理の原型ができ、料理・飲食の作法がつくられていった。ここから本膳(ほんぜん)料理が発達してくるのだが、江戸時代になると多くの料理本が出版されるようになる。江戸時代には中国や南蛮料理の影響が加わり、武家・町人を中心にさらに調理法が発達し、江戸後期には町に料理屋が増えていった。また、この時代にはサツマイモが食料に加わり、重要な役割を果たした。その後明治時代には、これに洋食が大きな影響を与え、さまざまな変化を生んでいくのである。
[小川直之]
日本では朝夕の2回食を基本とした時代が長い。平城宮址から出土した木簡には「常食朝夕」と記されたものがあり、祝詞(のりと)には「朝け」「夕け」の語がみえている。室町時代の北条氏康(うじやす)の『武者物語』には「およそ人間はたかきもひくきも一日再度づつの食なれば」とあり、この時代も2回食が基本であったことがわかる。1日3回の食事は、鎌倉時代初めの有職故実(ゆうそくこじつ)書である『禁秘抄』(1221年成立)に、宮中で行われたことがみえているが、日に3回を常食するのが普及したのは江戸時代と考えられている。しかし江戸時代においても武士の禄高(ろくだか)は2回食を基本とし、1食は米2合半で1日5合を基準としていた。現在の朝・昼・晩の三度の食事のうち、昼食については、奈良時代の記録にみえる「間食(かんじき)」がもとになっている。当時は前記のように2回食が基本だが、激しい労働を行う官人や役夫には朝夕2回のほかに間食が給されたのである。これは、『日本霊異記(にほんりょういき)』などにもみえており、現在の昼食はもとは労働内容に応じて必要となったことがわかる。
鎌倉・室町時代には昼食を意味する「午餉(ごしょう)」という語が使われ、昼食をとるのが広まりつつあったようだ。しかし一方には前記の『武者物語』のような記述もあり、昼食が定着していたとは考えがたい。三度の食事が一般的食習慣となったのは江戸中期といわれているが、労働の激しい農山漁村では、この時代には3回食のほかに朝食前、朝・昼食の間、昼・夕食の間などに間食(かんしょく)として軽い食事をとるのも習慣化していたようである。間食は常食ではなく、通常、繁忙期に行われ、コビル、ケンズイなど各地にさまざまな呼称がある。コビルは小昼で、昼間の軽食という意味をもち、おもに東日本でいわれ、ケンズイは「間食」を呉音(ごおん)読みにしたいい方で、西日本を中心に分布するほか、各種記録にもみえている。
[小川直之]
日本人の食事の規範として重要なことの一つにハレとケの区別がある。ハレというのは祭礼、年中行事、人生儀礼など、改まったときのことであり、ケというのは日常、普段のときのことで、この時々によって食物・食具・食制を区別するという規範が古くからある。古代の諸資料ではハレの日の食事に関するものが多く、日常の食事については明確な資料がほとんどないが、江戸時代以降をみると、日常の食事は季節的な変化は多少あるものの、総じて変化の少ない、種類の乏しいものであった。主食は米と麦、粟、稗あるいは野菜類を混ぜて炊いたもので、これに1、2種の副食がつく程度であった。昭和初期までは粟や稗を主食料とする所もみられ、いろりなどを囲んで各自決まった場所で箱膳を用いて食べるのが一般的で、食料の配分は主婦の重要な役割であった。
これに対しハレの日の食事は、日ごろ食べない魚や肉、変わり物を食べた。米だけの飯、餅(もち)、団子、粢(しとぎ)、強飯(赤飯)などを中心にした食事で、飲酒もハレの日に限られていた。全国どこでも米が常食となったのは第二次世界大戦以後のことであり、それ以前は米はハレの食料とするのが一般的だった。ハレの日の食物は、それぞれの日につくるものが決まっているのが普通で、日常とは違って共食者がいたり、そのときの食物を贈答したり、さらに特別の膳・椀(わん)などの食具を用いるのが特色である。直会(なおらい)は神と人間との共同飲食を示すことばであり、節供(せっく)は節日に特別な食物を神に供するという意味をもっている。
[小川直之]
原始社会においては、食事に関することはすべて男性の仕事であった。それは宗教的儀式はすべて男性によって行われ、女性は生殖と豊饒(ほうじょう)に関する種々の行事と予言者や神託を告げる巫女(みこ)といった役割以外は、宗教活動の外に置かれていたからである。料理についても同じで、「燔祭(はんさい)」の支度では女性は排除されていた。この「燔祭」は形だけのいけにえで、神々に食物を捧(ささ)げるわけである。古代ギリシアの詩人ホメロスの記述などでは、王でさえ自分の食事をつくることを恥とは考えていなかったようである。
エジプトやバビロニアの主食は小麦、大麦を使った。まず臼(うす)と杵(きね)で精穀し、次に、石皿にローラー状の石を手で往復させて粉に挽(ひ)き、窯(かま)で焼いてパンをつくった。粘土製のパン焼き窯の内壁に生パンを張り付けたり、盆の上にのせて焼いた。このパンにはイーストは入っていなかった。彼らは麦粉に、蜂蜜(はちみつ)、牛酪油(水牛の乳のバター油)、ごま油、ミルクを加えて練り、粉菓子やケーキをつくった。副食には、野菜類としてソラマメ、エンドウ、キュウリ、キャベツ、レタス、ダイコン、チシャなどを食べ、タマネギ、ニンニクなどを薬味とし、果物には、ナツメヤシ、イチジク、ブドウ、ザクロ、ナシなどがあった。またナツメヤシで酒もつくった。ヒツジ、ヤギ、牛の乳は、だいたいヨーグルトやチーズにした。肉類としては魚と水鳥の肉が食用にされ、紀元前1500年以後は牛肉も食べた。野菜、果物は生食か、調味料を加えて煮るかして食べた。魚は塩漬けか日干しにし、鳥は羽をむしり、普通は串(くし)に刺して焼いた。食品を貯蔵するには乾燥、塩漬けの方法が広く用いられた。
エジプトでは小さなテーブル1卓に1人あるいは2人ずつで食事をしたが、子供たちは床に置いたクッションに座らされた。朝食は家族そろっての食事ではなく、夜の断食を終えて1人で静かにとるのが普通だった。エジプト人はスプーンやフォークも用いたと思われるが、たいていは指を使って食べた。
古代オリエントでは、砂糖にあたるものはなく、甘味料としてもっとも珍重されたのは蜂蜜であった。そのほか、ブドウ、ヤシなどの果汁が甘味料として、また甘味飲料として用いられた。油脂としては、レタス油、あまに油、ごま油などが用いられた。ウシ、ヒツジ、ヤギなどの家畜の乳および油脂もよく知られ、酪農品として、牛乳、チーズのほか、バターは油として用いられた。酢もわずかではあるがサラダのドレッシングや貯蔵用に用いられた。当時もっとも愛飲されたアルコール飲料はビールで、その起源は先王朝時代(前5000~前3000)にさかのぼる。原料は大麦と小麦である。ビールのほかには発酵果汁としてワインとやし酒があった。階級によって食習慣、食器がまったく違い、王侯、貴族たちの大宴会には、アヒルやクジャクのロースト、それにビール、ワインなどが並べられた。
[青木英夫]
古代ギリシアの主食は少量のパンと小麦、大麦の粥(かゆ)であった。副食としては野菜、肉類、薬味があった。料理は、おもに焼いたり蒸し焼きにしたものであった。ギリシアでは貧富の差が激しく、貴族は好んで肉食をしたのに対して、平民は菜食であった。パンは高価であったので、手に入らない平民は、小麦粉に塩と蜂蜜と油を混ぜた粥をすすっていた。当時、屋台があって、そこでごく簡単な料理が売られた。平民はそこで買ったものを持ち帰った。
ホメロスの記述によれば座って食事をしたが、時代が下るにしたがって横になって食事をするようになった。果物、野菜にはブドウ、イチジク、ソラマメ、エンドウ、キャベツ、タマネギ、キノコ類などたくさんの種類が知られ、スープも一般によく飲まれた。魚貝類としては、カキ、サメ、イワシ、ニシン、マグロ、ウナギなどが好まれた。鳥類はウズラ、ツグミ、それに鶏卵が食卓に上り、獣肉ではブタ、ヒツジ、ヤギ、ウサギなどの肉を食べ、山地ではこれらを塩漬けにしたものが用いられた。ウシとウマは労役と軍用にあてるため食べなかった。牛乳は飲まず、ヤギとヒツジの乳を飲んだ。
ギリシアの饗宴(きょうえん)はもっぱら男性だけのものであった。たいてい個人の家で開かれた。客はその家に着くと、まず履き物を脱ぐ。奴隷が客の足を洗い、さらに手洗い用の水が入った鉢を手渡す。それから客は1人あるいは2人用の臥台(がだい)に招かれる。臥台には、もたれかかるための縞(しま)模様の枕(まくら)が置いてあり、傍らに低いテーブルがあって、その上に料理が並べられた。食事のあと、女たちが到着し、それとともに酒宴が始まる。ワインは水で割って飲み、また海水で割って飲むこともあった。
上流階級の食事は日に3回で、夕食には客を招いた。ハム、ソーセージ、干し肉、生魚などで食卓を飾った。ナイフ、フォーク類は用いず、指でつまんで食べた。汚れた指はパンくずでぬぐい、これをそばの犬に投げ与えた。
[青木英夫]
ローマ人は、ギリシアの影響を受けるまでは料理は卑しい仕事とみなしていた。ギリシアの影響を受けると、料理に対する態度を変えた。ローマ人はワインに浸したパン、それにタマネギと、ヒツジかヤギの乳からつくったチーズとで朝食をとった。11時から正午にはパンと果物、それにチーズを食べた。主餐(しゅさん)は夕方5時から6時ごろで、金持ちほど食事の時間が遅かった。前200年ごろから専門の製パン業者も現れた。
平民は小麦粉かソラマメの粉でつくった粥を食べ、ときにはパンに蜂蜜やワインをつけ、生野菜や果物を添え、牛乳やチーズを食べた。アレクサンドロス大王の東方遠征によってサトウキビが知られてからは、パンにサトウキビのシロップをつけて食べることが行われるようになった。ローマ人は魚類はあまり食べなかったが、マスは上等な食品とされた。今日のアンチョビー・ソースとして用いられているものが、魚の肝臓だけからつくられた。料理にワインを使うときは、まず、ワインを煮つめてから料理に加えた。また、マリネの漬け汁は、特別製のワイン、酢、蜂蜜、塩水、こしょう、数種の香味植物とスパイスでつくられた。
ローマの食堂では、コの字型に配置された臥台の真ん中に主人が横になり、そのわきに1人かあるいは数人の賓客が並んだ。それから女主人とおそらくは女性の親族が加わり、全部で9人あるいはそれより少数で晩餐(ばんさん)をとった。食事は各コースとも、テーブルに並べられ、ついでそのテーブルが食堂に運び込まれて、コの字に開いている端から差し入れられた。食事が終わると、そのテーブルは下げられ、入れ替わりに次のコースがあらかじめ並べられている別のテーブルが差し入れられた。ワインは食事中に給仕によってつがれた。食事が全部終わると音楽家や遊女たちが宴席に加わった。
[青木英夫]
中世に入ると、食物は地域や時代によって変化し、味覚や食習慣もしだいに変わっていった。808年のフランク国王カール大帝の勅令には、レタス、クレソン、エンダイブ(キク科の野菜)、パセリ、チャービル、ニンジン、ポロネギ、カブ、タマネギ、ニンニクなどは皇帝の菜園以外では栽培してはならないことが記録されている。カール大帝の食卓は、長い樫(かし)の厚板で、一定の間隔にくぼみがついていたといわれている。このくぼみは個人専用の鉢となり、じかに食べ物を置いた。人々はそこから食べ物を両手を使って食べたのである。
庶民の常食はおもに菜食、粗食で、普通2食であった。朝食はスープ、夕食は粥に魚類と野菜で、肉は高価なため1週一度以上は食べられなかった。牛乳、ビール、ワインなどの飲み物はほとんど金持ちだけに限られていた。漁業が発達するにつれ、乾燥や塩漬けにされたニシン、タラ、サバ、サケ、カニなどが食卓に上るようになった。13世紀には、ベーコン、牛肉、豚肉、鶏肉、卵などが加わり、14~15世紀になると、羊肉、ヤギ肉なども食べ始めた。貧乏な人は常食として安価なキビやソバ、あるいは麦に野菜を混ぜた料理を食べ、小麦パンやチーズ、牛乳は上等食であった。
13世紀、ノルウェー王は配下の粗野で乱暴な族長たちやその息子たちに、マナーを教えようとした。彼は「食卓での会話は、話している2人の両横に座っている人には聞こえないように低い声にすべきである」といっている。
15世紀ごろからは庶民の常食もしだいによくなり、クリスマスには上等な白パンと一盛りの肉を食べ、酒が飲まれるようになった。当時宿屋やレストランも兼ねていた修道院では、卵、チーズ、小麦パン、ビールが一般農民にも出された。オリーブ油は金持ちたちが使い、庶民は菜種油、牛脂、豚脂などを使用した。バターも大量に生産された。甘味料は蜂蜜で、砂糖はあまり普及していなかった。飲み物はビール、ワインのほか、ブランデー、リキュール、りんご酒が現れた。
王侯、貴族の祝宴では大量のワインやビールとともに、豪華な食物が消費された。ツル、クジャク、ハクチョウなどの珍しい鳥のほか、クジラ、イルカなども食卓に並んだ。子豚の腹にクリやアーモンドを詰めた料理やビーフシチュー、マカロニなども宮廷では出された。
[青木英夫]
近世のヨーロッパ人は、地域と階級によってまだ大きな相違があった。たび重なる戦争によって食物は不足したが、庶民の栄養はしだいに改善されていった。16世紀では食事は一般に2食で、午前10時から12時ごろまでと、午後4時から6時ごろまでの2回であった。食卓の上には木製か銅、ときには銀の皿に料理が盛られた。内容的には中世とあまり変化はなく、鮮魚、塩蔵魚、乾燥魚が普通の食品となり、とくにニシンが多く食べられた。ミルクも普及したが、バターは金持ちだけであった。
17世紀になると、フォーク、取り皿という食器と、ジャガイモが現れ、テーブル・マナーと食習慣が大きく変化した。フォークはイタリアで早くから用いられており、17世紀のなかばごろからフランスなどでも用いられるようになった。コースごとに皿をかえるのはパリのサロンであったオテル・ド・ランブイエからだといわれている。さて、パンはライ麦にかわって大麦が用いられるようになり、小麦パンはぜいたく品であった。バターも普及し、農民の常食として牛乳と豚肉の量も増えた。金持ちは牛肉、羊肉、塩漬けの魚、ニシンあるいは小イワシなどを食べた。17世紀末になると、個人専用のスープ皿を使うようになった。ジャガイモは1570年以前にアメリカ大陸からスペインに伝えられた。フランスでは1661年にシャンパンがつくられ、夕食後にデザートを出すようになった。
[青木英夫]
18世紀になると、上質のパンとともにジャガイモが常食として食べられるようになった。チーズと牛乳が大量に消費されるようになり、塩蔵肉もさらに普及した。魚のバター焼、ムニエルはこのころ始められ、ルイ14世が好んだといわれている。魚類、鶏卵、果実も大量に食べられた。砂糖が甘味料として用いられ、茶、コーヒーも18世紀なかばにヨーロッパの家庭に入り、1770年ごろパリで初めてアイスクリームが出現した。宮廷料理も盛んになり、外交官、貴族たちはソースに自分たちの家の名をつけた。たとえばスーピースソース、ベシャメルソースなどがそれである。
19世紀になると、ロンドンやパリにレストランが現れ、そのためテーブルマナーも発達し、各レストランではそれぞれの料理を考案するようになった。ベリVeryはパリのパレ・ロワイヤルにル・バレリ・デ・レストラン・エ・ル・レストラン・デ・バレを開店した。ナポレオン3世時代にはル・カフェ・リッシュ、ル・カフェ・ドゥ・パリなどがあった。それによって食生活が向上するとともにテーブルマナーが発達した。
[青木英夫]
すでに殷(いん)以前から農業が始まっており、殷・周時代には粟(あわ)、キビ、麦などの穀物と獣肉が食べられていた。漢代になると主食として粟がもっとも多く食べられ、ほかに大麦、小麦、キビ、米などの穀物、豆類、いも類、ウリ、ネギなどの野菜、クリ、モモ、ミカンなどの果物、水鳥、魚、ヒツジ、ブタの肉が食用に供せられた。とくに華北では粟、東北ではコウリャンが常食となり、後漢(ごかん)時代から小麦粉が現れ、粉食が始まった。粟、米などは粒食で、甑(こしき)に入れて蒸して食べた。宋(そう)代になると、食生活も向上し、料理屋が現れ、豚肉料理を主体とする今日の中国料理のもとができあがった。麺(めん)類食品もさまざまな種類が考案され、ときには鮮魚も食べられ、唐から宋にかけて、茶を飲む風習が全国的に広がり、サトウキビも栽培された。塩、酒は専売であったが、これも広く消費されるようになった。明(みん)・清(しん)代になると、華中から華南にかけては米を主食とするようになったが、一般には雑穀にいもや豆を混ぜた雑穀食が多かった。調味料として各種の植物性油を大量に用いた。その後今日に至るまで、南方では炊飯と粥(かゆ)の米食、北方では麦、トウモロコシ、粟、コウリャンなどの雑穀食を常食とし、貧富の差によって食物も大いに違っていた。農村では普通2食で、一般に男女別に食事をする風習があった。
朝鮮では古くから米を主食とし、副食には野菜、魚を用いた漬物を食べた。香辛料として唐辛子、ニンニクをよく使用し、男女別に食事をするのが習わしであった。
[大塚 力]
インドでは一般に宗教的戒律が厳しく行き渡り、大半を占めるヒンドゥー教徒には精進(しょうじん)食をとるものが多い。牛を聖牛としているので牛肉を食べることは厳禁されていた。しかし今日では、上流階級においてはしだいに肉食になる傾向を示している。朝食は牛乳などの飲み物ですませ、昼食はカレーで味をつけた野菜と米飯を食べ、夕食を正餐(せいさん)とし、ギーという油と牛乳を固めたもの(カード)をかけた野菜を右手でつまんで食べる。米飯のかわりに米粉でつくった餅(もち)を食べることもある。暑熱の国であるため食物に強い香りと味をつける独特の香辛料としてカレーが考案されたことは有名である。食後に香料入りの青い葉を食べて口を清める風習がある。
[大塚 力]
東南アジアの諸国も一般に米食民族で、日本と同じように炊き上げた飯を食べる。イスラム教徒の多いインドネシアでは豚肉を食べないが、一般に鳥肉、スイギュウ、ヒツジの肉を使った揚げ物や煮物や焼き鳥風の料理が食べられる。香辛料がとくに発達し、豊富に用いられ、またやし油などがよく用いられ、特産の果物を大量に食べる。
[大塚 力]
イスラム諸国ではムハンマド(マホメット)時代から今日まで食生活に大きな変化はない。1日2食が普通で、夕食が正餐であり、昼食はラクダの乳を飲むくらいで、朝食も飲み物ですませ食事らしいものをとらない。ナツメヤシや野菜を常食とし、ときにラクダ、ヒツジ、ヤギの肉をとるが、プラオという米料理とともに御馳走(ごちそう)であった。豚肉は禁じられ、そのほか、ひづめの割れていない獣の肉も嫌われた。一般に左足を折って座り、右足を立て膝(ひざ)にし、左手を不浄として右手で食事する風習である。
[大塚 力]
食事のもつ意味のなかでは、栄養も重要なものの一つである。生命を維持し、健康であるためには、食事の栄養は欠かすことのできないものである。もし、栄養を無視して食事を続けていると、栄養障害や疾病の原因となる。このため、食事ではつねに栄養のバランスを考えなければならない。栄養のバランスをとるためには、いろいろの方法が考えられ、提案されているが、食品をいくつかの群別に分け、これらの群に属する食品をできるだけ広く、またまんべんなくとることがよいとされ、食品の分類法としては3群、4群、6群などに分ける方法がよく使われてきた。2000年(平成12)心身ともに健康な食生活を実現させるために「食生活指針」が策定された。その具体的な方法として2005年に「食事バランスガイド」が策定された。その方法では食品群ではなく、主食、副菜、主菜、牛乳・乳製品、果物の料理区分に分け、1日分の食事バランスのとり方を示している。
食事が疾病の原因となることは、反面、疾病の予防や治療にも食事が重要であるということである。近年は治療の目的でつくられる治療食の研究も盛んとなってきている。この場合とくに重視されるものは、食事中に含まれる栄養素の量や配分などである。また集団での食事、たとえば学校給食や産業給食なども、栄養面を重視した食事である。とくに学校給食では、食事の栄養基準が示され、それに従って食事がつくられている。この場合、食べ物や栄養、健康を考える食育とともに、皆がいっしょに同じものを食べるという好ましい人間関係の育成が考えられている。
[河野友美]
日本の場合、元来共通性の要素の強かった食事が、多様性をもつものに変化してきた。その変化は第二次世界大戦後の日本の高度成長期がきっかけになっている。生活様式の変化、外来の新しい料理の移入などが、各種の料理を食事のなかに多く入れることになった。その大きな原動力になったものの一つは脂肪摂取量の増加があると考えてよい。脂肪摂取量は、明治から第二次大戦後に至るまでほとんど大きな変化はみられなかったが、1960年(昭和35)ころを境にして急速に増加した。また時を同じくして、肉類の摂取量の増加と、反面、米の摂取の減少がおこった。この急速な変化は、1975年ころまで続いた。結果として外来の料理形態や外部化(外食、加工食品、市販総菜などの利用増加)が食事のなかに大幅に取り入れられることになった。
日本の食事に大きな変化が現れた理由としては、高度文明生活の伸展とともに、都市への人口集中があげられる。また人口増加により、生産よりサービスや消費などの第三次産業が経済の主体となってきた。このような社会形態から都市の巨大化が必然的におこり、その結果、いままで生産地に近い所で消費されていた食品類が、遠距離に運ばれるとともに、供給の安定上保存も必要となった。しかし、鮮度のよい食品は減り、料理形態を変えないと味のよい料理が食べられなくなった。また大量消費を支える大量生産が進み、畜産物では肥育が、魚では養殖が、野菜では促成などが盛んになり、在来の日本型料理形態ではあわなくなった点もあげられる。食の国際化も進み、その結果、脂肪分や香辛料などを多く取り入れた料理が食事の中心になってきたと考えられる。
[河野友美]
未来の社会状態は、人口の世界的増加傾向、食糧供給の逼迫(ひっぱく)などがつねに存在すると思われる。したがって、食糧材料確保のために、ますます工業化された食品の供給に頼らざるをえなくなるとみてよい。バイオテクノロジーが食糧供給上重要なものとなることは必至で、いままでとは異なる感覚の食品も生まれることが考えられる。
このような背景下では、世界の食事が互いにクロスオーバーし、ますます国籍不明の料理が増し、それの取り入れられた食事が日常化するものと思われる。もちろん、各地域ごとの個性のある食事形態も残っていくとは考えられるが、それは特別の日に食べる行事食となる可能性が強い。また、労働形態の変化も大きく、それに伴う食事形態の変化も考えられる。料理作りにかける時間の短縮が要求され、調理食品の利用増加や、外食などの食の外部化がますます高まると考えられる。
一方、ただ食べて、体力が維持できればよいといった形の食事は、心理的不満が伴ってくる。食生活が原因とみられる心理上の疾病が問題視されているが、その解決策の一つとして食事のパーティー化があげられる。食事に出される料理は画一化された工業製品であっても、飲み物で変化をもたせ、談笑して楽しむことが食事であるという形態である。しかしパーティー化できない食事にあっては、個々に食事をする孤食・個食化が進み、二面性をもつ食事がこれからの姿であると思われる。また、生活習慣病を予防し、より健康的な食事に対する必要性も大きく、食事関係のビジネスが多様化するであろう。
[河野友美]
『酒詰仲男著『日本縄文石器時代食糧総説』(1961・土曜会)』▽『青木英夫・大塚力著『食生活史』(1964・至文堂)』▽『瀬川清子著『食生活の歴史』(復刻版・1968・講談社)』▽『関根真隆著『奈良朝食生活の研究』(1969・吉川弘文館)』▽『「食物と心臓」(『定本柳田国男集14』所収・1969・筑摩書房)』▽『宮本馨太郎著『めし・みそ・はし・わん』(1973・岩崎美術社)』▽『桜井秀・足立勇著『日本食物史』上下(復刻版・1973・雄山閣出版)』▽『K・スチュワート著、木村尚三郎監訳『食と料理の世界史』(1981・学生社)』▽『日本家政学会編『家政学シリーズ8 食生活の設計と文化』(1992・朝倉書店)』▽『石毛直道・鄭大聲編『食文化入門』(1995・講談社)』▽『石毛直道監修『講座 食の文化』1~7(1998~1999・味の素食の文化センター、農山漁村文化協会発売)』▽『遠藤金次・橋本慶子・今村幸生編『食生活論――「人と食」のかかわりから』改訂第2版(2003・南江堂)』▽『ブリュノ・ロリウー著、吉田春美訳『中世ヨーロッパ 食の生活史』(2003・原書房)』▽『沼田勇著『日本人の正しい食事――現代に生きる石塚左玄の食養・食育論』(2005・農山漁村文化協会)』▽『大塚滋著『食の文化史』(中公新書)』
一般に食事とは,外界から食物を体内にとり入れることによって,生命を維持し,活動や成長に必要な栄養分を補う行為であると考えられている。しかし,食物を摂取して新陳代謝をおこなうことは,すべての動物に共通する現象でもあり,それは栄養学や生理学の次元における食事行為である。人類の食事の特徴は,文化的行為をともなう点にある。動物の食物摂取は,外界に存在する食物をそのまま体内にとりこむことであり,いわば環境と口が直結している。それに対して,人類の食事の対象物は自然の産物をそのまま食べるだけではなく,そのままでは食べられないものを加工することによって食べられるものに変化させたり,より食べやすくするために料理する。すなわち,環境と口のあいだに料理や食品加工の技術体系--文化が介在するのである。また,人類は本能のおもむくままに食べるのではなく,それぞれの文化によって異なる価値観にしたがって,食物の種類を選択したり,料理法や食卓作法を異にしたり,断食をおこなったりする慣習がある。これらの食事行動のちがいも文化の問題に帰するものである。食品加工や料理と食事行動にまたがる分野としては,食器類の製作と,その使用法に関する問題などもある。人類の食事文化のうち食品加工や料理については他の項目にゆずり,ここでは主として人類の食事行動を中心に考察することにする。
→食品 →食器 →料理
動物は特定の集団の成員のあいだで食物を分かちあって共に食べることはせず,個体単位に食物を摂取するのが原則である。集団で狩猟をする肉食獣が大型の獲物にむらがって食べることが観察されるが,それは一見食事を共にしているようであっても,食物を分かちあって食べているわけではない。巣立つ以前の小鳥の雛に親鳥が餌を運ぶことが知られているが,それは親子関係以上に拡張されないし,一時期のあいだのことであり,雛が成長すると個体単位に摂食行動をすることになる。動物においては成熟した個体は自分で食物をさがしだし,自分だけで食べることがふつうのことになっている。それに対して,現実にはさまざまな事情により1人だけで食事をすることも多いが,原則として人類の食事は1人だけで食べるのではなく,特定の集団の成員間で食物を分かちあいながら共食をすることがふつうである。すなわち,人類の食事は個人的行動ではなく社会的行動である。文化の別をこえて,人類に普遍的な共食の基本的集団単位は家族である。家族という集団は,特定の男女間の持続的な性関係の維持と,その間に生まれた子どもの養育をめぐってなされる食料の獲得と分配に関する経済単位として成立したものと考えられている。そこで,食事を共にすることが家族の連帯を象徴する手段となり,日本では家族のなかの不在者で,食事を共にできない者には,陰膳を供えることや,仏壇や神棚に食物を形式的に供えることによって,神仏となった祖先と象徴的に共食する習慣も近ごろまでおこなわれていた。
共食が家族の連帯の象徴となるように,さまざまな集団においての連帯感を強化する手段として共同飲食がなされ,共同労働や祭りなどの行事にさいして,一時的に形成された集団において食事を共にすることは世界各地でおこなわれる。それは,食物が人類にとってもっとも基本的な交換財であるために,食物が人々の社会関係を調整していく手段として利用されてきたことを意味する。そこで,他人に好意をしめし,もてなすために,飲食を提供することがおこなわれてきた。
いっぽう,本来的な共食集団から一時的に離れて食事をしなくてはならない人々の集団のために,一括して食事を用意し,共食させる集団給食がある。軍隊,職場,病院などにおける給食がその例である。
→宴会 →学校給食 →給食 →共食
食事を円滑に進めるためには,食事を共にする者どうしの相互干渉を調整するための決りが必要である。食事をするにあたっての決りを儀礼化したものが食事作法である。食物の種類,公的食事か私的食事かなどの食事の場の性格,使用する食器の種類,食事に参加する者の社会的地位や年齢や性別などに応じて,ふるまうべき食事作法というものが定まっている。それは,それぞれの社会において長い歴史的経過をへて形成され,その社会の精神文化,そのうちでもとくに宗教の影響が強く,複雑な様相をしめしていて,一概にのべることが困難である。ここでは,すべての社会に共通する人類の食事作法の起源についてのべておく。
共食における相互干渉のあつれきの生じる最大の原因は,食物の分配をめぐってである。食事作法の根源は,食事のさいにおける食物の分配を円滑にするためのルールに発するものと考えられる。どの社会においても,他人の食べようとしている食物を横取りすることは非常な不作法とされている。そこで逆に,あえて不作法をおこなうことが可能な間柄である親子,恋人どうしなどで親愛の情を表現する手段として,口をつけた食物のやりとりがおこなわれることがある。
他の者にとっては食用可能なものが,特定の集団に所属したり,特定の状況にある者にとっては,社会的規制によって食用が禁止されているといったさまざまなタブーがある。それらのタブーを破ると社会的制裁をうける場合もあるが,超自然的な力による罰をうけると信じられていることも多い。特定の食物が禁止されるだけではなく,文化によっては肉料理でも焼肉を食べることだけが禁止されたり,別の文化では煮た肉の料理法が禁じられるといったように,特定の料理法が禁止されることもある。また,すべてのイスラム教徒にとっては豚肉の食用がタブーとされるように,社会全体に共有されるタブー,日本の仏教の僧侶が飲酒や肉ばかりではなく魚の食用も禁止されていたように,特定の職業や集団に所属する者が守らなくてはならぬタブー,幼児期,月経や妊娠中の女性,服喪中の者など特別の時期において,食べてはならぬとされる食用タブーもある。日本でも過去には,月経や出産,服喪の状態にある人は,ふだんのかまどを使用せず別の火で料理した食物をとり,居所も隔離する風習があった。後でのべるように,食事タブーには宗教と結びつくものも多い。
タブーとされる食物には,植物性の食物よりも動物性の食物のほうが多い。それは,人類にとって植物よりも動物のほうが,近縁な存在で感情移入がしやすく,好き嫌いがはっきりしているためであろう。殺生を禁じるといった宗教的イデオロギーによって発生したタブー,衛生観念にもとづいて不浄とされる動物を忌避するタブーなど,食事タブーの起源についてはさまざまな理由が考えられるが,多くのタブーはその起源が不明である。合理的に説明可能な起源をもつタブーであれば,論理の修正をおこなうことによってタブーでなくすることができるが,非論理的なものであるからこそタブーとして残りつづけたのである。タブーを共有しない者からはタブーは偏見のかたまりのように考えられがちである。
これらの食事タブーのはたしている重要な機能は,タブーを共有する集団の連帯を強化する役割をもっていることである。食事に関する同一のタブーを守る人々は,潜在的に共食集団を形成しうるのである。
神話的祖先とかかわりをもつとされるトーテムの動物を食用とすることが禁じられたり,宗教行事にさいして神への犠牲としてささげた動物を共食するなど,原始的宗教においても食事に関する観念に宗教が強い影響をあたえている。宗教行事において,神前にささげた食物や神酒を行事に参加した者どうしで共同飲食をして,神人共食をすることにより,神とのコミュニケーションをはかることも,原始宗教ではよくおこなわれた。日本の祭りにおける直会(なおらい)はその例であるし,カトリックのミサにおいてキリストの肉を象徴するパンと,血を象徴するブドウ酒がもちいられるのも,人類の罪をあがなうための犠牲獣にキリストをなぞらえたものである。
精神状態に強く作用するアルコール性飲料は,宗教行事と深いかかわりをもっている。人々が酩酊(めいてい)することによって日常的な人格を脱し,非日常的なふるまいをする場には,日常的世界ではかいま見ることができない神が降臨して,神人一体の境地を体験することが可能である。古代地中海のディオニュソス(バッコス)の祭りは,酩酊によって日常的秩序を一時的に破壊したところに聖なる場を出現させようとする性格をもつものであったし,日本でも祭りの酒は,酔いしれるまで飲むものとされる伝統があったのも,聖なる酩酊の観念に通じるものであろう。
宗教行事の本質は,神と人間がコミュニケーションをおこなうことであり,そのために神に近づく者は現世的欲望から遠ざかった穢(けがれ)のない状態であることが要請される。みそぎもその手段の一つであるが,心身をより清める手段として,断食や特定の食物を断つこともおこなわれる。
一般に高等宗教になると,高度の抽象性をそなえ,食事という即物的な行為から遠ざかる傾向があるが,それでも世界の巨大宗教は信者たちの食事に対して,いまなお影響力をおよぼしており,食事の前後に神に祈りをささげたり,宗教行事にともなう行事食を食べることが一般的な風習となっている場所も多い。仏教圏のなかでも,日本では殺生を禁じる戒律が強調され,奈良時代以降,しばしば肉食が禁じられ,明治時代になるまでは獣肉食がふるわなかった。朝鮮半島もおなじく仏教により肉食を禁じられていたが,遊牧民のたてた王朝である元の支配下において肉食を復活した。中国は仏教と道教が伝統的宗教であったが,食物に対する宗教的規制はゆるやかで,一般の民衆は特定の日に生ぐさ物を食べずに,素菜(そさい)といわれる精進料理ですごす程度で,日常の食生活にはほとんどの食品を食べることが許されていた。インドのヒンドゥー教徒は聖獣であるウシを食用としないことが知られているが,輪廻転生の観念にもとづく殺生戒を守り,肉食をいっさいおこなわない菜食主義者が人口の多数を占めている。イスラム教徒はコーランによって禁じられた豚肉,動物の血液などがタブーであり,飲酒も好ましからぬこととされ,イスラム教徒が祈りを唱えながら,のど首をかき切って屠殺(とさつ)した動物の肉だけが食用として許されている。イスラム暦の第9月はラマダーンとよばれる断食月にあたり,日の出から日没のあいだ健康な成人男女はいっさいの飲食物を口にすることは許されず,食事は夜間にかぎられる。旧約聖書を聖典とするユダヤ教の食事タブーには,イスラム教と共通するものが多い。ひづめが分かれていず,胃袋で反芻(はんすう)することをしない動物の食用が禁じられているので,ブタやウマを食べることは許されないし,うろこ,ひげのない魚であるエビ,カニ,イカ,タコもユダヤ教徒は食べてはならない。動物の料理のしかたにもおきてがあり,ミルクや乳製品と肉をまぜてはならないとされるので,肉をバターでいためたり,肉とチーズをいっしょに料理することも戒律に反する。食物にたいする宗教的規制が比較的ゆるやかであるとされるキリスト教でも,かつては灰の水曜日から復活祭前夜までの46日間は,日曜日以外は肉食が禁じられていたし,現在でも金曜日には肉食をせず,代りに魚を食べる習慣を守る人々も多い。
→肉食
年中行事の食事には,民族の差をこえて世界の巨大文明圏に共通するものが多い。たとえば,ヨーロッパのキリスト教圏では復活祭に卵を食べたり,クリスマスにはケーキや特別な料理をするならわしがあるし,イスラム圏ではイスラム暦の12月メッカ巡礼のすんだ日には,動物を屠殺して食べる犠牲祭が民族の別なく全世界のイスラム教徒によって祝われる。中国,朝鮮半島,日本の東アジア世界は,歴史的に行事暦を共有していた地域であり,この3国の年中行事にともなう食事の内容も,それぞれの文化の料理体系をこえて共通するところが多い。祭りにともなう民俗行事の食事には,現在ではふだんは食べられなくなった食物が供されることがある。儀礼は過去の時間を再現する性格をもっているので,そのさいの食事には忘れ去られた過去の習俗が顔をだすのである。そこで,行事の食事を研究することによって,過去の食生活を復元する手がかりが得られるのである。日本民俗学では日常生活である褻(け)にたいして,年中行事や冠婚葬祭などの行事のときを晴という。晴の日は晴着を着てごちそうを食べるときである。晴の食事に強飯をともなうことが多いが,それはかつて正式の食事には炊いた飯ではなく,蒸した強飯が供されたなごりを示している。また〈かわりもの〉〈しながわり〉といって,餅,だんご,めん類など日常の食事では供されない料理が晴の日のごちそうに出される。手間のかかる餅つきや,粉製品(粉にひくのに手がかかる)を使った料理がごちそうとされたのである。
食べることは快楽の一種である。先にのべたように,高等宗教は飲食の享楽にたいして禁欲的な傾向をもつが,おなじキリスト教圏でもプロテスタント諸国よりもカトリック諸国のラテン系民族は,食事の享楽に肯定的である。東アジアでは中国人のほうが日本人よりも食べることに情熱をかたむけてきたといったように,食事のもつ快楽性の追求にたいする態度は,民族間で異なっている。
同民族のなかでも,食事の快楽性を追求できる階級の食事と,日常の食事は飢えをしのげればよいとする民衆の食事のあいだには落差が存在した。食事に関する文化は,歴史的にきわだった階級差をもって発達してきたのである。近代以前の社会において,うまい食物を集めることができ,高度の料理技術を発揮できる専門の料理人をかかえ,美食にふさわしい食事の場を構成する食堂や食器,召使がそろっていたのは,王侯,貴族,高級官僚,富豪などにかぎられていた。それぞれの民族の食事文化において,洗練された料理や食事作法を発達させたのは宮廷であった。日本の上流社会は食べることにそれほど執着しなかったようであるが,それでも日本料理の庖丁人たちの流派は,宮廷と幕府のおかかえ料理人に起源するのである。
中国をのぞくと近世以前の世界では,料理屋とよべるような上等の料理を外食できる施設はなかった。1765年にパリにはじめてレストランが出現するが,フランスでも市民たちが本格的に上等の外食を楽しめるようになったのは,大革命によって貴族のおかかえの料理人たちが職場を失って,町に料理店を開いてからのことである。日本においても江戸の町に料亭が出現するのは18世紀末であり,それは社会における町人の実力の蓄積と関係をもっている。西欧と日本における料理屋の発達は,美食にたいする階級差を解消させる糸口をつくったものであり,それは市民社会の成立ということと並行して進行した現象である。金さえ支払えばだれでも美食を楽しむことができるという原理によって運営される料理屋は,美食に参加する資格として問われてきた身分差を解消するものではあったが,経済的格差による階級差はいぜんとして残り,日本の大衆が〈食べ歩き〉を楽しむようになったのは,国民所得が上昇した昭和40年代になってからのことである。うどん屋,そば屋などは17世紀後半から江戸の町で流行していた。
漆器が発達した日本では木椀も重要な食器となっているが,一般に文明社会では陶器と金属器に食物を入れて食卓に供する。陶器の普及以前には素焼きの土器も食器とされたが,土器の使用が盛んではなかった民族のあいだでは,木器のほかに北アジアでは樹皮をつづりあわせた食器,サハラ砂漠以南のアフリカ大陸ではひょうたん製の食器,太平洋諸島ではココヤシの葉を編んだマットやバナナの葉に食物を盛ることがおこなわれた。木の葉をつづりあわせた葉椀は現在でもインドでは使い捨ての食器に用いられるし,日本の古代においても使用されたと考えられる。
食物を口に運ぶには,もともとは手づかみであり,現在でもアフリカ,中近東,インド,東南アジア,太平洋諸島,中南米の原住民のあいだでは,手づかみで食事をする手食の伝統が生きている。イスラム教徒,ヒンドゥー教徒のあいだでは,左手は不浄な手とされ,右手の指だけを使って食物を口に運ぶ。北アフリカのマグレブの一部でちゃぶ台状の食卓が使用されるし,中近東からインドにかけては大型の金属製の盆状の食卓が使われることがあるが,一般に手づかみの食事圏では食器は床の上に置かれることが多い。インドでは個人別に食物が盛り分けられるが,一般に手づかみの食事においては,食物を個人別の容器にとり分けることをせず,大皿や大鉢などの共用の食器に盛る。
古代中国で,はしとさじを使用する風習がはじまり,東アジア諸民族に伝わった。現在日常の食事にはしを使用するのは中国,朝鮮半島,ベトナム,日本である。はしの文化圏においては,個人用食器である椀が並用される。古代においては中国では飯もさじですくって食べたが,明代以後,飯にははしを使用し,さじは主として汁専用の道具になった。宋代からいす,テーブルの食卓をかこむこととなり,飯と汁は個人用の椀につぎ分けるが,他の副食物は共用の皿や鉢に直ばしをのばすのが中国での食べかたとなった。朝鮮半島においては伝統的に膳を食卓としたが,銘々膳にあたる独床のほかに兼床とよばれる2人用の膳も用いられる。中国の昔の食事方法が残り,飯もさじですくって食べる。朝鮮半島では金属製の食器がよく用いられることにも関係するであろうが,原則として食器を手でもって膳からとり上げることをせず,はし,さじですべての食物をとりあげて食べる。日本においては,奈良・平安朝の宮廷文化においては中国風にさじを使用したが,民衆のあいだにまでは浸透しなかったようで,その使用がやみ,食卓においてさじが用意されるのは,卓袱(しつぽく)料理や普茶(ふちや)料理に限られるようになった。
銘々膳が普及し,すべての食物をあらかじめ盛り分けて,膳の上に並べて供するという食事における食物の配給制が徹底したことが,日本の伝統的食べかたの特徴であり,それにともなって家族においても,誰の使用する食器かが区別され,食器の個人専用化がいちじるしい。
ナイフ,フォーク,スプーンを使用して食事をする風習が,ヨーロッパで普及するのは18世紀以後のことである。古代から,肉を切り分けるためのテーブルナイフは存在したが,1本のナイフで切り分けたのちには手づかみで食べた。中世にはスープも大鉢に入れて器に口をつけて飲みまわしたり,パンを浸して食べたり,1本のスプーンを回したりした。フォークがイタリアからフランスに伝わったのは16世紀のことである。ナイフ,フォーク,スプーンのセットが1人ずつに配られる食事方法に変化することにより,共用の大皿や大鉢に食物を盛ることから,一人ずつの皿に配られる食事方法に変化したのである。ヨーロッパの食器は皿を主とすることが特徴であり,スープまで皿に盛られる。
→食器
人類最古の生活様式である採集狩猟を生業とする民族では,1日のうちの食事時間・回数が一定していないことが多い。ツンドラ地帯でトナカイや海獣などの大型哺乳類の狩猟と漁労にしたがう北方狩猟民をのぞくと,一般に採集狩猟民の食生活においては,栄養的には植物性の食料の占める比重のほうが,動物性食料よりも高い。しかし,食物に対する価値観においては,動物性の食料のほうがはるかに上等の食品とされることがふつうで,肉が供されるときが,正式の食事とみなされる民族も多い。獲物が入手できたときが食事の時間となると,食事の時間や回数が不規則であることが多い。
人類は農業および牧畜という食料生産様式を採用することによって,規則的に食事をとることが可能となった。動物や魚の習性に応じて,人間が食料獲得の労働をおこなう狩猟や漁労の1日の生活のリズムは,本質的に不規則なものである。それに対して,人間が管理する作物や家畜を対象とした食料生産の労働では,規則的な生活のリズムを形成することが容易である。また,食料の生産を開始することによって,食料の安定した供給システムが形成され,食料の本格的貯蔵が可能になり,その結果,食料を計画的に消費して,1日の生活のリズムのなかで定期的に食事をすることができるようになったのである。
多くの牧畜民にとって,日常の食事に重要なのは肉ではなく乳製品である。肉を得るために家畜を屠殺すれば,所有家畜頭数はどんどん減ってゆくが,乳という栄養にすぐれた食品を利用して,家畜を殺さずに人間の食料を得るのである。乳はそのままでは腐敗してしまうが,バター,チーズなどの乳製品に加工して保存食として利用する。牧畜民の生活においては,朝夕2食が正式の食事とされる例が多い。朝,家畜群を家畜囲いから出して放牧に連れてゆき,日没前に家畜群を連れて帰るのが牧畜の生活である。この1日のおもな仕事の前後に食事をとるのである。
農業民の場合も,かつては1日2食が伝統的な食事回数とされた社会が多い。やはり,昼間になされる生業のうちの中心となるしごとの前後に食事をとることに由来するものであろう。しかし,目のはなせない家畜相手の労働である牧畜とはちがって,畑しごとのさいには自由に休憩時間を設定することが可能である。そこで,正式の食事のほかに,間食をとる習慣も成立するし,農繁期などにはなん度も間食をとることがおこなわれる。
ヨーロッパでも18世紀までは正式の食事は1日2食であった地方が多いし,日本でも3食が全国民に普及したのは江戸時代になってからのことである。武士のサラリーの最少単位とされた一人扶持は,1人1日5合の飯米を支給し,それを2.5合ずつ朝夕2度に分けて食べるという前代のたてまえが江戸時代にまで持ちこされたものである。
食事時間や食事回数の変化は,それぞれの社会において階級差,職業差,地方差をもちながら歴史的に変遷してきたことなので,世界における3食化の進行は一般論としてのべるのは困難であるが,巨視的にいうならば近世の文明社会において,照明の発達,普及にともなって,夜の生活時間が長くなったことに原因をもっている。晩食の時間がおそくなり,そこでもともとは正式の食事とはみなされなかった朝食あるいは昼食が正式の食事に昇格して,1日3食が決りとなったのである。西欧の近代社会で成立した役所や会社の制度,それにともなうオフィスや工場での勤務時間,学校教育制度と授業時間などが,植民地行政を通じて世界各地に影響をあたえていき,伝統的には2食であった社会にも3食の進行がおこったのである。その結果,朝食や昼食の地位が低下して,多くの社会で晩食が1日でいちばん重要な食事でごちそうを食べるときであるとされるようになってきている。たとえば,ドイツやオーストリアでは,コーヒーのほかは朝,晩は冷たい料理ですまし,火を使用した温かい料理は昼食に供される習慣をもっていた地方が多かった。現在では,郊外から都会へ通勤するサラリーマンは,昼に帰宅して食事をすることが困難になりつつあるし,通学する子どもが昼食に帰宅できない場合もあるし,共働き夫婦が増えたことなど,社会生活の変化に原因して,晩食が温かいごちそうを食べるときに変化した家庭が多くなった。
人口の多くが食料生産に従事していた農業社会や牧畜社会においては,家庭が食料の生産と消費の完結した単位であった。家族で生産したものを,家族で食べていたのである。現在の先進国の高度産業社会においては,家庭は食料の消費単位にすぎず,農家といえども自給自足的な食生活を送ることはできなくなっており,食料の多くを商品として買わなくてはならない。厳密にいえば,家庭は食料の消費単位としても完結性を失い,家族のなかの学童や勤め人は家庭外における料理である給食や外食の昼食をとることが多くなっている。基本的共食集団としての食事にたいして,家族のもっていた役割が低下しつつあることを示すものである。それに反比例する現象として,社会の側における食事にまつわる機構や設備が肥大している。レトルト食品,インスタント食品,冷凍食品など,調理ずみの食品や半成品を利用することが多くなり,家庭の台所しごとを,社会の側の台所である巨大化した食品産業が代行するようになってきている。料理技術や食事に関する情報も,家庭内の伝承よりもマスコミによる社会的情報として伝達されることが多くなってきている。現代における食品や食事に関する伝統的価値観を変革させているものに,栄養学的情報があるが,それも社会の側から投げかけられたメッセージである。また,社会の側の食堂であるレストランやスナックなどの外食産業が,家庭での食事の場にとって代わる場面も増加した。
執筆者:石毛 直道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…その狭義の日本料理は,世界的にみてかなり特異な性格のものであり,本項目は主としてその性格形成の過程とその特徴について略述する。日本料理の構成要素である個々の食品などについてはそれらの各項目を,また,世界の中での日本料理のありようを確かめるためには,人類の食生活の諸形態の分析解明を試みた〈食事〉〈料理〉〈肉食〉〈宴会〉などの諸項目を参照されたい。
[性格]
日本料理の性格を特異なものとした第1の要因は,日本の食生活が米食中心主義であったことに由来する。…
※「食事」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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