高知(読み)コウチ

デジタル大辞泉 「高知」の意味・読み・例文・類語

こうち〔カウチ〕【高知】

四国地方南部の県。太平洋に面する。土佐の全域を占める。人口76.5万(2010)。
高知県中央部の市。県庁所在地。もと山内氏の城下町。高知平野の中央部、鏡川の三角州に発達。浦戸湾に臨む。平成20年(2008)春野町を編入。人口34.3万(2010)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「高知」の意味・読み・例文・類語

たか‐し・る【高知】

〘他ラ四〙 (「たか」は高大の意でほめことば)
① 立派につくり構える。
※古事記(712)上「高天原に氷木(ひぎ)多迦斯理(タカシリ)(此の四字は音を以ゐる)て居れ」
② 立派におさめる。立派に統治する。
※万葉(8C後)六・九三八「吾が大王の 神ながら 高所知(たかしらせ)る 稲見野の」
③ 高く盛りあげる。
※延喜式(927)祝詞・祈年祭(九条家本訓)「(みか)のへ高知(タカシリ)(みか)の腹満(み)て双(なら)べて」

こうち カウチ【高知】

(河川の間にあったところから、高知城をもと「こうちやま(河中山・河内山)」と称したが、水害の多いのを忌んで、「高智・高知」の字に改めたのによるといわれる)
[一] 高知県中東部の地名。土佐湾奥の浦戸湾に面し、鏡川が貫流。安土桃山時代に、長宗我部氏が高知城を築城し、江戸時代には山内氏二〇万石の城下町として発展。JR土讚(どさん)本線が通じる。桂浜、五台山の景勝地がある。明治二二年(一八八九)市制。県庁所在地。
[二] 「こうちけん(高知県)」の略。

こう‐ち カウ‥【高知】

〘名〙 たくさんの知行(ちぎょう)。高祿(こうろく)
仮名草子・智恵鑑(1660)一「只一度よき働(はたらき)したるなどとて、いつもかくあらんかとおもひ、高知(カウチ)をあたへたっとむべき事にあらず」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「高知」の意味・わかりやすい解説

高知[県] (こうち)

基本情報
面積=7105.16km2(全国18位) 
人口(2010)=76万4456人(全国45位) 
人口密度(2010)=107.6人/km2(全国43位) 
市町村(2011.10)=11市17町6村 
県庁所在地=高知市(人口=34万3393人) 
県花=ヤマモモ 
県木=魚梁瀬スギ 
県鳥=ヤイロチョウ

四国の南半部を占め,四国山地を境に愛媛・徳島両県に接し,太平洋に臨む県。室戸岬と足摺岬が弓形の土佐湾を抱き,県域は北東~南西方向に長い。東の東洋町甲浦(かんのうら)から西の宿毛(すくも)市までは,直線距離で約170km,道路里程では約270kmに達する。土佐湾沿岸から四国山地中の県境まで,ほぼ30~40kmの幅がある。

現在の高知県は,かつての土佐国全域にあたり,明治維新まで土佐藩(高知藩)24万石の藩政が続いた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い高知藩は高知県に改められた。ついで74年愛媛県に属していた沖ノ島,鵜来(うぐる)島,姫島の3島(現,宿毛市)が高知県に移管された。76年高知県に名東(みようどう)県(旧,阿波国)が編入されたが,80年再び分離され,名東県は徳島県となり,現在の高知県域が確定した。

不動ガ岩屋洞穴遺跡(高岡郡佐川町)は微隆起線文土器,石槍,有舌尖頭器,矢柄(やがら)研磨器など縄文草創期の遺物と,押型文土器,打製石鏃,掻器など早期の遺物とを出土し,本県における縄文時代最初期の様相を示している。これに対し,縄文後半期の姿をよく伝えるのが,宿毛(すくも)貝塚(宿毛市)である。東西二つの貝塚からなり,後期の宿毛式土器をはじめ,各種石器,玦状(けつじよう)耳飾,骨製笄(こうがい),鹿角製品などを出土するほか,伸展葬の女性人骨も発見されている。入田(にゆうた)遺跡(四万十市)は四万十川の自然堤防上に位置する遺跡であるが,縄文晩期の突帯文土器(入田B式土器)と弥生前期初頭の重弧文系土器(入田Ⅰ式土器)とが伴出するばかりでなく,これらに伴って粗雑な打製撥形石斧や石庖丁が出土し,さらに入田B式の底部に籾痕もみられて,この地における縄文文化から弥生文化への移行の様子がわかる重要な遺跡となっている。この後,弥生時代の人びとは現在土佐の穀倉地帯ともいわれる香長(かちよう)平野を中心に河川流域に定住し,水稲耕作にもとづく生活を展開した。西見当(にしけんとう)遺跡(南国市)などがその代表的遺跡である。このほか四国では山中の洞穴で弥生文化の遺物が発見される例があり,狩猟のためとか祭祀的なものであるという説がある。なかでも竜河洞(りゆうがどう)遺跡(香美市)は石灰華につつまれた弥生土器が残っていることで知られる。土器は第Ⅳ様式に比定される凹線文系の竜河洞Ⅰ式が主で,鉄鏃,石錘,貝輪,鹿角および貝製垂飾などが伴出している。同様の立地の遺跡に鷹ノ巣遺跡(吾川郡いの町)や鬼ガ岩屋洞穴(香南市)などがある。カリヤ遺跡(南国市)は,1899年,地下30cmのところから広形銅矛が5本,あたかも木箱に入れてあったような状態で出土したことで知られる。

 古墳は土佐の中部以東にかけて多く分布するが,大和や吉備など先進地域にはくらぶべくもない。土佐で唯一の前方後円墳とされる曾我山(そがやま)古墳(宿毛市)は,また土佐で最古,5世紀代の古墳である。このほかほとんどが6~7世紀代の横穴式石室墳や小円墳である。なかでも舟岩古墳群(南国市)などが正式調査を受け,重要である。

 歴史時代では土佐国衙跡(南国市)や,高知空港拡張工事に伴う調査で室町時代末ごろの中世集落址として最近注目を集めている田村遺跡群(南国市)などがある。
土佐国
執筆者:

沖合を流れる黒潮の影響で,冬季でも土佐湾の海水温が15℃前後あり,湾岸一帯にはウバメガシ,ガジュマル,ツバキなどの暖温帯自然林景観がみられる。北には,屛風のような四国山地の山なみが連なって北西風を防ぎ,晴天が多く,南東部の室戸岬付近は無霜地で,土佐湾岸一帯ではほとんど積雪をみない。一方,梅雨期と秋の台風期には,県域の大部分を占める四国山地を中心に大量の降雨がある。高知市の年降水量2666mmは日本では多雨地に属するが,とくに山間部では,東部の魚梁瀬(やなせ)をはじめ3000mmをこす所が多い。四国山地は,瓶ヶ森(かめがもり)(1896m)をはじめ標高1500mをこえる峰が多く,ここから南へ中央構造線に並行して走る地質構造に関係して,東西方向に幾重にも山なみが並ぶ。中・下流が徳島県域に含まれる吉野川を除くと,四万十(しまんと)川,仁淀(によど)川,物部(ものべ)川,奈半利(なはり)川など多くの河川の全部または大部分の流域が県内の四国山地に含まれ,曲流峡谷を形成して豊かな水量を土佐湾に注いでいる。しかし低地は少なく,物部川,国分川,鏡川,仁淀川の各下流低地の総称である高知平野(最も広義)以外は,松田川下流に宿毛,四万十川下流に中村,新荘川下流に須崎,安芸(あき)川下流に安芸などの低地があるにすぎず,このような狭い低地に,古来漁・農村が集中して発達してきた。

 海岸線は大部分が単調で,沈水性の屈曲に富む海岸は中央部の浦戸湾,浦ノ内湾,須崎湾,南西部の宿毛湾,東部の東洋町甲浦港などに限られ,これら湾内には古くから阪神や九州方面との交易・連絡港が立地した。また長い海岸線は漁業の発達に適し,近海カツオ漁業が盛んで,土佐清水,宇佐(土佐市),室戸などの漁港が著名であるが,近時は,室戸をはじめ土佐湾東部の漁港には遠洋マグロ船が多く,南太平洋をはじめインド洋大西洋まで出漁している。中世の対明貿易の南海路にあたり,四万十川河口の下田港(現,四万十市)がその寄航地となった点や,1596年(慶長1)のスペイン船サン・フェリペ号浦戸漂着はじめ異国船の漂着,幕末の中浜万次郎の物語なども含めて,土佐湾が太平洋に大きく開いている地理的条件は,時代をこえて,土佐の性格にさまざまな影響を与えている。

 一方,県域の大部分を占める四国山地の山間部は,中世以降傾斜地の焼畑による耕地化などで開発が進展した。温暖多雨な気候に恵まれて,山間部では近世以来林業が盛んで,黒尊(くろそん)山(四万十市),白髪(しらが)山(長岡郡),魚梁瀬(安芸郡)に代表されるように,杉,ヒノキなどの生産が藩の財政をささえてきた。現在も林野率83.7%(1990)は全国第1位で,西南日本有数の国有林をもち,地場産業として重要である。とくに,第2次大戦後,仁淀川,吉野川,物部川,奈半利川などの上流部に,早明浦(さめうら),大渡(おおど),永瀬,魚梁瀬などのダムが建設され,最近は豊富な降水を受ける四国の水がめとしても重視されている。一方,吉野川と並ぶ四国の大河四万十川は,開発があまり進められず,自然をよく残していることで知られる。

かつて著名であった土佐の水稲二期作は大正期以降,高知平野,安芸平野に普及し,全盛期の1935年前後には県下作付けの1割に達した。しかし,第2次大戦後しだいに衰退し,とくに稲作減反政策期の1970年代に急減して,現在は物部川下流の香長(かちよう)平野の一部にわずかに残るにすぎない。台風の害を避け,狭小な平野や零細な経営規模を克服するために,土佐では温暖期間や日照時間の長いことを利用して,労働力を集中的に投下し,単位耕地面積当りの生産性を高めるという農業を行ってきた。これは現在の県を代表する施設園芸農業にもあてはまり,県平均単位面積当りの生産所得は,全国的に最上位のグループに入っている。戦前すでに,高知・安芸両平野に海岸砂地利用の促成栽培がみられ,阪神地方へ出荷されていたが,戦後は,ビニルハウスの普及,京阪神大都市圏の形成と市場の確立,交通条件の整備に伴って,輸送園芸地域として急速に成長し,近時は平野内部や県西部への拡大も著しい。キュウリ,ナス,ピーマンショウガのほか,メロン,スイカなど作物も多様化し,早稲,二期稲(晩稲)などの稲作も含めて,促成,抑制,露地などの栽培が組み合わされた経営がみられる。園芸野菜は年産800億円(1995)をこえ,米の4倍余を占めている。ほかに室戸市の早生ビワ,東洋町のポンカン,土佐市,香南市の旧香我美町の土佐ブンタンなど,地方色豊かな果樹類も特産する。戦後まで焼畑農業のなごりがみられた山間部では,四万十川中・上流部のシイタケ,仁淀川中・上流部の茶,奈半利川流域のユズなどを村おこしに導入する傾向がある。

製造業出荷額は全国で沖縄県に次いで下から2番目(1995),就業人口中の第2次産業人口比も最下位グループに属し,工業は振るわない。その中で,四国山地の資源と結びついた近世以来の地場産業が多いことは特徴的である。木材加工のほか,四国山地を中心に産出する石灰石(年産1500万t程度)は移出もされるが,伝統的な石灰製造業や明治期以降発展した近代セメント工業も立地させている。土佐市,いの町の旧伊野町を中心とする製紙業は,山間部のコウゾ,ミツマタを原料として,近世から昭和初頭まで藩や県の経済を支えた和紙業が発展し,大正期以降とくに第2次大戦後,機械漉(す)き製紙に転じた地場産業として知られる。このほか,浦戸湾岸の造船業,南国市から香美市の旧土佐山田町にかけての土佐打刃物(鎌,林業用なた,包丁など)も藩政期以来の伝統をもつ地場産業である。昭和10年代に労働力や電力にひかれて立地した紡績,電気化学,鉄鋼業や,戦後に農村とその労働力を背景に立地した農機具工業などの近代工業もあるが,一般的にその立地集積は進展していない。

県域は自然条件,歴史的背景,周辺とのかかわりから次の4地域に分けられる。

(1)高知平野とその周辺 高知市のほか南国,土佐,須崎,香南の4市と周辺の町村を含む。高知平野が中央に展開し,古代の国府,中世の細川氏(守護代)居館,長宗我部氏の岡豊(おこう)城,近世の高知城下町が立地し,低地には広く条里遺構が残る。台地や浦戸湾岸低地の新田開発地が多く,古来,土佐の政治,経済,文化の中心地となってきた。須崎(港町),佐川(小城下町),高岡・後免(ごめん)・土佐山田(市町),伊野(製紙)などの中心地は,近世以来の在町である。水稲二期作や施設園芸は主としてこの地域に展開し,工業も県出荷額の8割が生産されている。高知平野とその周辺を含めたこの地域には県人口の6割が集中するため,人口密度は県平均の約4倍に達し,なかでも高知市に県人口の4割が集中している。1935年の土讃本線全通に先立ち,明治末に後免(現,南国市)~伊野(現,いの町)間の土佐電鉄,大正末に須崎~土佐山田間の国鉄線(現,JR土讃線の一部)が通じ,交通不便の県内では,例外的に近代交通機関が発達した地域で,ほぼ全域が高知市への通勤圏である。土讃線,国道,高速道などで四国各地と結ばれるほか,高知港,空港(南国市)により阪神,東京,中京,九州,札幌と結ばれる。桂浜,五台山,竜河洞などの観光拠点がある。

(2)四国山地中央山間部 四国山地中央部,四万十,仁淀,吉野,物部など各河川の上流地域で,長岡郡の全域と,香美市および土佐,吾川(あがわ),高岡各郡の山間部町村からなる。林業を主とする山村で,過疎化が著しい。檮原(ゆすはら),越知(おち),本山,大栃(おおどち)などの小中心地があり,かつては交通不便な地であったが,国道化など道路の整備によって須崎,高知,愛媛県の宇和島などと直接結ばれるようになった。カルスト地形の天狗高原をはじめ,1800m級の山岳,渓谷など景勝・保養地が多い。

(3)幡多(はた)地方 県南西部にあたり,四万十,宿毛,土佐清水の3市と,幡多郡全域および高岡郡の一部からなる。県中央部と幡多地方とは,窪川台地などの地形的な障壁で隔てられているため,古来,〈土佐の孤島〉的性格が強かった。しかし1970年国鉄中村線(現,土佐くろしお鉄道)が初めて通じ,国道56号線も整備されて,こうした意識もうすれている。15世紀後半,関白一条氏の下向以来〈小京都〉として発達した四万十市の旧中村市が,地域の中心をなす。そのほかカツオ漁業,足摺観光基地の土佐清水市,近世の小城下町宿毛市などの中心地があり,片島港から大分県佐伯市へはフェリーの便がある。足摺岬,竜串,大堂(おおどう)海岸,沖ノ島などは,足摺宇和海国立公園に属する景勝地である。

(4)安芸地方 県東部,安芸,室戸の2市と安芸郡からなり,ほぼ室戸半島全域にあたる。安芸平野以外は大部分が山地で,奈半利川上流域の魚梁瀬の国有林をはじめ,古来林業地として知られ,河口の田野町,奈半利町はその集散地であった。安芸平野を中心に沿岸低地は施設園芸農業が盛んで,とくに地域西端の芸西村は県下一の園芸農家率を示す。マグロの遠洋漁業地の室戸市をはじめ漁村が多い。室戸岬付近の標式的海岸段丘景観は有名で,岬一帯は室戸阿南海岸国定公園に含まれている。
執筆者:


高知[市] (こうち)

高知県中央部の市で県庁所在都市。2005年1月旧高知市が鏡(かがみ)村と土佐山(とさやま)村を,さらに08年1月春野(はるの)町を編入して成立した。人口34万3393(2010)。

高知市北西部の旧村。旧土佐郡所属。人口1644(2000)。南は旧高知市に接する。北部山地から柿ノ又川と吉原川が南流して,南東部の川口で鏡川に合流する。役場所在地の小浜は古くから林産物の集散地として栄えた。かつては養蚕の盛んな地域であったが,現在は米のほかショウガ,ミョウガ,たけのこ,茶,梅,栗,ミカンなどを産し,特にショウガは全国に出荷されている。近年旧高知市への通勤人口が増加し,雪光山,樽の滝,平家の滝などは高知市民のハイキング地となっている。
執筆者:

高知市中東部の旧市で,県庁所在都市。土佐湾奥にひろがる高知平野に位置する。人口33万0654(2000)。市の中心部は浦戸湾奥の鏡川と,かつては大川であった江ノ口川にはさまれた沖積低地に位置し,近世の土佐藩の城下町から発達した。1889年旧城下町の範囲を踏襲して市制。1942年浦戸湾岸部を含む市域の拡大により旧市域がほぼ形成された。第2次大戦で,市街地の大部分を焼失したが,1955年以降の県人口の減少期にも,高知市への人口集中が進み,市街地の拡大が進行した。現在,住宅地化は鏡川沖積低地のみならず,浦戸湾岸一帯,国分川以東の高須,大津,介良(けら)地区にも及ぶ。都心部は高知城(現,県立公園)を中心に,県庁,市役所をはじめとする官庁,文教地区が隣接し,この東に中心商店街が連なる。明治末までに開通した土佐電鉄が,桟橋(高知市),伊野(いの町),後免(ごめん)(南国市)の3方面へ通じ,現在まで都市交通機関として機能している。大正末に,現JR土讃線が須崎から通じて高知駅が設置され,土佐電鉄も高知駅と接続するように延長された。播磨屋橋交差点付近の都心地区への通勤,通学,買物などの流入圏域は,高知平野一円,さらにその周辺に及び,県商業販売額の3/4は高知市が占めている。製造業は県出荷額の3割(1995)を高知市が占め,三里(みさと)地区を中心とする浦戸湾南部の造船,臨港地の潮江(うしおえ)地区にはセメント,電気化学,東郊大津地区の食品加工,下知(しもじ)地区には機械,金属などの各種企業がそれぞれ集積している。かつて製紙業などの盛んだった旭地区は,かつてパルプ廃液公害問題も生じ,衰退している。1935年全通した国鉄土讃本線(現,JR土讃線),国道32号,33号,55号,56号線で松山,高松,徳島,宇和島など四国主要都市と結ばれるほか,1998年には高知自動車道が高知市を経て伊野町(現,いの町)まで延伸された。高知港からは阪神方面へフェリー(2005年廃止)が通じる。南国市にある高知空港へは車で30分の距離にある。主要市街地は,0mを含む低地に立地するため,古来台風時の水害が多く,近年では1970年,76年に市街地の過半が冠水し,防災のための河川整備が進められた。市内には,眺望のよい高知城,五台山,筆山や浦戸湾頭の桂浜,種崎などの公園があり,市民の行楽地や観光拠点となっている。追手筋(おうてすじ)の日曜市は近世以来の街路市の伝統があり,市民や観光客でにぎわう。
執筆者:

土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。はじめ地形にちなんで河中と書かれたが,水害を忌み10年高智と改め,のちさらに高知となる。藩初は南北を鏡川と江ノ口川,東西は木屋橋,桝形の線で限る狭小な地域で,大高坂山上の城を取り囲む侍町と堀詰の水路をへだて東側に設けられた町人町からなり,後者にみられる山田,新市,種崎,浦戸,朝倉,弘岡,蓮池の諸町は,周辺の戦国期市場集落吸収の歴史を物語る。その後,東西にそれぞれ新しい町区(新町,上町)が発達,外側には足軽町が置かれるなど寛文年間(1661-73)までには城下町の基本形が成立する。1665年の記録によると,東西28町・南北8町の域内に2618戸(武家433戸,町人2185戸)の家数,町人町28ヵ町の人口1万7054のうち18種の職人1070人であった。

 藩政後期に入ると,新町や上町では士庶雑居の傾向が強まり,各所に枝町も発達,家数は1804年(文化1)で4704戸を数え,使者屋橋~播磨屋橋間掘割りの南北を新都心とする経済都市化が進行する。上方から阿波または東予を経た往還は,北東の山田橋から城下に入り,松山,大洲,宇和島方面に通ずる道は町の西端思案橋より発し,浦戸湾の水は堀川をさかのぼり堀詰に至っていた。特権的な町座としては,唐人町の豆腐,新堀材木町の林産物,納屋堀の海産物などが知られ,酒,灯油その他多くの商品も座株の対象で,在郷商人の台頭する藩政後期には,1820年(文政3)の商物方限令など城下商業保護策がとられる。

 町政は町奉行の支配下にあり,町方地下役として惣老,町庄屋,老および組頭がおかれ,惣老の地位はながく初期豪商櫃屋,播磨屋の独占するところであったが,寛政以降これに平野屋,辰巳屋,土種屋が加わっている。町方自治の議政機関たる町会所は,月3回の寄合を開き,1740年(元文5)以来京町にあり,1816年には10匁の町会所札を発行した。東西の町区と溝渠をへだててはさまれた中心部は郭中と呼ばれ,城の大手門および南口に近接した家老屋敷以下中老,馬廻,扈従組など上・中士層の屋敷域で,南北に与力町,本町筋西詰には桝形が設けられていた。災害では1698年(元禄11)の大火で城下全域が灰燼(かいじん)に帰し,1727年(享保12)には高知城も全焼した。幕末1853年(嘉永6)の町勢は,武家屋敷1102戸,町屋4069戸,寺院14であるが,明治維新により打撃をうけ一時的に衰退した。
執筆者:

高知市北部の旧村。旧土佐郡所属。人口1323(2000)。鏡川上流域に位置し,村の南縁は旧高知市,東縁は南国市に接する。四方を山に囲まれ,中央部を西流する鏡川の流域にわずかに耕地が開ける。かつては木炭,和紙,繭を産したが,近年はミョウガをはじめ,ユズ,たけのこ,ショウガなどの生産が多い。東端の鏡川最上流に鍾乳洞の菖蒲(しようぶ)洞があり,すぐ近くの初平(しよへい)ガ岩屋とともに弥生時代の遺物が出土した。北の土佐町との境にそびえる工石(くいし)山(1177m)にはシャクナゲの群落もある。

高知市南部の旧町。旧吾川郡所属。人口1万5506(2005)。仁淀川河口東岸に位置し,北から東は旧高知市,西は土佐市に接し,南は土佐湾に面する。北に吉良ヶ峰(きらがみね)(250m)を負い,南に弘岡平野が開ける弘岡上に,戦国期土佐七雄の一人に数えられた吉良氏の居城吉良城(弘岡城)があった。吉良氏は周防山口から南村梅軒を迎えてその講学を聴いたといい,南学(海南朱子学)発祥の地と伝えられる。江戸初期,野中兼山によって仁淀川東岸に4里に及ぶ弘岡井筋が築かれ,高知城下への物資輸送と吾川郡南部の灌漑に大きく機能,弘岡平野を土佐屈指の農業地帯とした。気候にも恵まれて早くから施設園芸も盛んで,キュウリ,ナス,メロンなどを産し,西畑(さいばた)の河原スイカや秋山大根,弘岡カブなどがよく知られる。イグサや花卉栽培も行われる。秋山には四国八十八ヵ所34番札所の種間(たねま)寺がある。寺号は弘法大師が唐から持ち帰った穀物の種をここにまいたという故事によるという。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の高知の言及

【土佐国】より

…土州。現在の高知県。土左国,都佐国とも記す。…

※「高知」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」